第48話 南の畑
粥に豆が入るようになってから数日が過ぎた。
粥の入った桶は、同じ場所に置かれるようになっていた。
納屋の外壁から、数歩。ガレスが手を伸ばして届く距離ではない。だが、初めて置かれた時よりは、明らかに近い。
そして村は、まだ二人を中へ入れてはいなかった。
井戸にも、女にも、子供にも、近づけさせなかった。
それでも、桶は同じ場所に置かれる。
椀も、同じ場所に置かれる。中身は、薄い粥の日もあれば、ただのお湯の日もあった。それでも豆が二つ入る、そこだけが今は違っていた。
ガレスは受け取った分だけ、外の柵、水路を見た。そして倒れた杭を起こし、緩んだ縄を締め、見張り台の足場を踏んで確かめた。
エルヴィンは、それを横で見ていた。見ているだけではない、とガレスは思う。
実際、エルヴィンは見ているだけではなかった。どこを塞ぐか、どこを残すか、どこは直しても無駄か、どこから人が入れるか。そういうことを、黙って拾っていた。
「そこは締めるな」
エルヴィンが言う。
「なぜだ」
「そこを締めると逃げる時に引っかかる」
「締めなければ入られるではないか」
「入られる。だからこそ、出られる場所も残さねばならん」
ガレスは縄を手にしたまま黙った。
村の柵は、守るためのものだ。だが、逃げるための隙間もいるという。その考えは、ガレスにはすぐに飲み込めなかった。
「全部は守れんぞ」
エルヴィンが柵を見ながら口を開く。
「分かっている」
「分かっている顔ではないな」
「……分かっている」
「なら、そこは締めるな」
ガレスは縄を放した。
村の内側では、老人がそれを見ていた。見るだけで何も言わなかった。ただ、少しだけ顎を引いた。それが、よいということなのか、どうでもよいということなのかは分からなかった。
昼前、いつもの少年が椀を持ってきた。老婆も一緒だ。
少年は、もう走って逃げない。だが、近づきすぎもしない。どこまでなら怒られないかを覚えたらしく、その線の手前で止まる。
「今日は焦げが少ないよ」
少年が明るい声で言った。
「そうか」
「豆は今日はないんだけど」
「十分だ」
「十分じゃないよ」
老婆が横から苛立った声をあげる。
「足りないね。けど、足りないままで済ませるしかないのが、今の飯さね」
ガレスは黙って頭を下げると、老婆は、ふんと鼻を鳴らした。
「そうだ、南の畑ね、もう子供は行かないよ」
少年が、椀を置きながら言うと、老婆の手が少年の襟を掴む。
「余計なことを言うんじゃないよ」
ガレスは少年と老婆を交互に見ながら口を開く。
「なぜ行かないのだ」
少年は老婆を覗き見ていた。
老婆はしばらく黙っていたが、やがて少年の襟から手を離した。
「取られるからだよ」
「何を取られるんだ」
「芋。豆も少し」
老婆を気にしながら少年が答える。
「最近の話か」
「最近の話さ」
老婆が言った。
「南の畑だけか」
「南が多いね。北もまったくないとは言わないけど、北はあんたらがうろついてる」
「うろついているつもりはない」
「うろついてるんだよ」
老婆はそう言い、南へ目を向けた。村の外れには、草に埋もれた古い道がある。その先に、今は誰も住んでいないはずの村がある。先日聞いた、空の村だ。
「今も盗られているのか」
ガレスも南へ目を向ける。
「前ほどじゃないね」
「なら、よくなったのではないか」
ガレスがそう言うと、老婆は目を細めた。
「そう思えるなら、あんたはまだこの辺に慣れてないね」
「どういうことだ」
「腹を空かせた野盗なら、畑を見りゃ抜く。なのに抜かない。見て、うろついて、戻っていく」
「誰かに止められているのか」
「さあね。けど、野盗に『待て』と言える奴がいるなら、それはそれで怖いだろう」
エルヴィンが、ゆっくりと南を見た。
「若い男たちか」
「見たのかい」
「見てはいない。だが、足跡は見た」
老婆は少し黙った。
少年がまた口を開く。
「走ってたよ」
「何が走っていたんだ?」
「男の人たちが畑の端で。棒を持って、布を広げて、急に走って、転んでた」
「何をやっていたかわかるか?」
「うーん、わかんない」
「村へ来たのか」
「来てないよ。畑にも、あんまり入らないし」
「では何をしている?」
「だから、わかんないって」
少年は少しむっとした顔をした。ガレスは少年を責めなかった。少年は見たものを言っているだけだ。
「棒と布か」
エルヴィンが考えながらこぼす。
「袋も」
少年が付け足す。
「袋」
「うん。あと、弓を持ってるのもいた」
ガレスは眉を寄せた。
「弓か」
「下手だったよ」
少年はあっけらかんとした様子でそう言った。
老婆が少年の頭を軽く叩く。
「弓の上手い下手なんざ、見てるんじゃないよ」
「だって、外してた」
「だから見てるんじゃない」
老婆は少年を村の方へ押し戻そうとした。その時、村の南側で犬が吠えた。短い吠え声だ。一度。それから、続けて三度。
村の空気が変わる。
井戸の方にいた女が、桶を抱えて家へ戻り、子供が戸口から引っ込められる。
畑へ向かおうとしていた男が、鍬を持ったまま足を止めた。その足元には、古い槍が置いてあった。
村長代理が、南側の柵へ向かって歩いてくる。手には槍を持っている。
ここ数日は持たずにいた槍だ。
「南か」
ガレスが目を細めて言った。
エルヴィンは答えなかったが、すでに南を見つめている。
村人たちは、南を見て、それからガレスへ目を向けた。
助けを求める目ではない。命じる目でもない。ただ、そこに槍を扱える男がいることを、思い出した目だった。
ガレスは、納屋の外壁に立てかけた槍を取る。
刃は下げたままだ。村へは向けない。
「見に行くのかい」
老婆がため息を吐きながらガレスを見つめる。
「まずは見るだけだ」
「見るだけで済むなら、誰も戸を閉めやしないよ」
「それでも誰かが見ないとな」
ガレスは南へ足を向け、エルヴィンも横に並ぶ。
*
村の南側の外柵は、北よりも低い。もう使っていない柵だと、村長代理は言っていた。たしかに、修理はされておらず、木は乾き、縄は古く、ところどころ草に飲まれている。
その先に畑があり、さらに向こうに、農道がある。
農道に、三つの影が立っていた。
若い男たちだ。
弓を持っている者、棒を持っている者、布のようなものを両手で広げている者。
少し離れて、袋を持った男もいる。四人目だ。
服はばらばらだった。兵には見えないが農民にも見えない。灰衣かと聞かれれば、そう見えなくもない。だが、灰衣と呼ぶには、布も色も揃っていない。
「見えるか?」
村長代理が低く言った。
「あれだな」
「あれだ。最近、ああいうのが出る」
ガレスは答えず、若い男たちを見た。
棒を持った男が、畑の端を叩き、布を持った男が腰を落とすと、弓を持った男が、何かに狙いをつけるように腕を上げた。
次の瞬間、三人が急に走った。
ガレスは槍を握り直した。
だが、三人は村へ向かってはこず、畑へ深く入ってもいかない。ただ、畑の端を横へ走り、用水路の手前で止まり、一人が足を滑らせて、泥が跳ね上がる。
袋を持った男が、何かを掴もうとして転びかけ、踏ん張っている。
遠くで若い男の声がした。
「そっちだ!」
別の声が返る。
「違う、逃げた!」
さらにもう一つ。
「そこは駄目だ、怒られるぞ!」
風に千切れて、言葉はそこまでしか届かなかった。
「畑を狙っているのか」
ガレスが男たちへ目を向けながら言った。
「なら、入るだろう」
エルヴィンは短く答えた。
「入っていないな」
「ああ」
「村を見ているのか?」
「見ている時もあるが、そういう感じではないな」
「では、あれは何だ」
「……分からん」
エルヴィンがそう言うと、村長代理が顔をしかめた。
「分からんことばかりか」
「分かっていることの方が少ない」
ガレスは若い男たちを見続けた。
彼らは、畑の芋を抜かない。豆にも手を出さない。用水路の脇で泥だらけになり、布を広げ、棒を振り、林の方へ手を振っている。
野盗なら、畑を荒らすし、逃げ兵なら、食えるものを探す。灰衣なら、粥場か人の集まりを探すはずだ。
だが、奴らは何を求めているのか分からない。
「盗ってはいないな」
エルヴィンが訝し気に言葉をこぼす。
「よいことではないのか」
村長代理が不審がりながらエルヴィンへ目を向ける。
「ただの飢えた野盗なら、盗るはずだ」
「では、何だというんだ」
「わからんが……怒られると言っているからな」
村長代理は言葉を失った。
その顔からは、少し血の気が引いていた。
「南に、野盗の頭がいるということか」
「いるかもしれん」
「どれほどの」
「それは分からん」
エルヴィンは、農道のさらに向こうを見た。
草に埋もれた古い道。空の村へ続く道。
「だが、あの連中は戻る場所を持っている」
「なぜ分かる」
「あそこに立つ者は、帰る方を気にしている」
ガレスも見た。
確かに、若い男たちは時々南を振り返る。村を見るよりも、南を見る回数の方が多い。逃げ道を気にしているのか。戻る場所を気にしているのか。それは分からない。
不意に、弓を持った男がこちらを見た。
ガレスと目が合った、ように思えた。距離がある。はっきりとは分からない。
だが、男は動きを止め、棒を持った男も止まる。布を持った男が、慌てて布を丸めた。
ガレスは一歩前へ出た。槍の刃は、まだ下げたままだ。
「待て」
エルヴィンが手で制しながら言う。
「分かっている」
「追うな」
「まだ追っていない」
「今、追う足だったぞ」
ガレスは足を止めた。
若い男たちは、しばらくこちらを探るように見ていた。
それから、袋を持った男が何かを叫ぶ。声はここまでは届かない。ただ、その後、四人は相談するように固まり、やがて農道から南へ引いていった。逃げるというほどではない。だが、こちらへ来ることもなかった。
日が傾く前、若い男たちは南の古い道へ消えた。
畑は荒らされていなかった。芋も、豆も、抜かれていない。
ただ、農道には足跡が残っていた。用水路の泥にも、畑の端にも、林の縁にも、若い男たちの足跡があった。
村へ向かう足跡ではない。南へ戻る足跡だった。
「取らなかったな」
村長代理が足跡を見ながら言った。
「今日はな」
エルヴィンが答えた。
「明日は分からん、か」
「そうだ」
老婆が、いつの間にか後ろに来ていた。
少年はその少し後ろにいる。
「分からないものは、全部怖いんだよ」
老婆はそう言った。
ガレスは南の道を見た。
空の村。誰も住んでいないはずの村。だが、そこへ続く道には、新しい足跡がある。
「南を見るか」
ガレスが南へ目を向けて口を開く。
村長代理が振り返る。
「今見ているだろう」
「あの男たちではない。戻る先をだ」
「空の村へ行くつもりか」
「そこが本当に空か確かめればよい」
「空でなければ?」
「それを確かめる」
村長代理は黙った。
老婆が舌打ちをする。
「見に行く馬鹿がいるなら、あたしが叱ると言ったはずだよ」
「叱られるのは戻ってからにするさ」
「戻るつもりはあるんだね」
「ある」
「なら、まだましだ」
エルヴィンが足跡から目を上げた。
「道を知る者が要る」
「お前たちだけで行けばいい」
村長代理が嫌そうに言う。
「迷えば帰りが遅れる。帰りが遅れれば、夜になる。夜になれば、なおさら道が怪しくなる」
まだ日は残っている。だが、迷えば夜になる。夜になれば、南の古い道は、ただの草むらと変わらなくなる。
「……誰を連れていくと言うのだ」
「村の道を知る者だ。できれば、南の畑も知る者がいい」
村長代理はしばらく考え、それから短く息を吐いた。
「俺が行く」
「村を空けるのか」
ガレスが聞く。
「空けて困るほどの村ではない」
村長代理は南の畑を見た。
「だが、畑を捨てれば村ではなくなる」
その言葉で、村の者たちが黙った。
村長代理は、柵の内側にいた老人へ目を向け、老人は何も言わず、古い槍を取りに家の方へ戻る。
「もう一人」
エルヴィンが言った。
「南の畑を知る者がいるはずだ」
村長代理は村の内側へ声をかけた。しばらくして、一人の男が出てきた。
年は三十を過ぎたくらいだろうか。顔は日に焼け、手は太い。腰には刃物を差しているが、手に持っているのは槍ではなく、鍬だった。
「俺の畑だ」
男はそう言った。
「槍はあるか?」
エルヴィンが鍬を見ながら確認する。
「家に一本ある。だが曲がっている」
「その鍬で行くのか」
「畑へ行くんだ。鍬でいい」
エルヴィンは男を見て頷いた。
「走れるか」
「畑仕事で鍛えてる」
「戦は」
「知らん」
「なら、戦うなよ」
「大丈夫だ、そうなりそうなら逃げる」
ガレスは槍を持ち直し、村長代理は古い槍を手にしている。
南畑の男は鍬を握り、エルヴィンは腰の短剣を確かめた。
「斬りに行くんじゃないぞ」
エルヴィンが確かめるように言った。
「分かっている」
ガレスは頷いた。
「本当に分かっているか」
「見るだけだ」
「見つかった時の話をしている」
ガレスは少し黙った。
「その時は退く」
「それでいい」
老婆が、少年の肩を掴んだまま四人を見ていた。
「日が落ちる前に戻りな」
「ああ、戻る」
ガレスは短く答えた。
「戻らなきゃ、粥はやらないよ」
「それは困るな」
「困るなら戻りな」
少年が小さく言った。
「戻ってくるの」
「ああ」
「南の男たち、何してたの」
「分からん」
「分からないのに行くの?」
「分からないから行く」
少年は、分かったような、分からないような顔をした。
先日の時と同じ顔だ。
*
四人は、南の古い道へ入った。
道は草に埋もれていた。だが、消えてはいなかった。
踏まれた草があり、折れた茎がある。用水路の泥が乾かないうちについた足跡もある。
一人や二人ではない。
裸足や草鞋、底の擦れた靴の跡もある。荷を引きずったような跡も、細く残っていた。
南畑の男が、鍬を握り直した。
「……空の村だと、聞いていたが」
村長代理は黙っていた。
ガレスは槍を下げたまま、道の先を見る。
エルヴィンは足跡の先を見た。
そして、短く言った。
「空の村にしては、道が生きている」




