第42話 尋問
縄は、思っていたよりも冷たかった。
手首にかけられた縄は、強く締め上げられているわけではない。歩けないほどではなかったし、血が止まるほどでもなかった。それでも、腕を少し動かすたびに、濡れた麻が皮膚をこする。痛みよりも、その感触の方が嫌だった。
僕たちは、畦道から土手へ上げられ、そのまま歩かされた。前に二人。後ろに三人。用水路の向こうにも、槍を持った兵がついている。カインは僕の少し後ろにいたが、剣は取り上げられていた。腰の空いたところを、カインの手が何度か探りかけ、すぐに止まる。
「前を見ろ」
後ろの兵が短く言った。怒鳴り声ではない。けれど、従わなければ次は押される声だった。
灰衣ではない。野盗でもない。けれど、助けでもない。僕たちは、捕まったのだ。
夜明けの畑は、昨日よりも広く見えた。薄い光の中で、刈り残された麦が白く濡れている。用水路の水面には、朝の色が細く伸びていた。遠くの煙は、もう見えない。煙が消えたのか、僕たちが見えない場所へ来たのかも分からない。
兵たちは、道を知っているのか、倒された道標を避け、焦げた小さな倉の脇を抜け、低い土手の影を使って進む。誰も無駄口を叩かない。笛も鳴らさない。足音だけが、濡れた土の上に重なっていく。
しばらく歩くと、畑の切れ目に杭が見えた。まっすぐ打たれた杭だ。倒されていない。そこに縄が張られ、木札が吊られている。木札には、帝国の焼き印があった。
その先に、前哨があった。
砦というほど大きくはない。高い石壁もない。けれど、ただ兵が集まっている場所でもなかった。荷を置く場所。怪我人を寝かせる場所。捕らえられた者を座らせる囲い。水場。馬をつなぐ杭。焚き火の跡。帳面を置いた粗い机。それぞれが縄と杭で分けられている。
人が多いのに、流れてはいない。泣いている者もいる。呻いている者もいる。怒鳴っている者もいる。それでも、すべてが決められた場所に押し込められている。
東部は、壊れていた。でも、ここにはまだ、壊れきっていないものがあった。それは温かさではなく、順番だった。
「捕縛二。用水路北側で確保」
僕たちを連れてきた兵が、机のそばにいた男へ告げる。男は鎧ではなく、革の胴当てをつけていた。腰には短い剣。手には筆。兵というより、軍吏に見えた。
軍吏は僕とカインを見た。
「武器は」
「こちらです」
兵の一人が、僕の剣とカインの剣を差し出す。軍吏は受け取らず、机の横に置かせた。
「別々に座らせろ」
カインが一歩、僕の方へ出ようとした。
「護衛です」
「だからなんだ?」
兵の槍が、わずかにカインへ向く。
カインの肩が沈む。剣は持っていない。それでも、僕の前へ動こうとしている。
「カイン」
僕は、かすれた声で言った。
「今は、従って」
「しかし」
「ここで逆らったら、皆を探せなくなる」
カインの目が、ほんの少しだけこちらを見る。それから、ゆっくりと力を抜いた。
兵がカインを僕から少し離れた杭のそばへ座らせる。僕も、別の縄囲いの内側へ膝をつかされた。縄はまだ手首にある。
すぐ近くの囲いでは、灰色の布を肩にかけた男が、何度も同じことを言っていた。
「違う、俺は違う。ただ逃げてきただけだ」
「座っていろ」
「村の者だ。灰衣じゃない」
「座っていろと言った」
兵は殴らなかった。ただ、槍の石突で地面を叩いた。男はそれで黙った。
少し離れたところには、若い男がうずくまっている。革の上着を着ていた。足を縛られている。逃亡兵なのか、野盗なのか、ただの避難民なのか、分からない。
その隣では、老人が水を求めていた。
「水を」
「順番だ」
「喉が」
「順番だ」
帝国兵は冷たい。けれど、誰か一人を面白がって踏みつけているわけではない。水はある。順番もある。ただ、その順番に入れなければ、喉が裂けそうでも待たされる。
「次」
軍吏がこちらを見た。兵が僕を急に立たせようとして、足が少しもつれた。泥の乾きかけた裾が、膝に張りついている。
机の前に立たされる。机の上には、帳面と木札と、筆と墨壺が並んでいる。
「名は」
短い問いだった。
「アズール・エスター」
「家は」
「エスター男爵家。五男です」
「寄り親は」
「ルミナ沿海伯家です」
軍吏の筆が、帳面の上を動く。僕の名前が書かれているのか、ただ印をつけられただけなのかは分からなかった。
「所属は」
「エスター男爵家の分遣隊として、東部支援に加わりました」
「どの軍に随行していた」
僕は一度、息を吸った。
「ヴェルナー子爵家軍の先遣に随行していました」
軍吏の筆が止まった。初めて、こちらを見る目が少し変わった。
「ヴェルナー子爵家軍」
「はい」
「証文は」
喉が詰まった。
「……ありません」
「ない」
「隊とはぐれました。荷車も、旗も、帳面も、手元にありません」
「旗は」
「ありません」
「荷は」
「分かりません」
「帳面は」
「ノエルが持っていました」
「そのノエルは」
答えられなかった。
ガレスなら、何と言っただろう。ノエルなら、もっと正確に答えただろう。荷車の数、残りの食料、誰が何を持っていたか、どこで最後に見たか。きっと、僕よりもずっとましに説明できたと思う。
でも、ノエルはいない。帳面もない。僕の口だけが、ここにある。
「……分かりません」
軍吏の顔は動かなかった。
「なぜ二人だけだ」
「襲撃を受けました。避難民の列で道が詰まり、煙と笛で隊列が裂かれました。僕は、護衛と二人で畑へ逃げました」
「襲撃者は灰衣か」
「灰色の布をまとった者は見ました。ですが、全員が灰衣だったかは分かりません。野盗か、逃亡兵か、混ざっていたのだと思います」
「分からないことが多いな」
軍吏の声に、責める響きはなかった。だから余計に、胸に刺さる。
「はい」
そう答えるしかなかった。
軍吏は帳面を閉じず、今度はカインの方を見た。
「あの男は」
「僕の護衛です」
「名は」
「カイン」
「家は」
僕はカインを見た。カインは黙っている。兵に促されても、自分からは口を開かなかった。
僕が答えるしかない。
「エスター家に仕える者です」
「それを証明する者は」
「……僕です」
「足りんな」
軍吏は、当然のことのように言った。
僕は、何も言えなかった。カインは、昨日の夜からずっと僕を守ってくれた。泥の中で、矢の中で、用水路のそばで、僕が立てないところを引き上げ、僕が進もうとする場所を止めた。
それなのに、ここでは、僕の言葉だけではカインを護衛にすらできない。
僕がカインを守りたいと思っても、証明がなければ足りない。
「ヴェルナー子爵家軍といったな」
軍吏が、机の横に積まれた木札を探り、別の兵が小さな帳面を持ってくる。軍吏はそれをめくり、指で何かを追った。
「ヴェルナー子爵家軍なら、先に一隊入っている」
僕は顔を上げた。
「一隊……?」
「ロイターという者だ」
胸の奥が跳ねた。
「ロイター殿が、ここに?」
「知っているのか」
「はい。同じ先遣にいました」
軍吏は、僕の顔を見た。それから、近くの兵に何かを命じる。兵が前哨の奥へ走った。
待たされる時間は、短かったのかもしれない。けれど、僕には長かった。
カインは離れた杭のそばで、こちらを見ている。縄はまだ解かれていない。僕も同じだ。手首の縄が、少しずつ温まっていく。縄が温まっているのか、手首が熱を持っているのか分からない。
やがて、前哨の奥から数人が歩いてきた。先頭にいた男を見て、僕は息を吐いた。
ロイター殿だった。
鎧には泥がつき、肩の布は裂けている。左腕に巻かれた布は、血で色が変わっていた。それでも、背筋は崩れていない。後ろには、十人ほどの兵がいた。全員が無傷ではない。額に布を巻いた者も、槍を杖のようにしている者もいる。けれど、彼らはばらばらに座り込んでいなかった。ロイター殿の後ろに、隊として立っていた。
「アズール殿か」
ロイター殿の声は、いつもと大きく変わらなかった。疲れている。けれど、乱れてはいない。
「ロイター殿」
「声を上げるな。尋問中だ」
そんなことを言われて、少しだけ息が詰まった。でも、その言い方がロイター殿らしくて、なぜか胸の奥が緩みそうになった。
軍吏がロイター殿を見る。
「この者を知っているか」
「知っている」
「名は」
「アズール・エスター。エスター男爵家の分遣隊を率いていた。ヴェルナー子爵家軍の先遣に随行していたのも事実だ」
ロイター殿は、こちらを見ずに答えた。必要なことだけを、まっすぐに。
「そちらの男は」
「カイン。アズール殿の護衛として同行していた」
「証文上の同行者か」
「証文には名まではない。だが、私は見ている」
軍吏は、ロイター殿の言葉だけではなく、腰から出された文書を受け取った。厚い紙。折り目。封蝋の跡。ヴェルナー子爵家の印。それを別の兵が確認し、軍吏へうなずく。
「ロイター隊の身元は確認済みだな」
「済んでいる」
横にいた年嵩の兵が答えた。
「ヴェルナー子爵家軍、東部支援先遣。部下十一名、証文あり。負傷者三名。昨日の夕刻に到達」
十一名。僕は、ロイター殿の後ろの兵を見た。この壊れた東部で、十人ほどを連れてここまで来た。ガレスやブルーノとは違う。オルステッド殿のように、大きく場を動かす人でもない。けれど、ロイター殿は、失ってはいけないものを失わずに、ここまで来ていた。
「他は」
気づけば、僕は聞いていた。ロイター殿は、そこで初めて僕を見た。
「分からん」
短い答えだった。
「オルステッド殿は」
「分からん」
「ノエルは、ガレスたちは」
「そちらも同じだ。分からん」
言葉は冷たく聞こえた。でも、嘘ではなかった。ロイター殿は、慰めを言わなかった。分からないことを、分かるとは言わなかっただけだ。
「だから、分かることだけしか言えん」
ロイター殿は、それだけ付け加えた。
軍吏が帳面へ何かを書き込んだ。
「ヴェルナー子爵家軍ロイター隊の証言を受ける」
声が、前哨の中に淡々と落ちる。
「アズール・エスター。護衛カイン。捕縛扱いを解く」
兵が僕の後ろへ回った。縄が解かれる。手首に残っていた冷たい圧が、急になくなった。けれど、自由になった感じはしなかった。むしろ、縄があった場所だけが妙にはっきり残った。
カインの縄も解かれる。カインはすぐには手首をさすらず、まず僕を見た。
「武器は返す」
軍吏が言った。
「ただし、前哨内で抜けば敵と見なす」
兵が僕の剣を持ってくる。カインの剣も戻された。カインは受け取った剣を、すぐ腰へ戻さなかった。刃の向きと鞘を確認し、それから静かに差す。
僕も剣を受け取る。柄の感触が手に戻る。なのに、昨日までと同じものには思えなかった。
これは、僕が名乗ったから戻った剣ではない。エスターの名だけで戻ったわけでもない。ヴェルナー子爵家の証文と、ロイター殿の一言があったから、僕の手に戻されたものだ。
「当面はロイター隊の監督下に入れ」
軍吏は続けた。
「前哨外への移動は認めない。呼ばれたら答えろ。勝手に出れば、次は捕縛では済まん」
「承知しました」
ロイター殿が答える。僕も遅れて頭を下げた。
「承知しました」
声がひどくかすれていた。
ロイター殿が軍吏へ視線を向ける。
「二人は夜通し逃げている。水と手当てを回してもらいたい」
「順番だ」
「なら、順番に入れてくれ」
軍吏は少しだけ目を細めた。それから、そばの兵へ言う。
「水を一杯。傷は確認だけ先にしろ」
ロイター殿は、それ以上言わなかった。
僕は水を受け取った。木の椀に入った水だった。冷たくはない。澄んでもいない。でも、用水路の水とは違った。ここでは、水にも順番があった。そして今、僕たちはその順番の内側に入れられた。
軍吏が帳面に筆を走らせる。
「アズール・エスター。ロイター隊監督下、前哨待機」
そう書かれたのが見えた。
縄は解かれた。剣も戻った。けれど、それは僕が一人で名を通したからではない。ヴェルナー子爵家の証文と、ロイター殿の一言があったからだ。
僕の名前は、ようやく帝国の帳面の端に載った。
剣は戻った。でも、僕の隊は、まだ戻っていなかった。




