第47話 薄い粥
夜明け前、ガレスは槍を抱いたまま目を開けた。
空はまだ白みきっていない。納屋の外壁は夜露を含み、背中に冷たさを残していた。屋根の半分が落ちた納屋の内側からは、小さな子供の咳が聞こえる。村は静かだった。静かすぎるほどだ。
ガレスは、壁にもたれた姿勢のまま首を動かした。
すぐ横に、エルヴィンが座っている。短剣を膝の上に置き、村の方を見ていた。
「交代と言ったはずだ」
ガレスが低く言う。
「起きなかった」
「起こせ」
「起こしたさ」
「嘘をつくな」
「半分は本当だ」
エルヴィンは目を動かさず状況を確認する。
村の柵の向こうでは、戸がひとつ細く開いている。その隙間から、誰かがこちらを見ていた。
ガレスが顔を向けると、戸はすぐに閉まる。
「見られているな」
「昨夜からだ」
「気づいていたか」
「見張りだからな」
「寝ていないだろうに」
「半分はな」
「嘘をつくな」
「半分は本当だ」
同じ答えだ。ガレスは小さく息を吐き、立ち上がる。膝が少し重い。昨日からまともに食べていない。水と焦げた粥だけでは、体は動くが、力は戻らなかった。
村の井戸の方で、木が軋む音がした。
女が二人、桶を持って井戸へ向かっている。こちらに気づくと、一人は足を止め、もう一人の袖を引いた。二人は少し遠回りして井戸へ向かっていき、別の家では子供が戸口から顔を出す。すぐに大人の手が伸び、その頭を引っ込めた。
ガレスは、それを責めなかった。
責められるはずもなかった。
「村へは入るなと言われている」
エルヴィンが村の様子を眺めながら口を開く。
「分かっている」
「井戸にも近づくなと」
「分かっている」
「女と子供にもな」
「分かっている」
「なら、座っていろ」
「それは違うぞ」
ガレスは槍を手に取った。
だが、刃は下げたままだ。
「水に飯ももらった」
「焦げていたがな」
「腹に入れば飯だ。焦げていてもな」
「そう言うと思った」
「返す」
「何をだ」
「水と飯の分だ」
エルヴィンは、ようやくガレスを見た。
「村の中には入れないぞ」
「外からでいい」
「どうするんだ?」
「あれを見ろ」
ガレスは、村の北側へ目を向けた。
昨日、村長代理が言っていた北の柵。獣ではないものに壊されたという場所だ。まだ薄暗い中でも、そこだけ柵の線が乱れているのが見えた。
「あれを直す」
エルヴィンはしばらく黙った。
それから短剣を腰に戻し、立ち上がった。
「槍は置いていけ」
「なぜだ」
「柵を直すのに、槍はいらん」
「武器は捨てられん」
「捨てろとは言っていない。壁に立てろ。刃を村へ向けるなと言われただろう」
ガレスは少し考え、納屋の外壁へ槍を立てかけた。
手の届く場所だった。だが、刃は村の方へ向いていない。
その時、足音が近づいた。
昨日の少年だった。十にも届かないくらいの少年が、小さな桶を両手で持っている。後ろに、昨日の老婆がいた。
少年はガレスと目が合うと足を止めた。それから、桶を地面に置く。
距離は遠い。手を伸ばせば届く、という距離ではない。二人が数歩歩かなければ取れない場所だ。
「水だよ」
老婆が言った。
「いいのか」
「置いただけだ。欲しけりゃ取ればいい」
「助かる」
「助けてないよ」
老婆はそう言い、少年の肩に手を置いた。少年はすぐには逃げなかった。ガレスの手、エルヴィンの腰、壁に立てた槍を順に見ている。
「何するの」
少年はガレスを見つめている。
「柵を直す」
「頼んでないよ」
「水をもらった」
「水だけだよ」
「なら、まず一つ直す」
少年は、分かったような、分からないような顔をした。
老婆が鼻を鳴らす。
「北の柵かい」
「そうだ」
「まずは、そこじゃないよ」
ガレスは足を止めた。
「違うのか」
「そこも壊れてる。だけど先に、倒れた杭を抜きな。曲がったまま縄を締めたって、また緩むよ」
ガレスは北の柵を見た。
たしかに、一本だけ杭が外側へ傾いている。
「村のことは分からん」
「だから言ってるんだよ。手があるなら、耳も使いな」
エルヴィンが少しだけ口の端を動かした。
「指揮官ができたな」
「お前も働け」
「まだ見ている」
「手も動かせ」
老婆は二人を見て、少年の背を押し、村の方へ戻っていく。少年は何度か振り返りながら歩いていた。
ガレスとエルヴィンは北の柵へ向かうことにした。
村の内側では、何人かがこちらを見ている。棒を持った老人。戸口の女。槍を手にした村長代理。誰も近づいては来ない。
北の柵は、思ったよりもひどかった。切った枝と、壊れた荷車の板と、古い杭を縄で括っただけのものだ。壊れた場所では、縄が切れ、杭が外へ倒れかかっている。板の一枚には、刃物で削ったような跡があった。
ガレスは膝をつき、縄を手に取った。
「獣ではないな」
エルヴィンが板を撫でながら目を細めている。
「人か」
「おそらく」
「……入ったのか」
「分からん」
エルヴィンは土を見た。夜露と泥で足跡は崩れている。だが、いくつかの跡は外側から来て、柵の前で止まっていた。
「中を見ていたようだな。だが越えた跡はなさそうだ」
「何をしたかったんだ」
「それは分からん」
「お前が分からんと言うのは珍しいな」
「分からんものは分からん。腹が減っていたのか、村を見ていたのか、追われていたのか、ただ迷ったのか」
エルヴィンは少し南へ目を向けた。
「だが、獣より面倒だ」
「人だからか」
「人だからだ」
ガレスは杭に手をかけた。抜こうとする。土が固まっていて、すぐには動かない。
力を込めると、杭がぎしりと鳴る。ガレスは呼吸を整え、もう一度引いた。
村の内側で、誰かが小さく声を上げた。だが、手伝いには来なかった。
それでよかった。ガレスは黙って杭を抜き、土を掘り直し、まっすぐに立てた。エルヴィンは使えそうな板を選び、切れた縄の端を見て、まだ使えるところだけを残した。
作業は遅かった。まず、道具が足りない。木槌もない、釘もない、縄は弱い。それでも、倒れたままよりはましだった。
日が昇る頃、北の柵は少しだけ線を取り戻した。
強い柵ではない。大勢で押せば崩れる。だが、夜に一人で越えるには、少し面倒になった。
「これでいいか」
ガレスが言うと、エルヴィンは首を横に振った。
「よくはない」
「だろうな」
「だが、昨日よりはましだ」
村の内側で、何も言わず老婆が腕を組んで見ていた。
少年もその隣で柵を見ている。
その日の昼前、納屋の近くに椀が置かれた。
中身は水と、焦げの多い薄い粥だ。置いたのは少年だった。置くとすぐに戻ろうとしたが、途中で足を止めた。
「本当に直したね」
「まだ直している」
「兵なのに?」
「兵でも、柵くらいは直す」
「兵は壊すんだよ」
ガレスは椀を見た。
それから少年を見た。
「壊す兵もいる」
「奪る兵もいる」
「いる」
「灰衣も奪った」
「灰衣でなくても奪る」
「じゃあ、あんたたちは何なの」
ガレスは少し考えた。答えはたくさんあった。
ルミナ沿海伯家寄子、エスター男爵家の分遣隊。はぐれた兵。アズールを探す者。逃げてきた者。だが、どれも今の少年に返す答えではなかった。
「今は、借りを返している」
少年は黙った。納得した顔ではなかった。
だが、逃げなかった。
「食べたら、また働くの」
「ああ」
「婆ちゃんが、まだ足りないって」
「そうだろうな」
少年は少しだけ口を曲げた。
笑ったのかもしれない。それから、村の方へ戻っていった。
*
二日目、ガレスとエルヴィンは水路を見た。
村の外を流れる細い用水路に、折れた枝と泥が詰まっていた。水は流れているが、弱い。水路の脇には、誰かが足を滑らせた跡もある。ガレスは上着の袖をまくり、泥へ手を入れた。
「そこまでやるのか」
村長代理が遠くから言った。
槍は持っている。だが、穂先は昨日より少し下がっていた。
「詰まっている」
「見れば分かるが……」
「なら取らねばな」
「頼んでいないが」
「水をもらったからな」
「昨日、柵を直したではないか」
「今日は粥をもらった」
村長代理は顔をしかめたが、言い返しはしなかった。
水路の泥は冷たかった。枝を引き抜くと、腐った葉がまとわりついてくる。ガレスはそれを脇へ寄せ、石で水の流れを整えた。エルヴィンは少し離れた場所を見ていた。
「ここは広げるな」
「なぜだ」
「水は通るが、人も通る」
「狭いぞ」
「夜なら十分危険だ」
「では塞ぐか……」
「いや、水だけ通す」
エルヴィンは石をいくつか動かした。人が足をかけにくい位置へ置き直し、流れは殺さないように。
その様子を見ていた老人が、柵の内側で顎を動かした。
「その石じゃない。丸い方だ」
エルヴィンは老人へ目を向けるも、老人はすぐ顔をそらした。
「聞こえたか」
ガレスが言う。
「聞こえた」
「従うのか」
「正しい指摘だ」
エルヴィンは平たい石をどけ、丸い石を置いた。
老人は何も言わなかったが、次の日の朝、その場所の近くに別の石が二つ置かれていた。
*
三日目、折れた板が納屋の外に置かれていた。
誰が置いたかは分からない。その隣には、古い縄もある。縄はところどころ傷んでいたが、使えなくもなかった。
「仕事が置かれているな」
エルヴィンは板に目を向けている。
「わかりやすくていい」
「命令されているとも言うがな」
「水と飯の分だ」
「そろそろ飯の分を越えているかもしれんな」
「なら、次の飯の分だ」
ガレスは板を担ぎ、外柵へ向かった。
その日、村の女たちは井戸へ来ても、すぐには戻らなくなった。
まだ近づいては来ない。目が合えば逸らす。だが、水を汲み終えるまで、そこにいた。
子供たちも、戸の隙間からではなく、柵の内側から見るようになった。
少年はその中で一番前にいた。老婆に襟を掴まれていたが、足は逃げていなかった。
*
四日目、見張り台の足場を直した。
見張り台といっても、太い木を二本立て、その間に板を渡しただけのものだ。高くはない。だが、南と北の畑を見るには役に立つ。
板が割れかけていたのを、ガレスが板を外し、エルヴィンが支えを見た。
「ここが危ないな」
「板を替えるか」
「板だけではない。立てる場所が悪い」
「動かすのか」
「今は無理だ。だが、夜に一人で立つなら、背を村へ向けるのはよくないな」
村長代理が柵の内側で聞いていた。
「どういう意味だ」
エルヴィンは顔を上げた。
「南だけを見ると、北から近づく影を見落とす」
「ではどう立てと言う」
「二人で立つ。無理なら、板を半分ずらせ。体を斜めに置ける」
「二人で立つほど人がいない」
「なら板をずらす方だな」
村長代理は黙った。
その沈黙は、怒りではなかった。できるかどうかを考えている沈黙だった。
ガレスは作業を続けた。
エルヴィンの言葉は冷たい。だが、嘘はない。全部守れないなら、守るものを決める。畑全部は守れない。村全部も守れない。なら、家と井戸と、子供の咳がする納屋を守る。
ガレスには、すぐに飲み込める考えではなかった。だが、間違ってはいないとも理解できる。
*
五日目、老婆が近くまで来た。
近く、といっても、手渡しできる距離ではない。だが、初日よりは明らかに近い場所に桶を置いた。椀の中には薄い粥が入っていた。焦げの匂いはするが、昨日より焦げだけではなかった。
「水だけじゃ倒れるよ」
「ああ、助かる」
「働いた分だよ、受け取りな」
「なかなか終わらんな」
「やることは山ほどあるさね」
ガレスは黙って椀に手を伸ばす。
「次はどこだ」
「井戸桶の縄だね」
「井戸には近づくなと言われているが」
「井戸には近づかなくていい。外に置いておく。直せるなら直しな」
老婆はそう言って、村の方へ戻っていった。
しばらくして、古い縄と、縁の割れた予備桶が柵の外に出された。
誰も持ってこなかった。柵の下から押し出されただけだった。
「出世したな」
エルヴィンが言った。
「何がだ」
「仕事が増えたではないか」
「お前もやれ」
「見るのも仕事さ」
「手も動かせ」
「その返しも増えたな」
エルヴィンはそう言いながら、予備桶の縁を見た。
割れた木を合わせ、縄で締める。完全には直らない。だが、水を汲んで運ぶ間にこぼれる量は減る。それだけでも、井戸へ行く回数が変わる。
ガレスは作業の合間に、比較的近くに寄ってきていた村人の何人かにアズールに関することを聞いてみた。エスター、ルミナ、荷車、前哨などだ。返ってきたのは、首を振る動きか、知らないという短い声だけだった。
この村も、周りを見るだけで精一杯なのだ。
*
六日目には、村長代理が槍を持たずに来た。腰には短い刃物を差していたので、丸腰ではないが、手には槍がなかった。
「まだいるのか」
村長代理はそう言った。
「出ていけと言うなら出る」
ガレスが答える。
「出ていかせるなら、初日に出している」
「では、いていいのか」
「村の中へ入れるわけにはいかん」
「分かっている」
「井戸にも近づくな」
「分かっている」
「だが、納屋の外にいる分には、誰も文句を言わなくなった」
村長代理は、それだけ言うと、視線を南へ向けた。
「南の外柵は触らなくていい」
「なぜだ」
「もう使っている柵ではないからな」
ガレスは南を見た。
村の外れには、草に埋もれかけた古い道があった。道幅は細い。だが、人が長く通っていた跡は残っている。その先は低い林へ入っていた。
「あの道は」
「昔の道だ」
「先に何がある」
「村だよ」
「村?」
「今は空だ。誰も住んじゃいない」
村長代理は、それ以上は言わなかった。
ガレスは道を見た。空の村、誰も住まない村。
東部には、そういうものが増えているのだろうか。
「行くなよ」
老婆の声がした。
いつの間にか、少し離れたところに立っていた。少年も一緒だった。
「なぜだ」
ガレスが聞く。
「空の場所には、良くないものが入る」
「何かいるのか」
「知らないね」
「見たのか」
「見に行く馬鹿がいるなら、あたしが叱ってるさね」
老婆はそう言い、少年の頭を軽く叩いた。少年は不満そうに口を曲げたが、南の道から目を離さなかった。
「昔の村か」
エルヴィンが呟く。
「昔のさね」
老婆のその言葉で話は終わった。
*
七日目の夜、村はやはり早く戸を閉めた。
木の板を内側から渡す音が、ひとつ、またひとつと続く。金具の音ではない。木と木が擦れる音だった。
だが、その音は、最初の夜ほど鋭くは聞こえなかった。
納屋の外に置かれた桶は、最初の日よりも近かった。
椀の中身は、焦げだけではなかった。豆が二つ、沈んでいた。
ガレスはそれを見て、しばらく黙った。
「近くなったな」
エルヴィンが言った。
「何がだ」
「桶だ」
ガレスは村の方を見た。戸は閉まっている。柵の内側には、まだ見張りの影がある。
完全に信用されたわけではない。村の中へ入れられたわけでもない。槍を持って歩けば、きっと今でも戸は閉まる。
それでも、最初の日よりは近かった。
ガレスは椀を取り、豆の沈んだ粥を半分だけ飲んだ。
残りをエルヴィンへ渡す。
「明日はどうする」
エルヴィンが聞いた。
「また外を見る」
「南か」
ガレスは少し黙った。
南には、草に埋もれた古い道がある。その先には、誰も住んでいないはずの村がある。
「まだ行かないがな」
「珍しいな」
「ここでできることが、まだある」
エルヴィンは椀を受け取り、薄い粥を口にした。
「それは正しい」
「お前に言われると、腹が立つ」
「よく言われる」
ガレスは壁にもたれた。
納屋の内側から、子供の咳がまた聞こえた。昨日よりは少し弱い咳だった。
北の柵は、以前より少しましになり、水路は少しだけ流れ、見張り台は、板が鳴らなくなった。
そして桶は、少し近づいた。
村はまだ、二人を受け入れてはいない。
だが、追い払ってもいない。
ガレスは南の道を一度だけ見る。
暗くなったそこには、もう何も見えない。空の村が本当に空なのかも、分からない。
今は、まだ分からなくていい。そう思いながら、ガレスは槍の柄に手を置いた。
アズールを探すにも、水も道も分からない。道を知る者の助けが要る。ここで無理に歩き回って倒れれば、そこで終わる。
東部の夜は、相変わらず静かだった。
けれど、その静けさの中に、最初の日にはなかった水の音が、細く流れていた。




