第45話 腹の数
「親分、新入りです」
また、その声だった。
ブルーノは、井戸の脇で大棍棒を肩に担いだまま、ゆっくりと振り返った。
「またかよ」
「五人です」
「飯は持ってきてんのか」
「持ってません」
「帰せ」
「帰る場所がないそうです」
丸顔の若者は、言い慣れた顔でそう言った。
ブルーノは眉間に皺を寄せる。
「それ、前にも聞いたぞ」
「昨日も聞きました」
「なら帰せ」
「帰る場所がないそうです」
「だからそれを聞いたって言ってんだろうが」
丸顔の若者は困ったように振り返った。
その後ろには、泥のついた外套を着た若い男たちが五人、所在なげに立っていた。剣を持っている者が一人。槍の穂先だけを棒に縛りつけた者が一人。残りは手ぶらに近い。
どれも痩せている。だが、目だけは、ぎらぎらしていた。
「どこから来た」
ブルーノが聞くと、五人の中で一番背の高い男が答えた。
「北の道から」
「灰色か」
「違います」
「帝国兵か」
「違います」
「野盗か」
男は少し黙った。
「違う、と言いたいです」
ブルーノは大棍棒を持ち直した。
五人が同時に一歩下がる。
「なら、働け」
「え」
「飯は持ってねえ。帰る場所もねえ。なら働け。働かねえなら出てけ」
「帰る場所が……」
「何度も言わすんじゃねえ」
丸顔の若者が、妙に得意げに五人へ向き直った。
「親分の掟だ。飯は働いて食う」
「親分じゃねえ」
「それと、火をつけるな。女と子供に手を出すな。殺すな。奪るな。親分と呼ぶと怒られる」
「怒られるのか」
「怒られる」
「じゃあ、何て呼べばいい」
「親分」
「なんでだ」
「怒られるだけで済むから」
「おい」
ブルーノの声に、丸顔の若者は笑いながら逃げた。
新入り五人は、笑っていいのか分からない顔をしていた。
廃村は、また騒がしくなっていた。南の廃農家にいた野盗どもを潰してから、数日が過ぎている。あの時に手に入れた荷車、干し豆、芋袋、干し肉、塩、短槍、弓、剣。どれもありがたいものだった。五十人近くまで膨らんだ若い男どもを、しばらく食わせられるはずだった。
しばらく、のはずだった。
「親分」
「親分じゃねえ」
鼻傷の若者が、木切れを片手に走ってきた。何かを書いた跡がある。線と丸がいくつも刻まれているが、数えているのか遊んでいるのか、ブルーノにはよく分からない。
「今朝の人数、たぶん七十を超えました」
「たぶんって何だ」
「数えている途中で喧嘩が始まって」
「止めろ」
「止めました。そしたら別の奴らが魚を取りに行って」
「数えろ」
「数えようとしたら、新入りが増えました」
ブルーノは空を見上げた。
青い空だった。腹の足しにはならなかった。
「なんで増える」
「親分の噂です」
「噂を煮ろ」
「煮ても腹は膨れません」
「分かってるなら言うな」
増え方は、ひどく雑だった。
三日前、川沿いの小屋に固まっていた逃げ兵くずれが十人ほどいた。槍を向けてきたので、ブルーノが前の二人を転がしたところ、荷車を押すことになった。
昨日、近くの村から追い出された自警団くずれが七人来た。村に残れば灰衣に疑われ、帝国兵に見つかれば逃亡兵と間違われると言っていた。古参と揉めたので、ブルーノが両方殴った。いまは井戸の泥を掻き出している。
その前には、武装人足だったという若者が来た。荷車の車輪を直せると言ったので、荷車係にされた。本人は荷車係が何か分かっていなかったが、ブルーノも分かっていなかった。
来る。揉める。殴る。働かせる。飯を分ける。また増える。
それだけだった。だが、それだけで廃村は膨らんでいった。
屋根の残った三軒では足りなくなり、壁だけの納屋にも寝藁が運ばれた。井戸の周りには桶が増えた。食料置き場には、空になった袋が増え、鍋の前には、椀を持った若い男たちの列が伸びた。
鍋の中身は、日ごとに薄くなった。
「昨日より減ってるぞ」
ブルーノが鍋をのぞき込んで言った。
鍋係にされた痩せた若者が、困った顔で木べらを持っている。
「人が増えましたから」
「昨日も聞いたぞ」
「今日も増えました」
「明日は」
「たぶん増えます」
「増やすんじゃねえ」
「俺が増やしてるわけじゃありません」
鍋の中には、豆が少しと、細く刻んだ芋が少し。あとは湯だった。湯に豆と芋の記憶が浮かんでいるようなものだった。
若い男は食う。元野盗も食う。逃げ兵くずれも食う。自警団くずれも食う。働く者も食う。働かない者も、怒鳴られてから働き、それでも食う。
寝ていた者も、起きれば腹が減ったと言う。喧嘩していた者も、殴られて転がったあと、腹が減ったと言う。
ブルーノは、鍋の底を見つめた。
「ノエルがいりゃあな」
小さく呟く。
ノエルなら、何人いて、何日食えるかを数えたのだろう。豆をどれだけ残すか、芋をいつ煮るか、塩をどこまで薄めるか。井戸の水、薪、鍋の数、椀の数まで見て、苛立った顔で文句を言ったに違いない。
ブルーノには分からない。分かるのは、鍋の底が見えるのが早くなったことだけだった。
「親分」
「親分じゃねえ」
丸顔の若者が、空の椀を持って立っていた。
「どうします」
「飯を探せ」
「どこにですか」
「畑。水路。林だ」
近くにいた元野盗が顔を上げた。
「畑のもんを取っていいんですか」
「駄目だ」
「じゃあ何を取るんですか」
「鳥だ」
「鳥」
周りの若者たちが顔を見合わせた。
「畑には獣が寄る。鳥もだ」
「はい」
「鳥は旨い」
「はい」
「だから鳥を獲れ」
「……親分、頭いいっすね」
「馬鹿にしてんのか」
「してません」
「してる顔だ」
大棍棒が少し持ち上がり、若者たちは散った。
廃村の周囲には、畑が多かった。
焼けた村の跡を少し離れれば、畦が走り、用水路が流れ、草の伸びた畑や、まだ人が手を入れている畑がある。遠くには小さな林があり、農道は低い丘の向こうへ続いていた。
東部は、広い。空も、畑も、道も広い。そして、鳥が多かった。
畑に落ち穂が残っていれば鳥が降りる。水路があれば水鳥が来る。草の種をついばむ小鳥もいれば、畦から飛び立つ鳥もいる。人の気配が減った畑には、普段より多くのものが集まっていた。
ただし、鳥は待ってくれない。
「親分、逃げます!」
「鳥だからな」
「どうすれば!」
「逃げる前に獲れ!」
「無茶です!」
畑の端で、若者たちが叫んでいた。弓を持った元野盗が一人、得意げに構えていたが、放った矢は鳥のはるか上を飛んでいった。鳥たちは一斉に飛び立ち、隣の畑へ移る。
「当たりません!」
「近づけ」
「近づいたら逃げます!」
「じゃあ逃げねえようにしろ!」
「どうやって!」
「知らねえ!」
ブルーノは答えてから、自分でも少し困った。殴れる相手なら何とかなる。走ってくる相手なら叩き伏せられる。槍を向ける相手なら折ればいい。
鳥は、飛ぶ。飛ぶ相手は面倒だった。
「おい、お前」
ブルーノは、畦の上で黙って鳥の動きを見ていた小柄な若者を呼んだ。昨日来た新入りだったはずだ。
「鳥が分かるのか」
「少しだけです。畑にいたんで」
「どの畑だ」
「東の方です。実家の畑で、よく追い払ってました」
「なら、鳥係だ」
「鳥係って何ですか」
「鳥を何とかする係だ」
「何とか……」
「できるか」
小柄な若者は、畑と鳥と、弓を外した元野盗を見た。
「一人で追うと逃げます。何人かで回して、向こうの水路の方へ寄せれば、網を張れます」
「網はあるか」
「縄ならあります。あと、荷車の覆い布」
「おい、縄を持ってこい。布もだ」
元人足の若者が手を上げる。
「布を裂いてもいいんですか」
「使えるなら裂け」
「あとで荷車にかける布が足りません」
「腹が減ってちゃあ意味がねえ」
「それはそうです」
元人足たちが動き始めた。縄を張る者。布を広げる者。畦の陰に伏せる者。鳥係にされた小柄な若者が、妙に真剣な顔で指示を出す。
「そっち、立たないで。影が見えます」
「影?」
「鳥が逃げます」
「鳥ってそんなに賢いのか」
「ここの人間よりは」
「お前、誰を見て言った」
「全員です」
笑いが起きる。だが、今度は少し違った。
ただ騒ぐのではなく、皆が鳥の動きと、鳥係の声を見ていた。
しばらくして、畑に降りた鳥が数羽、追い込みに驚いて低く飛んだ。張られた布に一羽が引っかかり、別の一羽を元野盗の矢が落とした。さらに、足の速い若者が畦を走って一羽を棒で叩いた。
「獲れた!」
「親分、鳥です!」
「見りゃ分かる」
「鳥係すごい!」
「俺、鳥係なんですか」
「親分がそう言った」
「親分じゃねえ!」
ブルーノの怒鳴り声に鳥がまた飛んだ。
「親分、静かに!」
「誰に言ってんだ」
「鳥係が怒られます!」
「俺は怒ってねえ!」
結局、鳥は五羽獲れた。大した量ではない。七十を超えたかもしれない若い男たちの腹を満たすには、あまりに少ない。
それでも、獲れた。湯だけの鍋よりはましだった。
用水路でも、別の騒ぎが起きていた。
「親分、魚です!」
水路の縁で、若者が両手を掲げていた。その手の中には、泥の塊があった。
「それは泥だ」
「中にいるかと」
「いねえ」
別の若者が、枝に糸のようなものを結んでいた。釣り竿のつもりらしい。餌には虫をつけている。竿を振った瞬間、枝が折れた。
「逃げました!」
「竿がな」
川沿い出身だという若者が、ため息をついて前に出た。
「釣りより、そっちの浅いところを塞いだ方が早いです」
「魚が分かるのか」
「少しだけ」
「じゃあ魚係だ」
「さっき鳥係を作ってましたよね」
「鳥じゃねえだろ」
「そうですけど」
魚係は、石を並べ、桶を沈め、浅い水路を追い込ませた。うまくはいかなかった。水を濁しすぎて見えなくなり、桶をひっくり返し、若者二人が用水路に落ちた。
それでも、小魚がいくつか獲れた。
「少ねえな」
ブルーノが言うと、魚係は濡れた袖を絞りながら答えた。
「魚も、急に七十人分は増えません」
「使えねえな」
「魚に言ってください」
林では、兎が一匹獲れた。
正確には、逃げ兵くずれが仕掛けた罠に引っかかったものを、別の若者が騒いで逃がしかけ、元野盗が飛びかかって捕まえた。
卵も少し見つかった。食える草も集まった。誰かが木の実を持ってきたが、食えるか分からなかったので、丸顔の若者が毒見すると言ってブルーノに止められた。
「なんで止めるんですか」
「死なれたら面倒だ」
「親分、優しい」
「面倒だって言っただろ」
「優しい」
「殴るぞ」
「優しく殴ってください」
「注文をつけるな」
昼過ぎ、獲物を持って廃村へ戻る頃には、若者たちの顔に少しだけ明るさが戻っていた。
鳥が五羽。小魚がいくつか。兎が一匹。卵が数個。食える草。木の実は保留。七十人か、それ以上の腹には足りない。だが、手ぶらではなかった。
問題は、そこからだった。
「これは俺が獲った鳥です」
弓を持った元野盗が、鳥を一羽抱えて言った。
「鍋に入れる」
古参の半端者が言う。
「俺が射た」
「親分の掟だ。飯は分ける」
「俺は働いた」
「みんな働いた」
逃げ兵くずれが口を挟む。
「戦える奴が先に食った方がいい。腹が減ったら戦えない」
「戦う前に腹が減ってる奴はどうすんだ」
「役に立つ奴から食うべきだ」
「なら俺だ」
「お前は昨日、井戸の桶を割った」
「あれは桶が弱かった」
「桶のせいにするな」
声が大きくなった。
鍋の前に人が集まる。鳥を抱えた元野盗は、鳥を離さない。古参はそれを睨む。逃げ兵くずれは腕を組む。新入りたちは、どちらにつけば飯が増えるか考えている顔をしている。
ブルーノは、黙って近づいた。
気づいた者から口を閉じる。
「鍋に入れろ」
元野盗が、鳥を抱えたまま言う。
「俺が獲った鳥です」
「鍋に入れろ」
「なんでですか」
「一人で食ったら一人分だ」
「はい」
「鍋に入れりゃ、全員が鳥の匂いくらい嗅げる」
「匂いですか」
「肉も少しは入る」
周囲で、誰かが吹き出した。元野盗は納得していない顔だったが、ブルーノの大棍棒を見て、鳥を差し出した。
「親分は、分けるんですね」
「親分じゃねえ」
「なんで分けるんですか」
ブルーノは、鍋を見た。鳥を見た。椀を持って並ぶ若い男たちを見た。
「一人で食ったら、隠す奴が出る」
「はい」
「隠したら、奪る奴が出る」
「はい」
「奪ったら、殴ることになる」
「はい」
「面倒だ」
元野盗は黙った。古参の半端者が、なぜか感心したように頷く。
「親分の深い考えだ」
「浅いぞ」
「深いです」
「浅いって言ってんだろうが」
鳥は鍋に入った。
兎も入った。小魚も、卵も、食える草も入った。鍋係が、骨ごと煮る。肉は少ない。匂いだけは、確かに広がった。
その匂いに、若者たちが集まる。
元野盗も、逃げ兵くずれも、自警団くずれも、武装人足も、昨日来た者も、今日来た者も、同じ鍋の前に並ぶ。
椀は足りない。割れた椀を持つ者もいる。木片を皿のように使う者もいる。手で受けようとして怒鳴られる者もいる。
それでも、列ができた。
「押すな」
「先に並んだ」
「嘘つけ」
「鳥係は先ですか」
「鳥係って何だ」
「鳥を何とかする係です」
「魚係も先にしてください」
「お前ら、係で偉くなるな」
係が増えていた。
井戸係。薪係。鍋係。鳥係。魚係。罠係。見張り係。荷車係。新入りを見張る係。親分を親分と呼んで怒られる係。
誰も決まりを書いていない。名簿もない。人数も怪しい。誰がどの係かも、たぶん明日には変わる。
それでも、誰かが何かをしていた。
ブルーノは、鍋の湯気を見ながら黙った。
アズールなら、こいつらの名を聞いたのだろう。
何ができるか、何ができないかを見たのだろう。こいつは荷車、こいつは見張り、こいつは怪我人の世話、こいつは水汲み、と、もっと柔らかく決めたのだろう。
ブルーノには分からない。だから、できると言った奴にやらせた。
できない奴には運ばせた。邪魔な奴は怒鳴った。奪る奴は殴った。火をつける奴は潰すと言った。それだけだった。
「親分」
「親分じゃねえ」
鼻傷の若者が、椀を二つ持ってきた。
一つをブルーノへ差し出す。
「親分の分です」
「俺は後でいい」
「後だと薄くなります」
「もう薄いだろ」
「さらにです」
ブルーノは椀を受け取った。
中には、鳥の骨と、芋のかけらと、豆が二つ浮いていた。肉はほとんどない。だが、湯だけではなかった。
「……ましだな」
「はい」
「明日はもっと獲れ」
「親分も来ますか」
「鳥は面倒だ」
「魚は」
「濡れる」
「兎は」
「速い」
「何ならできるんですか」
「殴る」
「獲物が潰れます」
「だから面倒だって言ってんだろ」
鼻傷の若者が笑う。周りでも、椀を抱えた若者たちが笑った。腹は満ちていない。だが、笑うだけの力は残っていた。
その頃、廃村の外では、別の話になっていた。
廃村の野盗が、畑を見回っている。弓を持った若い男たちが農道に立っている。鳥を撃ち、用水路に罠を張り、林へ人を出している。
人数は、もう百に近いらしい。大棍棒を持った親分がいる。野盗を潰し、逃げ兵を呑み込み、若い男を集めている。
実際には、畑の芋を取るなと怒鳴られ、鳥を追って転び、水路で泥だらけになり、薄い鍋を分けているだけだった。
だが、村から見れば分からない。畑を守っているのか、畑を狙っているのか。鳥を獲っているのか、次に村を襲う下見をしているのか。
若者たちが集まっていることだけは、確かだった。
その日の夕方、近くの村では、子供を畑へ出すなと言われ、女たちは洗い場へ行く時間を早め、男たちは鍬のそばに古い槍を置いた。
夕暮れが近づいた廃村には、鳥の羽が散っていた。用水路から戻った者たちの足跡が泥を引いている。鍋の周りには、空になった椀と、骨をしゃぶる若者たちがいる。
満腹ではない。だが、一日は凌いだ。
ブルーノは井戸の縁に腰を下ろし、大棍棒を膝に置いた。
遠くで、鳥係が明日の相談をしている。魚係は、石の並べ方が悪かったと元人足に文句を言っている。鍋係は、骨を捨てるな、明日も煮ると言っている。
「親分!」
見張りの声がした。
「親分じゃねえ」
ブルーノは反射で返した。
だが、見張りの若者は笑わなかった。農道の方から走ってくる。息が切れている。
「人が来ます」
「何人だ」
「二人……いや、四人」
「灰色か」
「違います」
「帝国兵か」
「違うと思います」
「野盗か」
「分かりません」
「ちゃんと見てこい!」
見張りは唾を飲んだ。
「一人は、槍を持ってます」
ブルーノの手が、大棍棒の柄にかかった。
「もう一人は」
見張りは少し迷った。
「静かです」
ブルーノは顔を上げた。
夕暮れの農道に、人影が見えた。
先頭に、槍を持った男がいる。背筋が伸び、歩き方に迷いがない。すぐ隣には、細身の男がいた。声を張るでもなく、槍を構えるでもなく、ただ静かに廃村を見ている。
その後ろに、村人らしき者が二人。案内役か、見届け役か、怯えたように距離を取っていた。
槍の男は、廃村へ入った。
若者たちを見る。井戸を見る。荷車を見る。鍋を見る。鳥の羽が散った地面を見る。壁に立てかけられた短槍や棒を見る。
そして最後に、ブルーノを見た。
「……ブルーノ」
遅せえじゃねえか、ブルーノは内心でそう思った。




