第41話 用水路の夜
煙は、まだ上がっていた。
畑の向こう。北へ続く道の先。夕暮れの色に沈みかけた空の下で、灰色の煙だけが、細く、折れずに立っている。
誰かが、仲間がいるのかもしれない。そう思った瞬間、足が前に出た。
「アズール様」
カインの手が、僕の腕をつかむ。強くはない。けれど、ほどけない力だ。
「あの煙の下に、誰かいるかもしれない」
「敵もいます」
「味方かもしれない」
「敵なら、近づいた時点で終わります」
カインの声は低かったが、冷たくはなかった。でも、揺れてはいない。
僕は煙を見る。
その下に、ガレスがいるかもしれない。ブルーノがいるかもしれない。 ノエルの荷車が、まだ道のどこかに引っかかっているかもしれない。
そう思うたび、胸の奥が焼けるように痛む。
「でも」
言いかけた言葉は続かなかった。
笛の音が響く。遠い。けれど、確かに聞こえた。高く、短く、鳥の鳴き声に似ているのに、鳥ではない音。
カインは僕の腕を引いた。
「こちらへ」
「カイン」
「街道から離れます」
「どこへ」
「用水路沿いです。足跡が紛れます」
僕には、その意味がすぐには分からなかった。ただ、カインの足取りは迷っていない。
僕は煙をもう一度だけ見る。仲間がいる。誰かが助けを待っている。そう思いたかった。けれど、カインの手が離れない。煙へ向かう道を、僕はそこで捨てた。捨てたくなかった。でも、カインの手は離れず、僕の足は用水路の方へ降りていった。
用水路の水は浅く、濁っていて、底は見えない。足を入れるたびに、泥が靴を吸い、抜くたびに嫌な音がする。
東部の畑は、夜になっても広かった。ルミナ潟岸なら、水の匂いで場所が分かったのに、ここでは何もわからない。旧ハルヴァ砦の周りなら、砦や橋や、火の跡が目印になった。でも、ここには何もなかった。
刈り残された麦。低い土手。同じように続く畦道。倒された道標。黒く焦げた小さな倉。どこを見ても、さっき見た景色と同じに見えた。
カインは時々、しゃがんで、土手の土を指でこすり、水面を見て、畦の向こうを確認していた。鳥が飛び立つと、その方向へ目を向け、煙の匂いが濃くなると、少し進む道を変えた。
カインには、道が見えているようだ。僕には、泥と水と、暗くなっていく畑しか見えないけれど。
「少し、低く」
カインが腰を落として僕に顔を向ける。僕は言われた通りに、腰を落とした。
畦の向こうを、人影が通る。一人ではない。二人、三人。灰色の布をまとっている者もいれば、ただ汚れた外套をかぶっているだけの者もいる。
その人影は、誰も大きな声を出さない。走りもしない。しばらく、腰を落として隠れていると、畦道を横切って、闇の中へ消えていった。
味方か。敵か。避難民か。灰衣か。
分からない。分からないものが、いちばん怖かった。
しばらく進んだところで、カインが崩れた土手の下に僕を座らせた。
「ここで、少しだけ」
「休めるの?」
「一時だけです」
そう言って、カインは立ったまま周囲を見る。
僕は、肩にかけていた袋を探る。中には、乾いたパンが残っていた。でも、どれだけ残っているのか、すぐには数えられなかった。
一つ。半分。割れたもの。粉になったもの。触れると指に麦の粉がついた。そして、袋の口がまた開いていることに気づき、慌てて結び直した。
ノエルなら、まず袋の中身を数えていただろう。水が飲めるかどうか、先に見ただろう。残りをどう分けるか、僕が聞く前に決めていただろう。
僕は、袋の口を閉めることさえ、きちんとできていなかった。
「カイン」
「はい」
「水は、飲める?」
カインは用水路へ近づき、水へ少し指を入れ、匂いを確かめる。
「少しなら。多くは飲まないでください」
「毒?」
「腐ったものが流れているかもしれません」
僕はうなずく。喉は焼けるように渇いていたが、カインが言うように、少しだけにした。水はぬるく、土の味がする。飲み込むと、腹の底が冷えた気がした。
「カインの傷は」
「後で見る傷です」
また同じ答えだった。左の袖のあたりが暗く濡れている。血か、泥か。もう判別できなかった。
「座って」
「立っている方が見えます」
「少しだけでも」
「アズール様が座ってください」
言い返せなかった。
僕は膝を抱えて座る。靴も裾も泥だらけだ。足の裏は熱く、指先は冷えている。体の中がばらばらになったようだった。
ガレスなら、周囲を見る場所を決めただろう。エルヴィンなら、退く道と隠れる場所を分けて考えただろう。ブルーノなら、こんな暗さでも、何かを殴って道を開いただろう。ニルスなら、怖くても何か余計なことを言って、僕を笑わせようとしたかもしれない。トマなら、こんな水路のそばに荷車を入れるなと怒っただろう。
誰の声もなかった。
用水路の水が、細く流れる音だけが不思議なほど耳に残る。
夜は、ゆっくり降りてきた。空の端に残っていた赤みが消え、畑は黒い面になった。遠くの煙は、もう空と混ざって見えない。
その代わり、音が近くなった。
風の音。麦の穂が擦れる音。どこかで木が割れる音。低い声。短い笛。そして、ときどき、人の叫び。
僕は顔を上げた。
「今の」
カインも聞いていた。
もう一度、声がした。遠い。でも、ただの風ではない。
助けて、と聞こえた気がした。違う言葉だったのかもしれない。誰かの名前だったのかもしれない。
それでも、僕の体は勝手に動いた。
「誰かいる」
「います」
「なら」
「行けません」
カインの声が、僕の言葉を切った。
「でも、助けを呼んでる」
「罠かもしれません」
「本当に助けを呼んでいたら?」
「その時でも、行けません」
僕はカインを見た。
「見捨てるの」
言った瞬間、自分の声がひどく子供じみて聞こえた。でも、引っ込められなかった。
「今、向かえば、アズール様も死にます」
「僕だけなら」
「私も死にます」
言葉が詰まる。
「それに、アズール様が死ねば、探せる者も探せなくなります」
「探せる者……」
「ガレス殿も、ブルーノ殿も、ノエル様も。生きているなら、探す者が必要です」
生きているなら。
カインはまた、その言い方をした。生きていると信じる、ではない。生きているなら、探せる。
冷たく聞こえる。けれど、そこにだけ、細い道があった。
声は、また聞こえた。
僕は立ち上がりかけた膝に力を入れた。足は震えている。行かなければならない。そう思うのに、行けば何が待っているのか分からない。
手が届くなら、拾いたい。でも、今は、手を伸ばした先に誰がいるのかも分からない。
僕は息を吐いた。喉が痛かった。
「……わかった」
カインの目が、少しだけ動いた。
「アズール様」
「行かない。今、行ったら、僕たちも戻れなくなる」
声は震えていた。それでも、言葉にはなった。
カインは、何も言わなかった。ただ、小さくうなずいてくれたのは分かった。
遠くの声は、しばらくして聞こえなくなった。助かったのか。連れていかれたのか。最初から罠だったのか。何も分からなかった。
何も分からないまま、僕は膝を抱え直した。
夜がさらに深くなる。
カインは少しだけ腰を下ろした。座ったというより、すぐに立てる形で膝を折っただけだ。
僕は、しばらく迷ってから聞いた。
「カインは、どうしてそこまで僕を守るの」
水の音がした。
カインはすぐには答えなかった。暗くて表情はよく見えない。けれど、顔をそらしたのは分かった。
「役目です」
「それは、さっき聞いた」
「なら、同じ答えです」
「エスター家の命令?」
「今は、アズール様を生かすことが、私の役目です」
「どうして」
自分でも、しつこいと思った。でも、聞かずにはいられなかった。
カインは、低く息をついた。
「守れなかったものがあるからです」
その言葉は、夜の中に落ちた。
僕は顔を上げた。
「母上のこと?」
カインは答えなかった。
長い沈黙だった。
用水路の水が、土手の下で細く鳴った。
やがてカインは立ち上がった。
「今は、道を見ます」
それで話は終わった。
僕はそれ以上、聞けなかった。聞けば何かが開く。でも、今それを開いたら、戻れなくなる気がした。
*
夜の中で、僕たちは少しずつ移動した。同じ場所に長くいてはいけない、とカインは言う。足跡を水で崩し、土手の柔らかい場所を避け、麦の倒れ方が不自然な畦には近づかなかった。
途中、一度だけ、近くで笑い声がした。
男の声だった。酒に酔ったような、でも酔いだけではない荒さがあった。カインは僕を低く押さえた。声は近づき、また遠ざかった。
灰衣なのか。野盗なのか。逃亡兵なのか。見えないままだった。
夜明け前が、いちばん寒かった。空はまだ暗いのに、黒ではなくなっていた。畑の線がぼんやり見え、用水路の水面に細い色が戻ってくる。
カインが、ふいに足を止めた。
「何?」
カインは手で黙るように示した。
少し先に、道標が立っていた。倒されていない道標だった。杭はまっすぐで、根元の土が踏み固められている。
そのそばに、小さな木札が打ちつけられていた。
カインが近づき、目を細める。木札には焼き印があった。僕にも、それが灰衣の印ではないことは分かった。
白い椀ではない。灰色の布でもない。帝国の印だ。
「帝国軍か、帝国側の部隊の跡です」
「味方……で、いいんだよね」
「少なくとも、灰衣ではありません」
その言い方に、僕は小さく息を吐きかけた。安心しかけたのだと思う。
でも、カインは安心していなかった。
「アズール様。まだ、声を出さずに」
「帝国軍なら」
「帝国軍にとって、私たちが何者に見えるかは別です」
その言葉で、胸が冷えた。
泥だらけの服。証文はない。ノエルの帳面もない。荷車もない。旗もない。仲間もいない。
僕たちは、ただの武装した二人だった。
カインは用水路の縁から、少し離れた畦へ上がろうとした。
その時だった。
「止まれ」
声がした。
カインが、僕の前へ出る。ほとんど反射だった。右手が剣の柄へ伸びる。
けれど、畦の向こうにいたのは一人ではなかった。
麦の陰から。土手の上から。用水路の対岸から。槍の穂先が、朝の薄い光を受けて白く光った。
「武器を捨てろ」
「膝をつけ」
「手を見せろ」
灰衣でも、野盗でもなさそうだった。けれど、助けかもわからない。
カインの肩が、わずかに沈む。前へ出るつもりだ。
「カイン」
僕は、かすれた声で言った。
「だめ」
「アズール様」
「斬ったら、終わる。ここで斬ったら、僕たちはもう戻れない」
カインの手が、剣の柄の上で止まる。
兵の一人が踏み込んでくる。別の兵が、僕の腕をつかんだ。振りほどこうとは思わなかった。思っても、できなかった。
腕が後ろへ回され、泥の上に膝が落ちる。手首に、冷たい縄がかかった。
カインの剣が取り上げられる音がした。
僕は歯を食いしばった。
東部で、初めて僕たちを捕まえたのは、灰衣ではなかった。
僕は、抵抗しなかった。




