第46話 東部の村
灰衣の襲撃を受けたその時、ガレスは、煙の向こうへ向かって、アズールの名を叫んでいた。
「アズール!」
返ってきたのは、人の悲鳴と、笛の音と、何かが倒れる鈍い音だけだ。
アズールの返事は聞こえてこなかった。
避難民の列は、すでに列ではなく、荷車が道の真ん中で斜めになり、車輪の片方が畦に落ちている。桶が転がり、水が泥へ染みていく。女が子供を抱えて走り、老人がその後ろで転び、誰かが助け起こそうとして、別の誰かに突き飛ばされた。
灰色の布が煙の中を走る。だが、それが灰衣なのか、灰衣のふりをした者なのか、ただ灰色の布を拾っただけの逃げ兵なのか、ガレスにはもう見分けがつかなかった。
道の左手で笛が鳴り、右手でも別の笛が鳴った。それに合わせるように、列の前後で人が割れた。
「アズール!」
ガレスはもう一度叫び、槍を握り直して煙の方へ踏み出す。
「戻るのか」
横から、エルヴィンの声がした。声は静かだった。だが、その静けさがかえって耳に刺さった。
「アズールがまだあそこにいる」
「俺には見えていない」
「なら探すだけだ」
「今は引け」
ガレスは振り向いた。エルヴィンは、血と泥で汚れた外套の裾を片手で押さえ、もう片方の手で短剣を逆手に持っていた。息は荒い。だが目だけは冷めている。
その目が、煙の奥ではなく、道の左右を見ていた。
「どけ!」
「戻れば死ぬぞ」
「アズールを置いていけと言うのか」
「そうではない」
エルヴィンは、道端に倒れている荷車を見た。荷車の向こうでは、灰色の布を纏った男と、灰色ではない男が、同じ逃げる人間から袋を奪い合っていた。
「生きて探せる場所まで退く」
「今、退くのか」
「今、退かなければ、次がない」
ガレスは歯を噛んだ。煙の中へ戻れば、アズールがいるかもしれない。ブルーノの怒鳴り声が聞こえるかもしれない。ノエルが荷車の脇で、苛立った顔をしているかもしれない。
だが、煙の奥から聞こえるのは、誰の声でもなかった。ただ、崩れていく音だった。
前方から男が走ってきた。槍を抱えている。だが刃は血でなく泥に汚れていた。逃げ兵だった。
その男は、道の真ん中で転んだ子供を蹴りのけようとした。
「どけ!」
ガレスは踏み出し、槍の石突で男の膝を払った。逃げ兵が泥へ転がる。子供は泣くことも忘れた顔で見上げていた。
「立てるか」
ガレスは子供を引き起こし、すぐそばで倒れかけていた女へ押しやった。
「あっちの畦を越えろ。道を使うな」
「でも、母が」
「畦を越えろ!」
女は子供を抱き直し、泣きながら畑の方へ走った。
「ガレス」
エルヴィンが短く呼んだ。
別の灰色が、横の水路を越えてくる。
ガレスは振り返りざまに槍を突き出した。刃は相手の肩をかすめ、勢いを殺す。近づきすぎた男の腕を払い、柄で胸を叩き、道脇へ押し倒す。
殺すつもりはなかった。だが、倒れた男が起き上がるかどうかを確かめる余裕もない。
「こっちだ」
エルヴィンは、荷車の陰から見えていた細い畦道を指した。
「あの先に林がある。煙が薄い」
「アズールは」
「ここにはいない」
「見たのか」
「少なくとも、ここからでは見えていない」
ガレスは言い返そうとした。だが、その前に道の奥から人波が崩れてきた。避難民、兵、荷運び人足、灰色の布、灰色ではない布。誰が誰を押しているのか、もう分からない。
その波に呑まれれば、二人でも立っていられない。
ガレスは槍を横にして、目の前の若い兵を押し戻した。
「道を塞ぐな! 畦へ出ろ! 走るな、転ぶぞ!」
誰も聞いていなかった。いや、何人かは聞いた。だが、聞いた者の後ろから、聞いていない者が押した。兵が倒れる。袋が破れる。豆のようなものが泥に散る。誰かがそれを拾おうとし、別の誰かに蹴られた。
隊列は、もう隊列ではなかった。旗は見えない。荷車も見えない。アズールの声も、ブルーノの怒鳴り声も、ノエルの声も聞こえない。
ガレスは、槍を握る手に力を込めた。
戻りたい。だが、戻る場所が、煙と泥と人の波に潰れていた。
「行くぞ」
エルヴィンが言った。
「退くんじゃない」
ガレスは低く返した。
「分かっている」
「探すためだ」
「分かっている」
エルヴィンは、同じ調子で答えた。慰めではなかった。だからこそ、ガレスは動けた。
二人は畦へ降りた。水路を越え、倒れた柵を踏み、背の低い麦の残りを踏まないようにしながら進んだ。畑の向こうでは、まだ煙が上がっている。笛の音は遠ざかったり、近づいたりした。
途中で、足を押さえて座り込んでいる兵がいた。ガレスは近づきかけたが、それを制してエルヴィンが先に膝をつく。
「歩けるか」
「無理だ」
「這えるか」
「少しなら」
「なら、あの溝まで這え。道には戻るな」
エルヴィンはそう言って、兵の脇に落ちていた短い棒を渡す。
「待て」
ガレスは、兵の肩を見た。浅くはない。だが、今ここで担げば、二人とも足が止まる。
「名は」
「……レオ」
「レオ。溝まで行け。夜まで動くな。声を出すな」
「助けは」
ガレスは一瞬黙った。
「戻れたら戻る」
それを聞いた兵は、全てを悟り覚悟を決めた顔をした。
それでも、棒を掴んで這い始めた。
ガレスはしばらくその背を見ていたが、エルヴィンに促され何も言わずに歩き出した。
日が傾く頃、煙は遠くなった。その代わり、疲れが足に来た。喉は焼け、腹は空き、槍を持つ手が重い。それでも二人は歩いた。
畑と畑の間を抜け、低い林を迂回し、用水路に沿って進んだ。
やがて、小さな村が見えた。
東部の村だった。
本来なら、広い畑と、低い倉と、まっすぐな農道がある、豊かな村だったのだろう。だが今は、村の入口に粗末な柵が立てられていた。柵と呼ぶには頼りない。切った枝と、壊れた荷車の板と、杭を縄で括っただけのものだ。
井戸のそばには、棒を持った老人が立っている。若い男の姿は少ない。女と老人と子供が、戸の隙間や倉の陰からこちらを見ていた。
ガレスが一歩近づくと、柵の内側で誰かが叫んだ。
「止まれ!」
棒を持った老人ではなかった。柵の奥から、痩せた中年の男が出てきた。手には古い槍がある。穂先は錆びていたが、持つ手は震えていなかった。
「それ以上近づくな」
ガレスは足を止め、槍を立て、刃を下げた。
「水を求めたい。一晩、村の外で休ませてほしい」
「灰衣か」
「違う」
「帝国兵か」
「違う」
「逃げ兵か」
「違う」
「では何だ」
男の声には、怒りよりも疲れがあった。
ガレスは少しだけ黙り、答えた。
「はぐれた兵だ」
柵の内側がざわついた。
「はぐれた兵は、逃げ兵と何が違う」
「逃げてきたのは同じだ」
ガレスは認めた。
「だが、奪いには来ていない」
「誰も初めからそうは言わん」
「当然だ」
男が目を細めるのを確認しながら、ガレスは続ける。
「ルミナ沿海伯家寄子、エスター男爵家の分遣隊にいた。ガレス・ローヴァンだ。こちらはエルヴィン・ケーラー。灰衣の襲撃で隊が離散し、証文も荷も失った」
「証は」
「ない」
「なら、信じられんな」
「当然だ」
二度目の「当然だ」に、男の眉がわずかに動いた。
エルヴィンは横で黙っていた。黙ったまま、村を見ている。
井戸、倉、柵、閉じられた納屋、倉の扉についた新しい傷、壁に打ちつけられた板切れ。
その板には、帝国の徴発印らしき焼き跡があった。
男は、ガレスの槍を見た。
「まず槍を捨てろ」
「それはできん」
「なら入れられんな」
「村に入れろとは言わん。柵の外でいい。納屋の外でもいい。一晩だけ休ませてほしい。水を一椀、分けてもらえれば助かる」
「飯は出せん」
「水だけでいい」
「火は使わせん」
「使わない」
「村の女や子供に近づくな」
「近づかない」
「井戸に勝手に近づくな」
「近づかない」
「夜明け前に出ていけ」
「夜明けに出る」
男は、ガレスを見た。
次に、エルヴィンを見る。
「そっちの男は、なぜ黙っている」
「すまんな、少し見ていた」
エルヴィンが初めて口を開いた。
「何をだ」
「どこが壊され、どこがまだ残っているか」
柵の内側で、女が息を呑み、男は槍を握り直した。
「壊したのは俺たちではない」
「そうだろうな」
「なぜ分かる」
「倉の傷は外からだ。柵は急ごしらえ。井戸の周りは村人の足跡ばかりだ。奪う側なら、柵は内側に壊れている」
男は返事をしなかった。ただ、エルヴィンを見る目が少し変わったように感じる。
しばらくして、男は柵の奥へ下がった。
村人たちが小声で言い合う。
入れるな、水くらいなら、武器を持っている、だが二人だ、灰衣ならもっといる、帝国兵なら証を出す、逃げ兵ならもう柵を越えている。
そういう声が、薄い板の向こうから漏れてきた。
しばらくして、男が戻ってきた。
「柵の内には入れるなと言う者が多い」
「それでいい」
「だが、北の納屋の外壁なら、風はしのげる。屋根は半分しかない。水は一椀ずつだ。飯は出せん」
「助かる」
「助けたわけではない」
「それでも、助かる」
男はガレスの顔を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「槍は持っていていい。ただし、刃を村へ向けるな」
「向けない」
「そちらの男もだ」
「向ける相手がいなければ向けない」
エルヴィンが答えると、男は嫌そうな顔をした。
「言い方が悪い」
「よく言われる」
ガレスは小さく息を吐いた。笑いではなかった。だが、少しだけ肩の力が抜けた。
案内されたのは、村の北側にある古い納屋だった。
屋根は半分落ちており、壁板の一部も抜けている。
……中には入らない。
村人が入るなと言ったのではなく、中に別の影があった。避難民だろうか、小さな咳がした。子供のものだ。
ガレスとエルヴィンは、納屋の外壁に背を預けた。
すぐ近くに、小さな桶が置かれた。中には水が入っている。椀が二つ、桶の脇に伏せてあった。
ガレスは椀に水をすくい、一口だけ飲んだ。喉が痛むほど欲しかった。
だが、一息で飲み干すことはできなかった。
「残せ」
エルヴィンが言う。
「分かっている」
「分かっていない顔だ」
「お前は前から人の顔を見る」
「見ることで分かることが多いからな」
エルヴィンは自分の椀を口に運び、少しだけ飲んだ。
それから、村の方へ目を向ける。
「若い男が少ない」
「徴発か」
「徴発、逃亡、灰衣、野盗、どれでもおかしくない」
ガレスは村を見た。
畑はある。倉もある。水路もある。だが、どれも守る者が足りないように見えた。
村の入口には、粗末な柵。井戸には老人の見張り、倉の扉には新しい傷、壁には、徴発を示す板。納屋には、村人ではない咳。
「ここは戦場ではない」
ガレスが言った。
「違うな」
エルヴィンはすぐに返した。
「戦場より悪い。誰も敵だと名乗らない」
ガレスは黙った。その通りだった。
少しして、先ほどの男がまた来た。村長代理だと名乗ったが、名は言わなかった。言いたくないのか、名を覚えられることを恐れているのか、ガレスには分からない。
「灰衣が来た村もある」
男は、納屋から少し離れたところに立ったまま言った。
「帝国兵が来た村もある。徴発だと言って倉を開ける。灰衣を匿ったと言われれば罰を受ける。帝国に協力したと言われれば、灰衣に襲われる」
ガレスは聞いていた。
エルヴィンも、口を挟まなかった。
「逃げ兵は夜に来る。戸を叩かない。野盗は火をつける。腹を空かせた者は、最初は頭を下げる。次に盗む。そして最後には刃を出す」
男の声は平らだった。
怒りも、悲しみも、すり減っていた。
「だから、もう見分けがつかん。灰衣か、帝国兵か、逃げ兵か、ただ腹を空かせた者か。助けたい者から死んでいく」
ガレスは槍を握った。何か言うべきだと思った。
だが、言えることがなかった。
「俺たちは奪らない」
ようやく、それだけ言った。
「今夜はな」
男はそう返した。
ガレスは怒らなかった。怒れなかった。
男の言葉は、侮辱ではなく、経験だった。
「夜明けに出る」
「ああ」
「その前に、壊れた柵があれば直す。桶でも、杭でもいい。水の分は働いて返す」
男は少し驚いた顔をした。
「はぐれた兵が、柵を直すのか」
「水をもらった」
「飯は出していない」
「水も、今は飯だ」
男はしばらく黙っていた。
それから、納屋の方を見た。
「夜が明けたら、北の柵を見る。昨夜、獣ではないものに壊された」
「分かった」
「獣ではないもの、か」
エルヴィンが呟いた。
男は答えなかった。
答えないまま、村へ戻っていった。
日が落ちた。東部の夜は、思ったよりも静かだった。
静かすぎた。
遠くで犬が吠える。すぐに、誰かがその犬を黙らせた。吠え声は途中で切れた。
村の戸が閉められる音が、ひとつ、またひとつと続く。板を内側から渡す音もする。金具の音ではない。木と木が擦れる音だった。
しばらくして、小さな足音が近づいた。
ガレスが顔を上げる。子供だった。十にも届かないくらいの少年が、欠けた椀を両手で持っている。後ろには老婆がいた。老婆は少年の肩を押し、すぐには近づこうとしない。
「これ」
少年が椀を差し出した。中には、焦げた粥のようなものが少しだけ入っていた。米か麦かも分からない。焦げの匂いが強い。
ガレスは受け取らなかった。
「これは、受け取れん」
「余りじゃない」
少年は、少しむっとした顔で言った。
「焦げだ」
「焦げでも飯だ」
老婆が口を開いた。
「なら、働いて返せ」
ガレスは老婆を見た。
老婆は痩せていた。だが、目は弱くない。
「明日、北の柵を直す」
「それだけかい」
「他にあればやる」
「なら、桶も見な。井戸桶の縁が割れてる。水がこぼれる」
「分かった」
「そっちの黙ったのは」
老婆はエルヴィンを顎で示した。
「黙って見てるだけかい」
「見ることで、直せるものもある」
「愛想が悪いね」
「よく言われる」
老婆は鼻で笑った。
少年が椀をさらに差し出す。ガレスはようやく受け取った。
「ありがとう」
「礼を言うんだ……」
「言う」
「帝国兵は言わなかったよ」
「俺は帝国兵じゃない」
「灰衣も言わなかった」
少年の声が少し低くなった。
「そうか」
ガレスは、それ以上言えなかった。
少年と老婆が戻ったあと、二人は焦げた粥を分けた。
ほとんど味はない。焦げと、薄い塩気と、少しの穀物の匂いだけだった。
だが、腹に落ちた。
ガレスは椀を膝の上に置いた。手が、少し震えていることに気づいた。疲れか、怒りか、空腹か、分からなかった。
「眠れ」
エルヴィンが言った。
「眠れると思うか」
「思わない。だが、目を閉じろ」
「アズールは」
「生きているなら、動く。死んでいるなら、俺たちが倒れても戻らない」
ガレスはエルヴィンを睨んだ。
「言い方を選べ」
「選ぶ余裕がない」
「お前は!」
ガレスは言いかけて、やめた。
エルヴィンは間違っていない。間違っていないから、腹が立った。
「アズールは死なん」
「なら、なおさら探す側が先に倒れるわけにはいかんな」
エルヴィンは壁にもたれ、短剣を膝の上に置いた。
目は閉じていない。眠れと言った本人が、眠るつもりのない顔をしていた。
「お前も寝ろ」
「見張る」
「村人に疑われるぞ」
「もう疑われている」
ガレスは小さく息を吐いた。
「交代だ」
「一刻だけ」
「半刻だ」
「一刻」
「……半刻半だ」
「分かった」
エルヴィンは、それで話は終わりだという顔をした。
ガレスは槍を抱いたまま、納屋の壁にもたれた。
眠るつもりはなかった。目を閉じれば、あの時の光景が浮かんでくる。煙が、笛の音が、荷車が軋む音が、アズールの名を呼んだ自分の声が。
返事のない空白が、何度も胸を突く。
それでも、目は勝手に重くなった。東部の夜は静かだった。
静かすぎる夜の中で、ガレスは煙の向こうから聞こえなかった声を、何度も探していた。




