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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第48話 南の畑


 粥に豆が入るようになってから数日が過ぎた。


 粥の入った桶は、同じ場所に置かれるようになっていた。

 納屋の外壁から、数歩。ガレスが手を伸ばして届く距離ではない。だが、初めて置かれた時よりは、明らかに近い。


 そして村は、まだ二人を中へ入れてはいなかった。

 井戸にも、女にも、子供にも、近づけさせなかった。


 それでも、桶は同じ場所に置かれる。

 椀も、同じ場所に置かれる。中身は、薄い粥の日もあれば、ただのお湯の日もあった。それでも豆が二つ入る、そこだけが今は違っていた。


 ガレスは受け取った分だけ、外の柵、水路を見た。そして倒れた杭を起こし、緩んだ縄を締め、見張り台の足場を踏んで確かめた。


 エルヴィンは、それを横で見ていた。見ているだけではない、とガレスは思う。

 実際、エルヴィンは見ているだけではなかった。どこを塞ぐか、どこを残すか、どこは直しても無駄か、どこから人が入れるか。そういうことを、黙って拾っていた。


「そこは締めるな」


 エルヴィンが言う。


「なぜだ」


「そこを締めると逃げる時に引っかかる」


「締めなければ入られるではないか」


「入られる。だからこそ、出られる場所も残さねばならん」


 ガレスは縄を手にしたまま黙った。

 村の柵は、守るためのものだ。だが、逃げるための隙間もいるという。その考えは、ガレスにはすぐに飲み込めなかった。


「全部は守れんぞ」


 エルヴィンが柵を見ながら口を開く。


「分かっている」


「分かっている顔ではないな」


「……分かっている」


「なら、そこは締めるな」


 ガレスは縄を放した。


 村の内側では、老人がそれを見ていた。見るだけで何も言わなかった。ただ、少しだけ顎を引いた。それが、よいということなのか、どうでもよいということなのかは分からなかった。


 昼前、いつもの少年が椀を持ってきた。老婆も一緒だ。

 少年は、もう走って逃げない。だが、近づきすぎもしない。どこまでなら怒られないかを覚えたらしく、その線の手前で止まる。


「今日は焦げが少ないよ」


 少年が明るい声で言った。


「そうか」


「豆は今日はないんだけど」


「十分だ」


「十分じゃないよ」


 老婆が横から苛立った声をあげる。


「足りないね。けど、足りないままで済ませるしかないのが、今の飯さね」


 ガレスは黙って頭を下げると、老婆は、ふんと鼻を鳴らした。


「そうだ、南の畑ね、もう子供は行かないよ」


 少年が、椀を置きながら言うと、老婆の手が少年の襟を掴む。


「余計なことを言うんじゃないよ」


 ガレスは少年と老婆を交互に見ながら口を開く。


「なぜ行かないのだ」


 少年は老婆を覗き見ていた。

 老婆はしばらく黙っていたが、やがて少年の襟から手を離した。


「取られるからだよ」


「何を取られるんだ」


「芋。豆も少し」


 老婆を気にしながら少年が答える。


「最近の話か」


「最近の話さ」


 老婆が言った。


「南の畑だけか」


「南が多いね。北もまったくないとは言わないけど、北はあんたらがうろついてる」


「うろついているつもりはない」


「うろついてるんだよ」


 老婆はそう言い、南へ目を向けた。村の外れには、草に埋もれた古い道がある。その先に、今は誰も住んでいないはずの村がある。先日聞いた、空の村だ。


「今も盗られているのか」


 ガレスも南へ目を向ける。


「前ほどじゃないね」


「なら、よくなったのではないか」


 ガレスがそう言うと、老婆は目を細めた。


「そう思えるなら、あんたはまだこの辺に慣れてないね」


「どういうことだ」


「腹を空かせた野盗なら、畑を見りゃ抜く。なのに抜かない。見て、うろついて、戻っていく」


「誰かに止められているのか」


「さあね。けど、野盗に『待て』と言える奴がいるなら、それはそれで怖いだろう」


 エルヴィンが、ゆっくりと南を見た。


「若い男たちか」


「見たのかい」


「見てはいない。だが、足跡は見た」


 老婆は少し黙った。

 少年がまた口を開く。


「走ってたよ」


「何が走っていたんだ?」


「男の人たちが畑の端で。棒を持って、布を広げて、急に走って、転んでた」


「何をやっていたかわかるか?」


「うーん、わかんない」


「村へ来たのか」


「来てないよ。畑にも、あんまり入らないし」


「では何をしている?」


「だから、わかんないって」


 少年は少しむっとした顔をした。ガレスは少年を責めなかった。少年は見たものを言っているだけだ。


「棒と布か」


 エルヴィンが考えながらこぼす。


「袋も」


 少年が付け足す。


「袋」


「うん。あと、弓を持ってるのもいた」


 ガレスは眉を寄せた。


「弓か」


「下手だったよ」


 少年はあっけらかんとした様子でそう言った。

 老婆が少年の頭を軽く叩く。


「弓の上手い下手なんざ、見てるんじゃないよ」


「だって、外してた」


「だから見てるんじゃない」


 老婆は少年を村の方へ押し戻そうとした。その時、村の南側で犬が吠えた。短い吠え声だ。一度。それから、続けて三度。


 村の空気が変わる。


 井戸の方にいた女が、桶を抱えて家へ戻り、子供が戸口から引っ込められる。

 畑へ向かおうとしていた男が、鍬を持ったまま足を止めた。その足元には、古い槍が置いてあった。

 村長代理が、南側の柵へ向かって歩いてくる。手には槍を持っている。

 ここ数日は持たずにいた槍だ。


「南か」


 ガレスが目を細めて言った。

 エルヴィンは答えなかったが、すでに南を見つめている。


 村人たちは、南を見て、それからガレスへ目を向けた。

 助けを求める目ではない。命じる目でもない。ただ、そこに槍を扱える男がいることを、思い出した目だった。


 ガレスは、納屋の外壁に立てかけた槍を取る。

 刃は下げたままだ。村へは向けない。


「見に行くのかい」


 老婆がため息を吐きながらガレスを見つめる。


「まずは見るだけだ」


「見るだけで済むなら、誰も戸を閉めやしないよ」


「それでも誰かが見ないとな」


 ガレスは南へ足を向け、エルヴィンも横に並ぶ。



 村の南側の外柵は、北よりも低い。もう使っていない柵だと、村長代理は言っていた。たしかに、修理はされておらず、木は乾き、縄は古く、ところどころ草に飲まれている。

 その先に畑があり、さらに向こうに、農道がある。


 農道に、三つの影が立っていた。

 若い男たちだ。


 弓を持っている者、棒を持っている者、布のようなものを両手で広げている者。

 少し離れて、袋を持った男もいる。四人目だ。

 服はばらばらだった。兵には見えないが農民にも見えない。灰衣かと聞かれれば、そう見えなくもない。だが、灰衣と呼ぶには、布も色も揃っていない。


「見えるか?」


 村長代理が低く言った。


「あれだな」


「あれだ。最近、ああいうのが出る」


 ガレスは答えず、若い男たちを見た。


 棒を持った男が、畑の端を叩き、布を持った男が腰を落とすと、弓を持った男が、何かに狙いをつけるように腕を上げた。


 次の瞬間、三人が急に走った。


 ガレスは槍を握り直した。

 だが、三人は村へ向かってはこず、畑へ深く入ってもいかない。ただ、畑の端を横へ走り、用水路の手前で止まり、一人が足を滑らせて、泥が跳ね上がる。

 袋を持った男が、何かを掴もうとして転びかけ、踏ん張っている。


 遠くで若い男の声がした。


「そっちだ!」


 別の声が返る。


「違う、逃げた!」


 さらにもう一つ。


「そこは駄目だ、怒られるぞ!」


 風に千切れて、言葉はそこまでしか届かなかった。


「畑を狙っているのか」


 ガレスが男たちへ目を向けながら言った。


「なら、入るだろう」


 エルヴィンは短く答えた。


「入っていないな」


「ああ」


「村を見ているのか?」


「見ている時もあるが、そういう感じではないな」


「では、あれは何だ」


「……分からん」


 エルヴィンがそう言うと、村長代理が顔をしかめた。


「分からんことばかりか」


「分かっていることの方が少ない」


 ガレスは若い男たちを見続けた。

 彼らは、畑の芋を抜かない。豆にも手を出さない。用水路の脇で泥だらけになり、布を広げ、棒を振り、林の方へ手を振っている。


 野盗なら、畑を荒らすし、逃げ兵なら、食えるものを探す。灰衣なら、粥場か人の集まりを探すはずだ。

 だが、奴らは何を求めているのか分からない。


「盗ってはいないな」


 エルヴィンが訝し気に言葉をこぼす。


「よいことではないのか」


 村長代理が不審がりながらエルヴィンへ目を向ける。


「ただの飢えた野盗なら、盗るはずだ」


「では、何だというんだ」


「わからんが……怒られると言っているからな」


 村長代理は言葉を失った。

 その顔からは、少し血の気が引いていた。


「南に、野盗の頭がいるということか」


「いるかもしれん」


「どれほどの」


「それは分からん」


 エルヴィンは、農道のさらに向こうを見た。

 草に埋もれた古い道。空の村へ続く道。


「だが、あの連中は戻る場所を持っている」


「なぜ分かる」


「あそこに立つ者は、帰る方を気にしている」


 ガレスも見た。

 確かに、若い男たちは時々南を振り返る。村を見るよりも、南を見る回数の方が多い。逃げ道を気にしているのか。戻る場所を気にしているのか。それは分からない。


 不意に、弓を持った男がこちらを見た。

 ガレスと目が合った、ように思えた。距離がある。はっきりとは分からない。

 だが、男は動きを止め、棒を持った男も止まる。布を持った男が、慌てて布を丸めた。


 ガレスは一歩前へ出た。槍の刃は、まだ下げたままだ。


「待て」


 エルヴィンが手で制しながら言う。


「分かっている」


「追うな」


「まだ追っていない」


「今、追う足だったぞ」


 ガレスは足を止めた。


 若い男たちは、しばらくこちらを探るように見ていた。

 それから、袋を持った男が何かを叫ぶ。声はここまでは届かない。ただ、その後、四人は相談するように固まり、やがて農道から南へ引いていった。逃げるというほどではない。だが、こちらへ来ることもなかった。

 日が傾く前、若い男たちは南の古い道へ消えた。


 畑は荒らされていなかった。芋も、豆も、抜かれていない。

 ただ、農道には足跡が残っていた。用水路の泥にも、畑の端にも、林の縁にも、若い男たちの足跡があった。

 村へ向かう足跡ではない。南へ戻る足跡だった。


「取らなかったな」


 村長代理が足跡を見ながら言った。


「今日はな」


 エルヴィンが答えた。


「明日は分からん、か」


「そうだ」


 老婆が、いつの間にか後ろに来ていた。

 少年はその少し後ろにいる。


「分からないものは、全部怖いんだよ」


 老婆はそう言った。


 ガレスは南の道を見た。

 空の村。誰も住んでいないはずの村。だが、そこへ続く道には、新しい足跡がある。


「南を見るか」


 ガレスが南へ目を向けて口を開く。

 村長代理が振り返る。


「今見ているだろう」


「あの男たちではない。戻る先をだ」


「空の村へ行くつもりか」


「そこが本当に空か確かめればよい」


「空でなければ?」


「それを確かめる」


 村長代理は黙った。

 老婆が舌打ちをする。


「見に行く馬鹿がいるなら、あたしが叱ると言ったはずだよ」


「叱られるのは戻ってからにするさ」


「戻るつもりはあるんだね」


「ある」


「なら、まだましだ」


 エルヴィンが足跡から目を上げた。


「道を知る者が要る」


「お前たちだけで行けばいい」


 村長代理が嫌そうに言う。


「迷えば帰りが遅れる。帰りが遅れれば、夜になる。夜になれば、なおさら道が怪しくなる」


 まだ日は残っている。だが、迷えば夜になる。夜になれば、南の古い道は、ただの草むらと変わらなくなる。


「……誰を連れていくと言うのだ」


「村の道を知る者だ。できれば、南の畑も知る者がいい」


 村長代理はしばらく考え、それから短く息を吐いた。


「俺が行く」


「村を空けるのか」


 ガレスが聞く。


「空けて困るほどの村ではない」


 村長代理は南の畑を見た。


「だが、畑を捨てれば村ではなくなる」


 その言葉で、村の者たちが黙った。

 村長代理は、柵の内側にいた老人へ目を向け、老人は何も言わず、古い槍を取りに家の方へ戻る。


「もう一人」


 エルヴィンが言った。


「南の畑を知る者がいるはずだ」


 村長代理は村の内側へ声をかけた。しばらくして、一人の男が出てきた。

 年は三十を過ぎたくらいだろうか。顔は日に焼け、手は太い。腰には刃物を差しているが、手に持っているのは槍ではなく、鍬だった。


「俺の畑だ」


 男はそう言った。


「槍はあるか?」


 エルヴィンが鍬を見ながら確認する。


「家に一本ある。だが曲がっている」


「その鍬で行くのか」


「畑へ行くんだ。鍬でいい」


 エルヴィンは男を見て頷いた。


「走れるか」


「畑仕事で鍛えてる」


「戦は」


「知らん」


「なら、戦うなよ」


「大丈夫だ、そうなりそうなら逃げる」


 ガレスは槍を持ち直し、村長代理は古い槍を手にしている。

 南畑の男は鍬を握り、エルヴィンは腰の短剣を確かめた。


「斬りに行くんじゃないぞ」


 エルヴィンが確かめるように言った。


「分かっている」


 ガレスは頷いた。


「本当に分かっているか」


「見るだけだ」


「見つかった時の話をしている」


 ガレスは少し黙った。


「その時は退く」


「それでいい」


 老婆が、少年の肩を掴んだまま四人を見ていた。


「日が落ちる前に戻りな」


「ああ、戻る」


 ガレスは短く答えた。


「戻らなきゃ、粥はやらないよ」


「それは困るな」


「困るなら戻りな」


 少年が小さく言った。


「戻ってくるの」


「ああ」


「南の男たち、何してたの」


「分からん」


「分からないのに行くの?」


「分からないから行く」


 少年は、分かったような、分からないような顔をした。

 先日の時と同じ顔だ。



 四人は、南の古い道へ入った。


 道は草に埋もれていた。だが、消えてはいなかった。

 踏まれた草があり、折れた茎がある。用水路の泥が乾かないうちについた足跡もある。


 一人や二人ではない。

 裸足や草鞋、底の擦れた靴の跡もある。荷を引きずったような跡も、細く残っていた。


 南畑の男が、鍬を握り直した。


「……空の村だと、聞いていたが」


 村長代理は黙っていた。

 ガレスは槍を下げたまま、道の先を見る。


 エルヴィンは足跡の先を見た。

 そして、短く言った。


「空の村にしては、道が生きている」


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