第50話 兄貴
「……ブルーノ」
ガレスの声が、廃村の井戸端に落ちる。
その声に、若者たちのざわめきが一瞬だけ止まった。椀を持った者も、短槍に手を伸ばしかけた者も、泥のついた手で桶を押さえていた者も、皆が井戸の縁に目を向けた。
そこに座っていた大男が、ゆっくりと顔を上げる。
乱れた髪。大きな肩。膝の上に置かれた、太く無骨な大棍棒。
ブルーノだ。見間違えようのないほど、ブルーノだった。
ブルーノは、その声を聞き、ガレスを、それから、隣に立つエルヴィンを見た。
さらに後ろ、崩れた石垣の陰に下がっている村長代理と南畑の男へも目を向ける。
そして、にやりと笑いながら口を開いた。
「遅せえじゃねえか」
ガレスは少しだけ息を吐いた。
言いたいことはいろいろとあったが、出てきた言葉は短かった。
「生きていたか」
「見りゃ分かんだろ」
「そうだな」
「お前もな」
「ああ」
それだけだ。抱き合うこともない。笑うこともない。ただ、互いに生きていることだけを確かめた。
だが、廃村の若者たちはそうはいかなかった。
「親分の知り合いだ」
「槍の人、親分の仲間か」
「帝国兵じゃないんですか」
「灰色じゃないよな」
「親分!」
「親分じゃねえ!」
ブルーノの怒鳴り声が飛ぶ。それで何人かは肩をすくめたが、黙りはしなかった。
石垣の陰から、村長代理の声がした。
「知り合い、なのか」
声は硬く、怖がっている。だが、退こうとはしていない。
「ああ、よく知っている」
ガレスはなんとも言えない複雑な顔をしながら答えた。
「では、仲間か?」
「半分違う」
「何が違うのだ」
ガレスは、廃村の若者たちに視線を向けた。
椀を抱えた者。棒を握る者。目を泳がせる者。腹を押さえる者。どれも、ガレスの知る顔ではなかった。
「こいつらは知らん」
村長代理の顔がますます険しくなる。
「その大男は知っているのだろう」
「知っている」
「それで、知らんと言うのか」
「知っている男がここにいることと、ここにいる全員を知っていることは違う」
エルヴィンが静かに説明するように言った。
手は腰の短剣の近くにある。だが、まだ抜いてはいない。
村長代理は、納得した顔ではなかったし、南畑の男も、鍬を握ったまま廃村を見ている。
そうこうしていると、ブルーノが大棍棒を膝からどけて立ち上がり、周りの若者たちが少しだけ後ろに下がった。
「ガレス」
「ああ」
「エルヴィン」
「生きている」
「アズールはどこだ?」
ブルーノの声だけが、そこで変わった。
低く、確かめるように。
ガレスは答える前に、ほんのわずか黙った。
むしろガレス自身が聞きたい問いだ。
「……分からん」
ブルーノの顔から、少し色が消えた。
諦めてはいない、そういう顔ではあるが先ほどまでの喜びだけでもなくなっていた。
「カインは」
「分からん」
「ノエルは」
「分からん」
「ニルスは。トマは」
「分からん」
ブルーノは、歯を食いしばった。
大棍棒を握る手に力が入る。
「……誰が分かってんだよ」
「今は、お前が生きていることだけだ」
ガレスは言った。
ブルーノは、何か言い返そうとして、やめた。今、ここで声を荒げても仕方のないことだとわかっているのだ。
鍋の薄い湯気が、その間を細く上がっていく。
「分かっている者から数えるしかない」
エルヴィンが少し顔を伏せ、声を落として言った。
「数えるのは苦手だ」
ブルーノが面白くなさそうな顔で低く返す。
「知っている」
「なら言うな」
「言わねば、お前は数えん」
ブルーノは舌打ちした。
だが、それ自体は間違いのないことでもあったので、顔を歪めるだけでそれ以上言い返すこともできなかった。
ガレスはブルーノの様子を見た後、その周りに目を向けた。
「いったい何人いるんだ?」
「知らねえな」
「数えていないのか」
「数えていたら増えやがった」
「答えになっていない」
「最初は十くらいだったなあ」
ブルーノは不機嫌そうに言った。
「その後、勝手に来た。野盗くずれ、逃げ兵くずれ、自警団くずれ、荷運びの人足。腹が減った奴。帰る村がねえ奴。帰っても殴られる奴。知らねえ奴が知らねえ奴を連れてきた」
「追い返さなかったのか」
「帰る場所がねえって言うからよ」
「それで受け入れたのか」
「受け入れてねえ、勝手に増えんだよ」
ブルーノは、本当に迷惑そうに言った。
だが、ガレスには分かった。追い返せなかったのだ。
ブルーノは乱暴で、雑で、すぐ怒鳴る。だが、帰る場所がないと言う者を、棒で叩き出すほど冷徹なやつではない。
エルヴィンは、廃村をもう一度見回しながら少し考えこんでいた。
「野盗が混ざってるにしては、奪ったものが少ないな」
「奪るなって毎日言い聞かせてたからなあ」
ブルーノがやれやれといった雰囲気で言った。
「流民にしては、武器も多い」
「持ってた奴もいたと思うぜ」
「兵にしては、並び方を知らん」
「兵やってたやつなんていたっけなあ」
ブルーノのその言葉に、数人の若い男たちがびくりと肩を揺らしていた。
「村にしては、家族に見える者たちがいない」
「女と子供は入れるなって言ったからな」
ブルーノの答えに、エルヴィンは少しだけ眉を寄せた。
「では、こいつらはいったい何なのだ……」
村長代理が困ったような、恐れるようななんとも言えない顔をしてエルヴィンへ問いかける。
エルヴィンは、すぐには答えなかった。少し考えこんだ後、ため息交じりに口を開いた。
「ただの半端者だ」
若者たちの何人かが、互いの顔を見回した。ただ、怒る者は誰もいなかった。むしろ、言われ慣れているような顔がいくつかあり、頷くものまでいた。
「……半端者、か」
村長代理が呟く。
しかし、納得したような顔ではない。
「野盗ではないと言いたいのか」
「そうは言っていない」
エルヴィンは、鍋の前の列を見た。
そして、ブルーノに目を向けている若者たちの顔を見た。
「今は、まだ野盗になりきっていない。そういうことだ」
その言葉を聞いた南畑の男が、一歩前に出た。
「俺の畑の芋を抜いた奴がいる」
廃村の空気が、少し変わった。
何人かの若者が目を逸らす。一人は椀を持った手を下げた。別の一人は、何か言おうとして口を閉じた。
ブルーノの顔が険しくなる。
「誰だ」
半端者の若者たちは、誰も答えない。
「誰だって聞いてんだ」
「ちゃんと戻した」
若者の一人が、小さく言った。
年は若い。弓を持っていた者の一人だった。
「戻せば済む話なのかあ?」
「親分が畑から盗るなって、だから戻して……」
「まず盗るんじゃねえよ!!」
「すみません!」
「親分じゃねえ!」
怒鳴り声が響いた。
少しだけ笑いかけた者もいたが、南畑の男の声で消えた。
「根を切って、葉を折ってしまっては、土を戻しただけでは元には戻らん」
若者は黙った。
「畑は勝手に生えるんじゃない。土を起こして、種を置いて、水を見て、草を抜いて、守って、ようやく食える。抜いて戻せば同じと思うなら、畑を知らんのだ」
廃村の若者たちは、誰も返せなかった。
ブルーノも、すぐには怒鳴らなかった。
ただ、弓の若者を睨んだあと、南畑の男へ目を向けた。
「悪かった」
短い言葉だった。
南畑の男は、驚いたようにブルーノを見た。
村長代理も、少しだけ目を細める。
「謝っても戻るわけではない」
「ああ」
「なら、どうする」
「畑には入らせねえ」
「それで食えるのか」
ブルーノは答えなかった。
いや、正確には答えなんて持っておらず、何も言えなかっただけだったが。
エルヴィンが、鍋や少し先に見える家や廃村の状況に目を向けながら口を開く。
「そこが問題だな……」
鍋の前には、まだ列があった。乱れているが、それでも列だった。
列があるということは、まだ今は秩序があるってことだ。だが、鍋が薄いことは、今の状況は長くは続かないということでもあった。
「親分」
「親分じゃねえ」
丸顔の若者が、おずおずと声を出した。
「その槍の人は、親分の昔の仲間なんですか」
「違ぇよ」
ブルーノが即座に言う。
「兄弟分ではある」
ガレスが丸顔の若者に視線を向けて言った。
「おい」
「間違ってはいない」
ブルーノは、否定はしなかったが、とても嫌そうな顔をしていた。
そんなことに気が付かないのか、気にもしないのか丸顔の若者の目が明るくなる。
「じゃあ、兄貴だ!」
「誰がだ」
「槍の兄貴」
ガレスの眉が少し上がる。
嫌という感じでもないが、受け入れたという様子でもない。
「それと、そっちの静かな兄貴」
「静かな兄貴?」
エルヴィンが眉をひそめた。
「やめろ」
「兄貴!」
「やめろと言った」
若者たちの間に、小さな笑いが起きた。
ブルーノが睨むと、笑いは半分ほど消えたが、残り半分は消えなかった。
村長代理と南畑の男は、笑わなかった。
それでも、先ほどまでの張り詰め方とは少し違っていた。
「今日はいったん戻る」
少し場が落ち着いたころに、村長代理たちに視線を向けてエルヴィンがそう口にした。
ブルーノは、少し残念そうな顔をしながらガレスへ目を向ける。
「もうか」
「夜が近い。村の者を戻さねばならん。それに、お前たちをすぐにどうこうできん」
「明日も来るんだな」
ブルーノがガレスに聞いた。
「ああ」
「忘れんなよ」
「お前とは違う」
「なら大丈夫だな」
ふと、お互いに表情が緩んだ、その時だった。
「止まれ」
廃村の外、南の古い道の先から声がした。
エルヴィンの手が、短剣の近くで止まり、ガレスは槍を手に持ったまま、そちらを向いた。ブルーノは大棍棒を肩に担ぎ直す。
木の間に、槍の穂が見えた。
二人。いや、三人。訓練された兵の立ち方だった。だが、鎧も旗も、中央の正規兵という感じでもなく、東南地方の雰囲気を感じさせる出で立ちだ。
向こうの兵も、こちらをまじまじと見ていた。
「……お前たち」
歩哨の一人が、目を細める。
「どこかで見た顔だな」
エルヴィンも、同じように目を細めた。
「こちらもだ」
「名を言え」
「そちらからだ」
「帝国前哨、ロイター隊預かりの外縁警戒だ」
その名に、ガレスとエルヴィンが反応した。
ブルーノは知らない顔をしたが、大棍棒を下ろしはしなかった。
……おそらく本当に覚えていないのだろう。
「ロイター隊か!」
ガレスがはっとした顔をしながら言葉を紡いだ。
「知っているのか」
「我らは、ヴェルナー子爵家、オルステッド隊預かりだった者だ」
歩哨の一人が、驚いたように顔を上げた。
「オルステッド隊?」
「ああ」
「エスター男爵家の分遣隊か」
「そうだ!」
歩哨は、隣の兵と顔を見合わせた。
「……アズール殿のところの」
その名が出た瞬間、ブルーノが一歩前へ出た。
「アズールを知ってんのか」
歩哨の槍先が少しだけ上がる。
ガレスが手でブルーノを制した。
「ブルーノ!」
「知ってんのかって聞いてんだ!」
「知っている、というほどではないが……」
歩哨は警戒を残したまま答えた。
「ただ、その名はこの先に構えている前哨拠点で聞いた」
「どこにいるんだ?」
ガレスははやる気持ちを押さえて、なんとかゆっくりと聞いた。
「アズール・エスター殿は、帝国側の前哨拠点にいる」
ブルーノの手が、大棍棒の柄を強く握った。
「生きてんのか」
「少なくとも、俺が見た時は」
この歩哨たちの話によれば、あの壊走の出来事があったあと、アズールはカインと共になんとか逃げ落ちて、帝国の前哨拠点にたどり着けたらしい。
二人とも大きな怪我はなく、今は同じく逃げ落ちたロイター隊の近くに留め置かれているらしい。
ノエルやトマ、ニルスの詳細は分からなかった。
オルステッド隊は被害を出しつつも、何とか引いて体勢を立て直しているらしい。
そこに混ざっている可能性もある。
だが、歩哨たちも名までは知らなかった。
全部が分かったわけではなかった。けれど、何も分からなかった時よりは、ずっとましだった。
ブルーノは、低く呟いた。
「アズールは生きてんだな!」
「少なくとも、アズール殿については、俺が直接、この目で見ている」
「ならいい!」
よくはない。誰もそう思った。
それでも、ブルーノにとっては、まずそれだけでよかったのだろう。
次の瞬間、ブルーノは大棍棒を担ぎ直した。
「よし、行くぞ」
「まあ、待て」
エルヴィンがブルーノの歩みに割って入るように体を挟んだ。
「邪魔するなよ、いくらお前でも容赦しねえぞ」
「落ち着け、じきに夜になる。廃村の連中はどうするのだ」
「俺は親分じゃねえ」
「そう言うが、お前が動けば全員が動くぞ」
ブルーノは振り返った。
鍋の前の列が、こちらを見ている。椀を持った若者たちが、何も言わずにブルーノを見ている。弓の若者も、丸顔の若者も、桶を抱えた者も、泥だらけの者も。
「……面倒くせえ」
「そうだな」
ガレスが少し笑いながら満更でもなさそうな顔で口を開く。
「だが、捨てて行く漢ではないだろ」
ブルーノは、何も言い返さなかった。
ただ、面白くなさそうに腕を組んで顔を背けていた。
歩哨たちは、廃村の中を見て顔をしかめている。
村長代理も、南畑の男も、黙っていた。
「明日、また来る」
ガレスが声を少しだけ穏やかにして言った。
アズールは生きて、そして今すぐ危険な状態ではないことが分かったのだ。
はやる気持ちはあるが、焦る必要はなくなっている。
村長代理は、南畑の男に目を向け、小さく頷いた。
今夜、村へ持ち帰る話は多すぎた。
「前哨へ向かう話も、また明日ここに来てからだ」
エルヴィンが続ける。
「遅れんなよ」
ブルーノは顔を背けたまま言った。
「お前とは違う」
「なら大丈夫だな」
丸顔の若者が、椀を持ったまま手を振った。
周りの若者たちも合わせたように手を振る。
「槍の兄貴、また明日!」
「誰が兄貴だ」
ガレスが言うより早く、エルヴィンが低く言った。
「静かな兄貴も!」
「やめろ!」
廃村の奥で、ブルーノが大棍棒を肩に担ぎ直した。
「おい、兄貴どもが帰るぞ。見張りは目ぇ開けとけ。畑には出るな」
「はい、親分!」
「親分じゃねえ!」
ガレスは振り返らなかった。
だが、背後の怒鳴り声は、さっきより少しだけ強かった。




