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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第47話 薄い粥


 夜明け前、ガレスは槍を抱いたまま目を開けた。


 空はまだ白みきっていない。納屋の外壁は夜露を含み、背中に冷たさを残していた。屋根の半分が落ちた納屋の内側からは、小さな子供の咳が聞こえる。村は静かだった。静かすぎるほどだ。


 ガレスは、壁にもたれた姿勢のまま首を動かした。

 すぐ横に、エルヴィンが座っている。短剣を膝の上に置き、村の方を見ていた。


「交代と言ったはずだ」


 ガレスが低く言う。


「起きなかった」


「起こせ」


「起こしたさ」


「嘘をつくな」


「半分は本当だ」


 エルヴィンは目を動かさず状況を確認する。

 村の柵の向こうでは、戸がひとつ細く開いている。その隙間から、誰かがこちらを見ていた。

 ガレスが顔を向けると、戸はすぐに閉まる。


「見られているな」


「昨夜からだ」


「気づいていたか」


「見張りだからな」


「寝ていないだろうに」


「半分はな」


「嘘をつくな」


「半分は本当だ」


 同じ答えだ。ガレスは小さく息を吐き、立ち上がる。膝が少し重い。昨日からまともに食べていない。水と焦げた粥だけでは、体は動くが、力は戻らなかった。


 村の井戸の方で、木が軋む音がした。

 女が二人、桶を持って井戸へ向かっている。こちらに気づくと、一人は足を止め、もう一人の袖を引いた。二人は少し遠回りして井戸へ向かっていき、別の家では子供が戸口から顔を出す。すぐに大人の手が伸び、その頭を引っ込めた。


 ガレスは、それを責めなかった。

 責められるはずもなかった。


「村へは入るなと言われている」


 エルヴィンが村の様子を眺めながら口を開く。


「分かっている」


「井戸にも近づくなと」


「分かっている」


「女と子供にもな」


「分かっている」


「なら、座っていろ」


「それは違うぞ」


 ガレスは槍を手に取った。

 だが、刃は下げたままだ。


「水に飯ももらった」


「焦げていたがな」


「腹に入れば飯だ。焦げていてもな」


「そう言うと思った」


「返す」


「何をだ」


「水と飯の分だ」


 エルヴィンは、ようやくガレスを見た。


「村の中には入れないぞ」


「外からでいい」


「どうするんだ?」


「あれを見ろ」


 ガレスは、村の北側へ目を向けた。

 昨日、村長代理が言っていた北の柵。獣ではないものに壊されたという場所だ。まだ薄暗い中でも、そこだけ柵の線が乱れているのが見えた。


「あれを直す」


 エルヴィンはしばらく黙った。

 それから短剣を腰に戻し、立ち上がった。


「槍は置いていけ」


「なぜだ」


「柵を直すのに、槍はいらん」


「武器は捨てられん」


「捨てろとは言っていない。壁に立てろ。刃を村へ向けるなと言われただろう」


 ガレスは少し考え、納屋の外壁へ槍を立てかけた。

 手の届く場所だった。だが、刃は村の方へ向いていない。


 その時、足音が近づいた。

 昨日の少年だった。十にも届かないくらいの少年が、小さな桶を両手で持っている。後ろに、昨日の老婆がいた。

 少年はガレスと目が合うと足を止めた。それから、桶を地面に置く。

 距離は遠い。手を伸ばせば届く、という距離ではない。二人が数歩歩かなければ取れない場所だ。


「水だよ」


 老婆が言った。


「いいのか」


「置いただけだ。欲しけりゃ取ればいい」


「助かる」


「助けてないよ」


 老婆はそう言い、少年の肩に手を置いた。少年はすぐには逃げなかった。ガレスの手、エルヴィンの腰、壁に立てた槍を順に見ている。


「何するの」


 少年はガレスを見つめている。


「柵を直す」


「頼んでないよ」


「水をもらった」


「水だけだよ」


「なら、まず一つ直す」


 少年は、分かったような、分からないような顔をした。

 老婆が鼻を鳴らす。


「北の柵かい」


「そうだ」


「まずは、そこじゃないよ」


 ガレスは足を止めた。


「違うのか」


「そこも壊れてる。だけど先に、倒れた杭を抜きな。曲がったまま縄を締めたって、また緩むよ」


 ガレスは北の柵を見た。

 たしかに、一本だけ杭が外側へ傾いている。


「村のことは分からん」


「だから言ってるんだよ。手があるなら、耳も使いな」


 エルヴィンが少しだけ口の端を動かした。


「指揮官ができたな」


「お前も働け」


「まだ見ている」


「手も動かせ」


 老婆は二人を見て、少年の背を押し、村の方へ戻っていく。少年は何度か振り返りながら歩いていた。


 ガレスとエルヴィンは北の柵へ向かうことにした。

 村の内側では、何人かがこちらを見ている。棒を持った老人。戸口の女。槍を手にした村長代理。誰も近づいては来ない。


 北の柵は、思ったよりもひどかった。切った枝と、壊れた荷車の板と、古い杭を縄で括っただけのものだ。壊れた場所では、縄が切れ、杭が外へ倒れかかっている。板の一枚には、刃物で削ったような跡があった。

 ガレスは膝をつき、縄を手に取った。


「獣ではないな」


 エルヴィンが板を撫でながら目を細めている。


「人か」


「おそらく」


「……入ったのか」


「分からん」


 エルヴィンは土を見た。夜露と泥で足跡は崩れている。だが、いくつかの跡は外側から来て、柵の前で止まっていた。


「中を見ていたようだな。だが越えた跡はなさそうだ」


「何をしたかったんだ」


「それは分からん」


「お前が分からんと言うのは珍しいな」


「分からんものは分からん。腹が減っていたのか、村を見ていたのか、追われていたのか、ただ迷ったのか」


 エルヴィンは少し南へ目を向けた。


「だが、獣より面倒だ」


「人だからか」


「人だからだ」


 ガレスは杭に手をかけた。抜こうとする。土が固まっていて、すぐには動かない。

 力を込めると、杭がぎしりと鳴る。ガレスは呼吸を整え、もう一度引いた。


 村の内側で、誰かが小さく声を上げた。だが、手伝いには来なかった。

 それでよかった。ガレスは黙って杭を抜き、土を掘り直し、まっすぐに立てた。エルヴィンは使えそうな板を選び、切れた縄の端を見て、まだ使えるところだけを残した。

 作業は遅かった。まず、道具が足りない。木槌もない、釘もない、縄は弱い。それでも、倒れたままよりはましだった。


 日が昇る頃、北の柵は少しだけ線を取り戻した。

 強い柵ではない。大勢で押せば崩れる。だが、夜に一人で越えるには、少し面倒になった。


「これでいいか」


 ガレスが言うと、エルヴィンは首を横に振った。


「よくはない」


「だろうな」


「だが、昨日よりはましだ」


 村の内側で、何も言わず老婆が腕を組んで見ていた。

 少年もその隣で柵を見ている。


 その日の昼前、納屋の近くに椀が置かれた。

 中身は水と、焦げの多い薄い粥だ。置いたのは少年だった。置くとすぐに戻ろうとしたが、途中で足を止めた。


「本当に直したね」


「まだ直している」


「兵なのに?」


「兵でも、柵くらいは直す」


「兵は壊すんだよ」


 ガレスは椀を見た。

 それから少年を見た。


「壊す兵もいる」


「奪る兵もいる」


「いる」


「灰衣も奪った」


「灰衣でなくても奪る」


「じゃあ、あんたたちは何なの」


 ガレスは少し考えた。答えはたくさんあった。

 ルミナ沿海伯家寄子、エスター男爵家の分遣隊。はぐれた兵。アズールを探す者。逃げてきた者。だが、どれも今の少年に返す答えではなかった。


「今は、借りを返している」


 少年は黙った。納得した顔ではなかった。

 だが、逃げなかった。


「食べたら、また働くの」


「ああ」


「婆ちゃんが、まだ足りないって」


「そうだろうな」


 少年は少しだけ口を曲げた。

 笑ったのかもしれない。それから、村の方へ戻っていった。



 二日目、ガレスとエルヴィンは水路を見た。

 村の外を流れる細い用水路に、折れた枝と泥が詰まっていた。水は流れているが、弱い。水路の脇には、誰かが足を滑らせた跡もある。ガレスは上着の袖をまくり、泥へ手を入れた。


「そこまでやるのか」


 村長代理が遠くから言った。

 槍は持っている。だが、穂先は昨日より少し下がっていた。


「詰まっている」


「見れば分かるが……」


「なら取らねばな」


「頼んでいないが」


「水をもらったからな」


「昨日、柵を直したではないか」


「今日は粥をもらった」


 村長代理は顔をしかめたが、言い返しはしなかった。


 水路の泥は冷たかった。枝を引き抜くと、腐った葉がまとわりついてくる。ガレスはそれを脇へ寄せ、石で水の流れを整えた。エルヴィンは少し離れた場所を見ていた。


「ここは広げるな」


「なぜだ」


「水は通るが、人も通る」


「狭いぞ」


「夜なら十分危険だ」


「では塞ぐか……」


「いや、水だけ通す」


 エルヴィンは石をいくつか動かした。人が足をかけにくい位置へ置き直し、流れは殺さないように。

 その様子を見ていた老人が、柵の内側で顎を動かした。


「その石じゃない。丸い方だ」


 エルヴィンは老人へ目を向けるも、老人はすぐ顔をそらした。


「聞こえたか」


 ガレスが言う。


「聞こえた」


「従うのか」


「正しい指摘だ」


 エルヴィンは平たい石をどけ、丸い石を置いた。

 老人は何も言わなかったが、次の日の朝、その場所の近くに別の石が二つ置かれていた。



 三日目、折れた板が納屋の外に置かれていた。

 誰が置いたかは分からない。その隣には、古い縄もある。縄はところどころ傷んでいたが、使えなくもなかった。


「仕事が置かれているな」


 エルヴィンは板に目を向けている。


「わかりやすくていい」


「命令されているとも言うがな」


「水と飯の分だ」


「そろそろ飯の分を越えているかもしれんな」


「なら、次の飯の分だ」


 ガレスは板を担ぎ、外柵へ向かった。


 その日、村の女たちは井戸へ来ても、すぐには戻らなくなった。

 まだ近づいては来ない。目が合えば逸らす。だが、水を汲み終えるまで、そこにいた。

 子供たちも、戸の隙間からではなく、柵の内側から見るようになった。

 少年はその中で一番前にいた。老婆に襟を掴まれていたが、足は逃げていなかった。



 四日目、見張り台の足場を直した。

 見張り台といっても、太い木を二本立て、その間に板を渡しただけのものだ。高くはない。だが、南と北の畑を見るには役に立つ。

 板が割れかけていたのを、ガレスが板を外し、エルヴィンが支えを見た。


「ここが危ないな」


「板を替えるか」


「板だけではない。立てる場所が悪い」


「動かすのか」


「今は無理だ。だが、夜に一人で立つなら、背を村へ向けるのはよくないな」


 村長代理が柵の内側で聞いていた。


「どういう意味だ」


 エルヴィンは顔を上げた。


「南だけを見ると、北から近づく影を見落とす」


「ではどう立てと言う」


「二人で立つ。無理なら、板を半分ずらせ。体を斜めに置ける」


「二人で立つほど人がいない」


「なら板をずらす方だな」


 村長代理は黙った。

 その沈黙は、怒りではなかった。できるかどうかを考えている沈黙だった。


 ガレスは作業を続けた。

 エルヴィンの言葉は冷たい。だが、嘘はない。全部守れないなら、守るものを決める。畑全部は守れない。村全部も守れない。なら、家と井戸と、子供の咳がする納屋を守る。

 ガレスには、すぐに飲み込める考えではなかった。だが、間違ってはいないとも理解できる。



 五日目、老婆が近くまで来た。

 近く、といっても、手渡しできる距離ではない。だが、初日よりは明らかに近い場所に桶を置いた。椀の中には薄い粥が入っていた。焦げの匂いはするが、昨日より焦げだけではなかった。


「水だけじゃ倒れるよ」


「ああ、助かる」


「働いた分だよ、受け取りな」


「なかなか終わらんな」


「やることは山ほどあるさね」


 ガレスは黙って椀に手を伸ばす。


「次はどこだ」


「井戸桶の縄だね」


「井戸には近づくなと言われているが」


「井戸には近づかなくていい。外に置いておく。直せるなら直しな」


 老婆はそう言って、村の方へ戻っていった。

 しばらくして、古い縄と、縁の割れた予備桶が柵の外に出された。

 誰も持ってこなかった。柵の下から押し出されただけだった。


「出世したな」


 エルヴィンが言った。


「何がだ」


「仕事が増えたではないか」


「お前もやれ」


「見るのも仕事さ」


「手も動かせ」


「その返しも増えたな」


 エルヴィンはそう言いながら、予備桶の縁を見た。

 割れた木を合わせ、縄で締める。完全には直らない。だが、水を汲んで運ぶ間にこぼれる量は減る。それだけでも、井戸へ行く回数が変わる。


 ガレスは作業の合間に、比較的近くに寄ってきていた村人の何人かにアズールに関することを聞いてみた。エスター、ルミナ、荷車、前哨などだ。返ってきたのは、首を振る動きか、知らないという短い声だけだった。


 この村も、周りを見るだけで精一杯なのだ。



 六日目には、村長代理が槍を持たずに来た。腰には短い刃物を差していたので、丸腰ではないが、手には槍がなかった。


「まだいるのか」


 村長代理はそう言った。


「出ていけと言うなら出る」


 ガレスが答える。


「出ていかせるなら、初日に出している」


「では、いていいのか」


「村の中へ入れるわけにはいかん」


「分かっている」


「井戸にも近づくな」


「分かっている」


「だが、納屋の外にいる分には、誰も文句を言わなくなった」


 村長代理は、それだけ言うと、視線を南へ向けた。


「南の外柵は触らなくていい」


「なぜだ」


「もう使っている柵ではないからな」


 ガレスは南を見た。

 村の外れには、草に埋もれかけた古い道があった。道幅は細い。だが、人が長く通っていた跡は残っている。その先は低い林へ入っていた。


「あの道は」


「昔の道だ」


「先に何がある」


「村だよ」


「村?」


「今は空だ。誰も住んじゃいない」


 村長代理は、それ以上は言わなかった。


 ガレスは道を見た。空の村、誰も住まない村。

 東部には、そういうものが増えているのだろうか。


「行くなよ」


 老婆の声がした。

 いつの間にか、少し離れたところに立っていた。少年も一緒だった。


「なぜだ」


 ガレスが聞く。


「空の場所には、良くないものが入る」


「何かいるのか」


「知らないね」


「見たのか」


「見に行く馬鹿がいるなら、あたしが叱ってるさね」


 老婆はそう言い、少年の頭を軽く叩いた。少年は不満そうに口を曲げたが、南の道から目を離さなかった。


「昔の村か」


 エルヴィンが呟く。


「昔のさね」


 老婆のその言葉で話は終わった。



 七日目の夜、村はやはり早く戸を閉めた。

 木の板を内側から渡す音が、ひとつ、またひとつと続く。金具の音ではない。木と木が擦れる音だった。

 だが、その音は、最初の夜ほど鋭くは聞こえなかった。


 納屋の外に置かれた桶は、最初の日よりも近かった。

 椀の中身は、焦げだけではなかった。豆が二つ、沈んでいた。


 ガレスはそれを見て、しばらく黙った。


「近くなったな」


 エルヴィンが言った。


「何がだ」


「桶だ」


 ガレスは村の方を見た。戸は閉まっている。柵の内側には、まだ見張りの影がある。

 完全に信用されたわけではない。村の中へ入れられたわけでもない。槍を持って歩けば、きっと今でも戸は閉まる。

 それでも、最初の日よりは近かった。


 ガレスは椀を取り、豆の沈んだ粥を半分だけ飲んだ。

 残りをエルヴィンへ渡す。


「明日はどうする」


 エルヴィンが聞いた。


「また外を見る」


「南か」


 ガレスは少し黙った。

 南には、草に埋もれた古い道がある。その先には、誰も住んでいないはずの村がある。


「まだ行かないがな」


「珍しいな」


「ここでできることが、まだある」


 エルヴィンは椀を受け取り、薄い粥を口にした。


「それは正しい」


「お前に言われると、腹が立つ」


「よく言われる」


 ガレスは壁にもたれた。

 納屋の内側から、子供の咳がまた聞こえた。昨日よりは少し弱い咳だった。

 北の柵は、以前より少しましになり、水路は少しだけ流れ、見張り台は、板が鳴らなくなった。

 そして桶は、少し近づいた。


 村はまだ、二人を受け入れてはいない。

 だが、追い払ってもいない。


 ガレスは南の道を一度だけ見る。

 暗くなったそこには、もう何も見えない。空の村が本当に空なのかも、分からない。


 今は、まだ分からなくていい。そう思いながら、ガレスは槍の柄に手を置いた。

 アズールを探すにも、水も道も分からない。道を知る者の助けが要る。ここで無理に歩き回って倒れれば、そこで終わる。


 東部の夜は、相変わらず静かだった。

 けれど、その静けさの中に、最初の日にはなかった水の音が、細く流れていた。


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