第43話 廃村
「親分、起きてください」
ブルーノは、目を開けた。
「誰が親分だ」
最初に見えたのは、焦げた梁だ。次に、穴のあいた屋根。黒く煤けた壁。崩れかけた土間。鼻の奥に、湿った灰と焼けた芋の匂いが入ってきた。
知らない場所だった。襲撃から、一晩が過ぎていた。いや、知らない場所だということは、起きる前から分かっていた。身体の下の干し草は固く、毛布はなく、背中には土間の冷たさが残っている。自分がいつもの野営地にも、荷車のそばにも、アズールの近くにもいないことだけは分かった。
そして、知らない若い男が三人、ブルーノを覗き込んでいる。
「親分、水です」
「芋も焼けてます」
「見張りも戻りました」
「親分じゃねえ」
ブルーノは起き上がった。起き上がっただけで、目の前の三人が半歩下がった。ひとりは木椀を落としかけ、もうひとりは焼けた芋を両手で抱えたまま固まった。最後のひとりは、なぜか少し誇らしそうにうなずいている。
「親分、寝起きから機嫌悪いですね」
「親分って呼ぶからだ」
「じゃあ、兄貴」
「それも違う」
ブルーノは頭を掻いた。指先に泥と灰がつく。髪も服も、戦場の泥と畑の土と煙の匂いで固まっていた。昨日のことを思い出そうとして、眉間に皺が寄った。
煙。笛。荷車。悲鳴。倒れた道標。横倒しになった車輪。灰色の布。
誰が敵で、誰が逃げているのか、よく分からなかった。
ただ、目の前に刃を持って走ってくる奴がいた。なら、そいつらを殴ればいい。荷車の陰から飛び出してきた奴がいた。なら、叩けばいい。逃げる奴がいた。そいつがまた別の奴を呼ぶ。なら、追えばよかった。簡単なことだ。
でも、アズールの声は聞こえず、ガレスの怒鳴り声もない。エルヴィンの短い指示もない。ノエルの文句もない。
ブルーノは、最初は戻るつもりだった。アズールのところへ戻って、邪魔な奴を全部叩き潰して、あの細い肩を荷車の後ろへ押し込めるつもりだった。
だが、戻る道に敵がいた。敵を叩くと、その向こうで別の敵が逃げた。逃げた敵を追うと、畦の向こうでまた笛が鳴った。腹が立った。だから追った。
気づいた時には、煙の向こうに旗はなく、荷車もなく、アズールもいなかった。
アズールなら、止めた。ガレスなら、怒鳴った。エルヴィンなら、道が違うと言った。ノエルなら、馬鹿と呼んだ。
誰もいなかった。だから、ブルーノは止まれなかった。
「……くそ」
ブルーノは小さく吐き捨てた。
けれど、アズールが死んだとは思っていない。あいつは弱い。剣も強くない。馬鹿みたいに前へ出る時もあるし、自分一人では荷袋の口もまともに結べない時がある。だが、そう簡単には死なない。
ガレスがいる。エルヴィンもいる。カインもいた。誰かがそばにいれば、アズールは死なない。死なせない。少なくとも、ブルーノはそう思った。
だから、走り回るより先に、飯だった。腹が減っていた。馬鹿みたいに腹が減っていた。
煙と食い物の匂いを見つけたのは、昨日の昼を過ぎた頃だった。畑の端を歩き、用水路をまたぎ、焦げた倉の脇を抜けた先に、村の跡があった。
焼けた家。戸の外れた納屋。崩れた井戸囲い。踏み荒らされた畑。誰も住んでいないはずなのに、煙だけが細く上がっていた。
ブルーノは隠れなかった。腹が減っていたからだ。
廃屋の前に、若い男たちが十人ほどたむろしていた。槍とも棒ともつかないものを持っている者。腰に短剣を差している者。鍋を囲んでいる者。寝転がっている者。灰色の布をまとっている者はいない。帝国兵にも見えない。
だから、ブルーノは言った。
「飯はあるか」
若い男たちは、一斉にこちらを見た。
「……は?」
「腹が減った。分けてくれ」
沈黙が落ちた。それから、ざわめきが起こった。
「なんだこいつ」
「でけえ」
「灰衣か?」
「灰衣なら灰の布があるだろ」
「帝国兵か?」
「帝国兵が一人で飯くれって来るかよ」
「じゃあ野盗か?」
「俺らの方が野盗じゃねえのか?」
「うるせえ」
ブルーノが言うと、ざわめきが止まった。止まったが、完全には引かなかった。鼻に傷のある若い男が、一歩前へ出る。手には錆びた短槍。顔は強がっているが、膝が少し逃げていた。
「ここは俺たちの場所だ」
「飯を分けろっつったんだ。身ぐるみ置けとは言ってねえ」
「飯が欲しけりゃ、持ってるもん置いてけ。そのでかい棍棒も――」
最後まで言わせなかった。
ブルーノは一歩で間合いを詰め、短槍の柄を左手でつかみ、右手で男の胸倉を持ち上げた。男の足が地面を離れる。周囲が声を上げる前に、ブルーノは男を干し草の山へ投げた。
次に飛びかかってきた二人は、大棍棒を使うまでもなかった。ひとりは腹を蹴られて鍋の横に転がり、もうひとりは肩をつかまれて壁に叩きつけられた。棒を振った男は、棒ごと手首を押さえられ、膝裏を蹴られて地面に沈んだ。
数えるのも面倒だった。立っている奴を倒す。来る奴を転がす。逃げる奴は追わない。刃を向けた奴だけ、少し強めに殴る。しばらくすると、立っているのはブルーノだけになった。
「で」
ブルーノは、鍋の方を見た。
「飯はどこだ」
土間にうずくまっていた丸顔の若者が、震える指で鍋を指した。
「あ、あっちです」
「最初から出せ」
ブルーノは鍋の前に腰を下ろした。中身は豆と芋を煮ただけのものだった。肉はない。塩も薄い。だが、食えないほどではなかった。
木椀を奪うように受け取り、二杯食った。三杯目で少し落ち着いた。
周りでは、転がされた若者たちが、痛そうに呻きながらこちらを見ている。
「……殺さねえんですか」
鼻に傷のある男が、干し草の中から言った。
「殺すほどじゃねえ」
ブルーノは豆を噛みながら答えた。
「馬鹿なだけだ」
火をつけていたわけじゃない。女や子供を殴っていたわけじゃない。荷を奪って殺したわけでもない。腹を空かせて、廃村に集まって、強がっていただけだ。
アズールなら、殺すなと言う。だから、殺さない。ただ、それだけ。
「親分……」
「誰が親分だ」
ブルーノは椀を置いた。
「俺はブルーノだ。親分じゃねえ」
「じゃあ、ブルーノ親分」
「増やすな」
若者たちは、妙な顔をした。恐れている。だが、逃げてはいない。さっきまでの強がりではない。もっとたちの悪い目だった。強いものを見つけて、そこへ寄ろうとする目だ。ブルーノは、その目が気に入らない。だが、殴るほどでもなかった。
「おい」
「はい、親分」
「親分じゃねえ。井戸はどこだ」
「裏です」
ブルーノは立ち上がり、廃屋の裏へ回った。井戸は残っていた。囲いは半分崩れているが、水はある。桶も、割れていないものが一つあった。その周りには、食い散らかした芋の皮と、泥のついた布と、誰かが捨てた骨が落ちている。
「汚すな」
ブルーノは言った。
「え?」
「井戸を汚すな。水が飲めなくなったら終わりだろうが」
「は、はい」
「火も広げるな。屋根が残ってる家がある。燃やしたら寝る場所がねえ」
「はい」
「飯を隠すな。隠すなら一か所にしろ。腐らせたらぶん殴る」
「はい」
「弱い奴から奪るな。女とガキに手ぇ出すな。殺すな。火ぃつけるな。やったら俺が潰す」
若者たちが、少しずつ顔を見合わせた。
「親分の命令だ」
「親分じゃねえ」
「命令……」
「怒鳴ってるだけだ」
「親分の怒鳴りは命令です」
ブルーノは、丸顔の若者の頭を軽くはたいた。若者は痛がったが、なぜか少し嬉しそうだった。その時点で、ブルーノはようやく廃村全体を見た。
井戸がある。屋根の残った家が三つある。納屋も、壁だけなら使える。畑には、掘り残された芋が少しある。道からは外れている。けれど、完全に離れてはいない。若い馬鹿どももいる。
アズールが戻ってきたら、使えるかもしれねえ。そう思った。
アズールは、人を集める。集めるというより、なぜか戻ってくる。敗残兵も、人足も、負傷者も、放っておくとアズールの周りに残る。
だが、人が残れば、飯がいる。水がいる。怪我人を寝かせる場所がいる。荷を置く場所がいる。
ブルーノは数字は分からない。帳面も読まない。ノエルのように、残りの食料を見て明日の人数を数えることもできない。
それでも、場所が要ることくらいは分かる。
「ここ、使えるな」
ブルーノがつぶやくと、丸顔の若者が目を輝かせた。
「何にです、親分」
「親分じゃねえ。アズールが戻った時の場所だ」
「アズール?」
「俺の主だ」
若者たちの間に、変な沈黙が落ちた。
「親分の、主……」
「親分を使う人……」
「大親分様……?」
「変な呼び方すんじゃねえ」
「じゃあ、若様ですか」
「知らねえ。アズールはアズールだ」
「親分の親分の城……」
「城じゃねえ。廃村だ」
「再起の砦……」
「廃村だって言ってんだろうが」
また一人はたいた。
それでも、ブルーノは廃村に残ることにした。闇雲に走り回っても、アズールは見つからない。道を知らない。灰衣がどこにいるかも分からない。帝国兵がどこにいるかも分からない。
なら、聞けばいい。道を知っている奴を使えばいい。
目の前の半端者たちは、馬鹿だが、近くの道や村の噂は少し知っていた。灰衣には入っていない。帝国にも捕まりたくない。村にも帰れない。だから、道の端をうろついて生きている。
役に立たないこともない。
「おい、お前ら」
「はい、親分」
「親分じゃねえ。近くを見てこい。帝国の旗、灰色の集まり、荷車の跡。何でもいい。アズールって名を聞いたら戻れ。ガレス、エルヴィン、ノエル、カインでもいい」
若者たちは、互いに顔を見合わせた。
「情報集めですね」
「そうだ」
「親分のために」
「違う。アズールのためだ」
「つまり、大親分様のためですね」
「お前、もう一回殴るぞ」
若者たちは散っていった。散っていったが、半刻もしないうちに、ブルーノは間違いに気づいた。
「親分!」
廃村の外から声がした。忍ぶ気のない大声だった。ブルーノは井戸端から顔を上げる。
「でけえ声を出すな」
「すみません、親分!」
「だからでけえを出すな」
戻ってきた若者は、干し肉を一切れ持っていた。
「村人に聞いてきました。帝国兵は東の方にいるらしいです」
「そうか。その肉はなんだ」
「もらいました」
「どうやって」
「帝国兵の場所を教えてくれって言ったら、最初は知らないって言われたんで、親分がいるぞって言ったらくれました」
ブルーノは立ち上がった。
「奪るなと言っただろうがよ」
「奪ってません。もらいました」
「脅したんじゃねえか」
「ちょっとだけです」
「それを奪ったって言うんだろうがよぉ」
若者は、はたかれて転がった。干し肉は没収した。別の若者は、芋を抱えて戻ってきた。
「これは」
「畑に落ちてました」
「誰の畑だ」
「分かりません」
「分からねえ畑から取るな」
「でも廃村の畑と似てました」
「似てるで取るんじゃねえ」
またはたいた。別の者は、灰衣を見たと言った。よく聞くと、灰色の布を干していた農家を遠目に見ただけだった。
別の者は、荷車の跡を。見に行かせると、牛車の跡かもしれないと言い出し、別の者は、帝国兵を見たと言い、どこで見たか聞くと、怖くて逃げたので分からないと答える。
「使えねえ」
ブルーノは頭を抱えた。
それでも、完全に無駄ではなかった。
東の方に帝国の前哨らしき場所がある。北の道は灰色の連中が通ったらしい。南の村は怯えている。西の畑には避難民の足跡が多い。荷車の跡は、どれが誰のものか分からない。
分かることは少ない。分からないことは多い。だが、廃村に座っているだけよりはましだった。
「ここでしばらく忍ぶ」
ブルーノが言うと、若者たちがうなずいた。
「忍ぶんですね、親分」
「親分じゃねえ」
「火は小さくします」
「そうしろ」
その直後、別の若者が芋を焼くために薪を足した。煙が太くなった。
「煙を上げるな!」
「芋が焼けません!」
「生で食え!」
「親分、無茶です!」
見張りは道の真ん中に立っていた。井戸の周りには足跡が増え、誰かが大声で「親分」と呼ぶたびに、廃村の端にいた鳥が飛んだ。大棍棒を置いた土間には、大きな跡が残った。
忍んでいるとは、とても言えなかった。
ブルーノは、井戸端に腰を下ろした。没収した干し肉をかじる。薄くて硬い。あまりうまくはない。それでも、腹には入る。
アズールが戻ってきたら、ここは使えるかもしれない。井戸がある。屋根がある。若い馬鹿どもがいる。殴れば動く。怒鳴れば、少なくとも少しは聞く。
たぶん、使える。たぶん、アズールなら使う。ブルーノは、そう思った。
ただ、それはブルーノの中だけの話だった。
その日の夕方には、近くの村で別の話になっていた。
廃村に、若い野盗が集まっている。頭は、大槌を持った大男らしい。帝国兵の場所を探り、灰衣の道を聞き、食い物をせびっている。殺しはしていない。火もつけていない。だが、今はしていないだけだ。
「親分、村の方から人が逃げました」
見張りの若者が駆け込んでくる。また大声だった。
「親分じゃねえ」
ブルーノの声が、廃村の井戸端に響いた。
少なくとも、ブルーノは忍んでいるつもりだった。




