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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第46話 東部の村


 灰衣の襲撃を受けたその時、ガレスは、煙の向こうへ向かって、アズールの名を叫んでいた。


「アズール!」


 返ってきたのは、人の悲鳴と、笛の音と、何かが倒れる鈍い音だけだ。

 アズールの返事は聞こえてこなかった。


 避難民の列は、すでに列ではなく、荷車が道の真ん中で斜めになり、車輪の片方が畦に落ちている。桶が転がり、水が泥へ染みていく。女が子供を抱えて走り、老人がその後ろで転び、誰かが助け起こそうとして、別の誰かに突き飛ばされた。

 灰色の布が煙の中を走る。だが、それが灰衣なのか、灰衣のふりをした者なのか、ただ灰色の布を拾っただけの逃げ兵なのか、ガレスにはもう見分けがつかなかった。


 道の左手で笛が鳴り、右手でも別の笛が鳴った。それに合わせるように、列の前後で人が割れた。


「アズール!」


 ガレスはもう一度叫び、槍を握り直して煙の方へ踏み出す。


「戻るのか」


 横から、エルヴィンの声がした。声は静かだった。だが、その静けさがかえって耳に刺さった。


「アズールがまだあそこにいる」


「俺には見えていない」


「なら探すだけだ」


「今は引け」


 ガレスは振り向いた。エルヴィンは、血と泥で汚れた外套の裾を片手で押さえ、もう片方の手で短剣を逆手に持っていた。息は荒い。だが目だけは冷めている。

 その目が、煙の奥ではなく、道の左右を見ていた。


「どけ!」


「戻れば死ぬぞ」


「アズールを置いていけと言うのか」


「そうではない」


 エルヴィンは、道端に倒れている荷車を見た。荷車の向こうでは、灰色の布を纏った男と、灰色ではない男が、同じ逃げる人間から袋を奪い合っていた。


「生きて探せる場所まで退く」


「今、退くのか」


「今、退かなければ、次がない」


 ガレスは歯を噛んだ。煙の中へ戻れば、アズールがいるかもしれない。ブルーノの怒鳴り声が聞こえるかもしれない。ノエルが荷車の脇で、苛立った顔をしているかもしれない。

 だが、煙の奥から聞こえるのは、誰の声でもなかった。ただ、崩れていく音だった。

 前方から男が走ってきた。槍を抱えている。だが刃は血でなく泥に汚れていた。逃げ兵だった。

 その男は、道の真ん中で転んだ子供を蹴りのけようとした。


「どけ!」


 ガレスは踏み出し、槍の石突で男の膝を払った。逃げ兵が泥へ転がる。子供は泣くことも忘れた顔で見上げていた。


「立てるか」


 ガレスは子供を引き起こし、すぐそばで倒れかけていた女へ押しやった。


「あっちの畦を越えろ。道を使うな」


「でも、母が」


「畦を越えろ!」


 女は子供を抱き直し、泣きながら畑の方へ走った。


「ガレス」


 エルヴィンが短く呼んだ。


 別の灰色が、横の水路を越えてくる。

 ガレスは振り返りざまに槍を突き出した。刃は相手の肩をかすめ、勢いを殺す。近づきすぎた男の腕を払い、柄で胸を叩き、道脇へ押し倒す。

 殺すつもりはなかった。だが、倒れた男が起き上がるかどうかを確かめる余裕もない。


「こっちだ」


 エルヴィンは、荷車の陰から見えていた細い畦道を指した。


「あの先に林がある。煙が薄い」


「アズールは」


「ここにはいない」


「見たのか」


「少なくとも、ここからでは見えていない」


 ガレスは言い返そうとした。だが、その前に道の奥から人波が崩れてきた。避難民、兵、荷運び人足、灰色の布、灰色ではない布。誰が誰を押しているのか、もう分からない。

 その波に呑まれれば、二人でも立っていられない。


 ガレスは槍を横にして、目の前の若い兵を押し戻した。


「道を塞ぐな! 畦へ出ろ! 走るな、転ぶぞ!」


 誰も聞いていなかった。いや、何人かは聞いた。だが、聞いた者の後ろから、聞いていない者が押した。兵が倒れる。袋が破れる。豆のようなものが泥に散る。誰かがそれを拾おうとし、別の誰かに蹴られた。


 隊列は、もう隊列ではなかった。旗は見えない。荷車も見えない。アズールの声も、ブルーノの怒鳴り声も、ノエルの声も聞こえない。


 ガレスは、槍を握る手に力を込めた。

 戻りたい。だが、戻る場所が、煙と泥と人の波に潰れていた。


「行くぞ」


 エルヴィンが言った。


「退くんじゃない」


 ガレスは低く返した。


「分かっている」


「探すためだ」


「分かっている」


 エルヴィンは、同じ調子で答えた。慰めではなかった。だからこそ、ガレスは動けた。


 二人は畦へ降りた。水路を越え、倒れた柵を踏み、背の低い麦の残りを踏まないようにしながら進んだ。畑の向こうでは、まだ煙が上がっている。笛の音は遠ざかったり、近づいたりした。


 途中で、足を押さえて座り込んでいる兵がいた。ガレスは近づきかけたが、それを制してエルヴィンが先に膝をつく。


「歩けるか」


「無理だ」


「這えるか」


「少しなら」


「なら、あの溝まで這え。道には戻るな」


 エルヴィンはそう言って、兵の脇に落ちていた短い棒を渡す。


「待て」


 ガレスは、兵の肩を見た。浅くはない。だが、今ここで担げば、二人とも足が止まる。


「名は」


「……レオ」


「レオ。溝まで行け。夜まで動くな。声を出すな」


「助けは」


 ガレスは一瞬黙った。


「戻れたら戻る」


 それを聞いた兵は、全てを悟り覚悟を決めた顔をした。

 それでも、棒を掴んで這い始めた。

 ガレスはしばらくその背を見ていたが、エルヴィンに促され何も言わずに歩き出した。


 日が傾く頃、煙は遠くなった。その代わり、疲れが足に来た。喉は焼け、腹は空き、槍を持つ手が重い。それでも二人は歩いた。

 畑と畑の間を抜け、低い林を迂回し、用水路に沿って進んだ。


 やがて、小さな村が見えた。


 東部の村だった。

 本来なら、広い畑と、低い倉と、まっすぐな農道がある、豊かな村だったのだろう。だが今は、村の入口に粗末な柵が立てられていた。柵と呼ぶには頼りない。切った枝と、壊れた荷車の板と、杭を縄で括っただけのものだ。

 井戸のそばには、棒を持った老人が立っている。若い男の姿は少ない。女と老人と子供が、戸の隙間や倉の陰からこちらを見ていた。


 ガレスが一歩近づくと、柵の内側で誰かが叫んだ。


「止まれ!」


 棒を持った老人ではなかった。柵の奥から、痩せた中年の男が出てきた。手には古い槍がある。穂先は錆びていたが、持つ手は震えていなかった。


「それ以上近づくな」


 ガレスは足を止め、槍を立て、刃を下げた。


「水を求めたい。一晩、村の外で休ませてほしい」


「灰衣か」


「違う」


「帝国兵か」


「違う」


「逃げ兵か」


「違う」


「では何だ」


 男の声には、怒りよりも疲れがあった。

 ガレスは少しだけ黙り、答えた。


「はぐれた兵だ」


 柵の内側がざわついた。


「はぐれた兵は、逃げ兵と何が違う」


「逃げてきたのは同じだ」


 ガレスは認めた。


「だが、奪いには来ていない」


「誰も初めからそうは言わん」


「当然だ」


 男が目を細めるのを確認しながら、ガレスは続ける。


「ルミナ沿海伯家寄子、エスター男爵家の分遣隊にいた。ガレス・ローヴァンだ。こちらはエルヴィン・ケーラー。灰衣の襲撃で隊が離散し、証文も荷も失った」


「証は」


「ない」


「なら、信じられんな」


「当然だ」


 二度目の「当然だ」に、男の眉がわずかに動いた。

 エルヴィンは横で黙っていた。黙ったまま、村を見ている。

 井戸、倉、柵、閉じられた納屋、倉の扉についた新しい傷、壁に打ちつけられた板切れ。

 その板には、帝国の徴発印らしき焼き跡があった。


 男は、ガレスの槍を見た。


「まず槍を捨てろ」


「それはできん」


「なら入れられんな」


「村に入れろとは言わん。柵の外でいい。納屋の外でもいい。一晩だけ休ませてほしい。水を一椀、分けてもらえれば助かる」


「飯は出せん」


「水だけでいい」


「火は使わせん」


「使わない」


「村の女や子供に近づくな」


「近づかない」


「井戸に勝手に近づくな」


「近づかない」


「夜明け前に出ていけ」


「夜明けに出る」


 男は、ガレスを見た。

 次に、エルヴィンを見る。


「そっちの男は、なぜ黙っている」


「すまんな、少し見ていた」


 エルヴィンが初めて口を開いた。


「何をだ」


「どこが壊され、どこがまだ残っているか」


 柵の内側で、女が息を呑み、男は槍を握り直した。


「壊したのは俺たちではない」


「そうだろうな」


「なぜ分かる」


「倉の傷は外からだ。柵は急ごしらえ。井戸の周りは村人の足跡ばかりだ。奪う側なら、柵は内側に壊れている」


 男は返事をしなかった。ただ、エルヴィンを見る目が少し変わったように感じる。


 しばらくして、男は柵の奥へ下がった。

 村人たちが小声で言い合う。

 入れるな、水くらいなら、武器を持っている、だが二人だ、灰衣ならもっといる、帝国兵なら証を出す、逃げ兵ならもう柵を越えている。

 そういう声が、薄い板の向こうから漏れてきた。


 しばらくして、男が戻ってきた。


「柵の内には入れるなと言う者が多い」


「それでいい」


「だが、北の納屋の外壁なら、風はしのげる。屋根は半分しかない。水は一椀ずつだ。飯は出せん」


「助かる」


「助けたわけではない」


「それでも、助かる」


 男はガレスの顔を見て、ふんと鼻を鳴らした。


「槍は持っていていい。ただし、刃を村へ向けるな」


「向けない」


「そちらの男もだ」


「向ける相手がいなければ向けない」


 エルヴィンが答えると、男は嫌そうな顔をした。


「言い方が悪い」


「よく言われる」


 ガレスは小さく息を吐いた。笑いではなかった。だが、少しだけ肩の力が抜けた。


 案内されたのは、村の北側にある古い納屋だった。

 屋根は半分落ちており、壁板の一部も抜けている。


 ……中には入らない。

 村人が入るなと言ったのではなく、中に別の影があった。避難民だろうか、小さな咳がした。子供のものだ。


 ガレスとエルヴィンは、納屋の外壁に背を預けた。

 すぐ近くに、小さな桶が置かれた。中には水が入っている。椀が二つ、桶の脇に伏せてあった。


 ガレスは椀に水をすくい、一口だけ飲んだ。喉が痛むほど欲しかった。

 だが、一息で飲み干すことはできなかった。


「残せ」


 エルヴィンが言う。


「分かっている」


「分かっていない顔だ」


「お前は前から人の顔を見る」


「見ることで分かることが多いからな」


 エルヴィンは自分の椀を口に運び、少しだけ飲んだ。

 それから、村の方へ目を向ける。


「若い男が少ない」


「徴発か」


「徴発、逃亡、灰衣、野盗、どれでもおかしくない」


 ガレスは村を見た。

 畑はある。倉もある。水路もある。だが、どれも守る者が足りないように見えた。

 村の入口には、粗末な柵。井戸には老人の見張り、倉の扉には新しい傷、壁には、徴発を示す板。納屋には、村人ではない咳。


「ここは戦場ではない」


 ガレスが言った。


「違うな」


 エルヴィンはすぐに返した。


「戦場より悪い。誰も敵だと名乗らない」


 ガレスは黙った。その通りだった。


 少しして、先ほどの男がまた来た。村長代理だと名乗ったが、名は言わなかった。言いたくないのか、名を覚えられることを恐れているのか、ガレスには分からない。


「灰衣が来た村もある」


 男は、納屋から少し離れたところに立ったまま言った。


「帝国兵が来た村もある。徴発だと言って倉を開ける。灰衣を匿ったと言われれば罰を受ける。帝国に協力したと言われれば、灰衣に襲われる」


 ガレスは聞いていた。

 エルヴィンも、口を挟まなかった。


「逃げ兵は夜に来る。戸を叩かない。野盗は火をつける。腹を空かせた者は、最初は頭を下げる。次に盗む。そして最後には刃を出す」


 男の声は平らだった。

 怒りも、悲しみも、すり減っていた。


「だから、もう見分けがつかん。灰衣か、帝国兵か、逃げ兵か、ただ腹を空かせた者か。助けたい者から死んでいく」


 ガレスは槍を握った。何か言うべきだと思った。

 だが、言えることがなかった。


「俺たちは奪らない」


 ようやく、それだけ言った。


「今夜はな」


 男はそう返した。


 ガレスは怒らなかった。怒れなかった。

 男の言葉は、侮辱ではなく、経験だった。


「夜明けに出る」


「ああ」


「その前に、壊れた柵があれば直す。桶でも、杭でもいい。水の分は働いて返す」


 男は少し驚いた顔をした。


「はぐれた兵が、柵を直すのか」


「水をもらった」


「飯は出していない」


「水も、今は飯だ」


 男はしばらく黙っていた。

 それから、納屋の方を見た。


「夜が明けたら、北の柵を見る。昨夜、獣ではないものに壊された」


「分かった」


「獣ではないもの、か」


 エルヴィンが呟いた。


 男は答えなかった。

 答えないまま、村へ戻っていった。


 日が落ちた。東部の夜は、思ったよりも静かだった。

 静かすぎた。


 遠くで犬が吠える。すぐに、誰かがその犬を黙らせた。吠え声は途中で切れた。

 村の戸が閉められる音が、ひとつ、またひとつと続く。板を内側から渡す音もする。金具の音ではない。木と木が擦れる音だった。


 しばらくして、小さな足音が近づいた。


 ガレスが顔を上げる。子供だった。十にも届かないくらいの少年が、欠けた椀を両手で持っている。後ろには老婆がいた。老婆は少年の肩を押し、すぐには近づこうとしない。


「これ」


 少年が椀を差し出した。中には、焦げた粥のようなものが少しだけ入っていた。米か麦かも分からない。焦げの匂いが強い。


 ガレスは受け取らなかった。


「これは、受け取れん」


「余りじゃない」


 少年は、少しむっとした顔で言った。


「焦げだ」


「焦げでも飯だ」


 老婆が口を開いた。


「なら、働いて返せ」


 ガレスは老婆を見た。

 老婆は痩せていた。だが、目は弱くない。


「明日、北の柵を直す」


「それだけかい」


「他にあればやる」


「なら、桶も見な。井戸桶の縁が割れてる。水がこぼれる」


「分かった」


「そっちの黙ったのは」


 老婆はエルヴィンを顎で示した。


「黙って見てるだけかい」


「見ることで、直せるものもある」


「愛想が悪いね」


「よく言われる」


 老婆は鼻で笑った。

 少年が椀をさらに差し出す。ガレスはようやく受け取った。


「ありがとう」


「礼を言うんだ……」


「言う」


「帝国兵は言わなかったよ」


「俺は帝国兵じゃない」


「灰衣も言わなかった」


 少年の声が少し低くなった。


「そうか」


 ガレスは、それ以上言えなかった。


 少年と老婆が戻ったあと、二人は焦げた粥を分けた。

 ほとんど味はない。焦げと、薄い塩気と、少しの穀物の匂いだけだった。

 だが、腹に落ちた。


 ガレスは椀を膝の上に置いた。手が、少し震えていることに気づいた。疲れか、怒りか、空腹か、分からなかった。


「眠れ」


 エルヴィンが言った。


「眠れると思うか」


「思わない。だが、目を閉じろ」


「アズールは」


「生きているなら、動く。死んでいるなら、俺たちが倒れても戻らない」


 ガレスはエルヴィンを睨んだ。


「言い方を選べ」


「選ぶ余裕がない」


「お前は!」


 ガレスは言いかけて、やめた。

 エルヴィンは間違っていない。間違っていないから、腹が立った。


「アズールは死なん」


「なら、なおさら探す側が先に倒れるわけにはいかんな」


 エルヴィンは壁にもたれ、短剣を膝の上に置いた。

 目は閉じていない。眠れと言った本人が、眠るつもりのない顔をしていた。


「お前も寝ろ」


「見張る」


「村人に疑われるぞ」


「もう疑われている」


 ガレスは小さく息を吐いた。


「交代だ」


「一刻だけ」


「半刻だ」


「一刻」


「……半刻半だ」


「分かった」


 エルヴィンは、それで話は終わりだという顔をした。


 ガレスは槍を抱いたまま、納屋の壁にもたれた。

 眠るつもりはなかった。目を閉じれば、あの時の光景が浮かんでくる。煙が、笛の音が、荷車が軋む音が、アズールの名を呼んだ自分の声が。

 返事のない空白が、何度も胸を突く。


 それでも、目は勝手に重くなった。東部の夜は静かだった。

 静かすぎる夜の中で、ガレスは煙の向こうから聞こえなかった声を、何度も探していた。


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