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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第41話 用水路の夜


 煙は、まだ上がっていた。


 畑の向こう。北へ続く道の先。夕暮れの色に沈みかけた空の下で、灰色の煙だけが、細く、折れずに立っている。

 誰かが、仲間がいるのかもしれない。そう思った瞬間、足が前に出た。


「アズール様」


 カインの手が、僕の腕をつかむ。強くはない。けれど、ほどけない力だ。


「あの煙の下に、誰かいるかもしれない」


「敵もいます」


「味方かもしれない」


「敵なら、近づいた時点で終わります」


 カインの声は低かったが、冷たくはなかった。でも、揺れてはいない。


 僕は煙を見る。

 その下に、ガレスがいるかもしれない。ブルーノがいるかもしれない。 ノエルの荷車が、まだ道のどこかに引っかかっているかもしれない。

 そう思うたび、胸の奥が焼けるように痛む。


「でも」


 言いかけた言葉は続かなかった。


 笛の音が響く。遠い。けれど、確かに聞こえた。高く、短く、鳥の鳴き声に似ているのに、鳥ではない音。


 カインは僕の腕を引いた。


「こちらへ」


「カイン」


「街道から離れます」


「どこへ」


「用水路沿いです。足跡が紛れます」


 僕には、その意味がすぐには分からなかった。ただ、カインの足取りは迷っていない。


 僕は煙をもう一度だけ見る。仲間がいる。誰かが助けを待っている。そう思いたかった。けれど、カインの手が離れない。煙へ向かう道を、僕はそこで捨てた。捨てたくなかった。でも、カインの手は離れず、僕の足は用水路の方へ降りていった。


 用水路の水は浅く、濁っていて、底は見えない。足を入れるたびに、泥が靴を吸い、抜くたびに嫌な音がする。

 東部の畑は、夜になっても広かった。ルミナ潟岸なら、水の匂いで場所が分かったのに、ここでは何もわからない。旧ハルヴァ砦の周りなら、砦や橋や、火の跡が目印になった。でも、ここには何もなかった。

 刈り残された麦。低い土手。同じように続く畦道。倒された道標。黒く焦げた小さな倉。どこを見ても、さっき見た景色と同じに見えた。


 カインは時々、しゃがんで、土手の土を指でこすり、水面を見て、畦の向こうを確認していた。鳥が飛び立つと、その方向へ目を向け、煙の匂いが濃くなると、少し進む道を変えた。

 カインには、道が見えているようだ。僕には、泥と水と、暗くなっていく畑しか見えないけれど。


「少し、低く」


 カインが腰を落として僕に顔を向ける。僕は言われた通りに、腰を落とした。


 畦の向こうを、人影が通る。一人ではない。二人、三人。灰色の布をまとっている者もいれば、ただ汚れた外套をかぶっているだけの者もいる。

 その人影は、誰も大きな声を出さない。走りもしない。しばらく、腰を落として隠れていると、畦道を横切って、闇の中へ消えていった。


 味方か。敵か。避難民か。灰衣か。

 分からない。分からないものが、いちばん怖かった。


 しばらく進んだところで、カインが崩れた土手の下に僕を座らせた。


「ここで、少しだけ」


「休めるの?」


「一時だけです」


 そう言って、カインは立ったまま周囲を見る。


 僕は、肩にかけていた袋を探る。中には、乾いたパンが残っていた。でも、どれだけ残っているのか、すぐには数えられなかった。

 一つ。半分。割れたもの。粉になったもの。触れると指に麦の粉がついた。そして、袋の口がまた開いていることに気づき、慌てて結び直した。

 ノエルなら、まず袋の中身を数えていただろう。水が飲めるかどうか、先に見ただろう。残りをどう分けるか、僕が聞く前に決めていただろう。

 僕は、袋の口を閉めることさえ、きちんとできていなかった。


「カイン」


「はい」


「水は、飲める?」


 カインは用水路へ近づき、水へ少し指を入れ、匂いを確かめる。


「少しなら。多くは飲まないでください」


「毒?」


「腐ったものが流れているかもしれません」


 僕はうなずく。喉は焼けるように渇いていたが、カインが言うように、少しだけにした。水はぬるく、土の味がする。飲み込むと、腹の底が冷えた気がした。


「カインの傷は」


「後で見る傷です」


 また同じ答えだった。左の袖のあたりが暗く濡れている。血か、泥か。もう判別できなかった。


「座って」


「立っている方が見えます」


「少しだけでも」


「アズール様が座ってください」


 言い返せなかった。

 僕は膝を抱えて座る。靴も裾も泥だらけだ。足の裏は熱く、指先は冷えている。体の中がばらばらになったようだった。


 ガレスなら、周囲を見る場所を決めただろう。エルヴィンなら、退く道と隠れる場所を分けて考えただろう。ブルーノなら、こんな暗さでも、何かを殴って道を開いただろう。ニルスなら、怖くても何か余計なことを言って、僕を笑わせようとしたかもしれない。トマなら、こんな水路のそばに荷車を入れるなと怒っただろう。


 誰の声もなかった。

 用水路の水が、細く流れる音だけが不思議なほど耳に残る。


 夜は、ゆっくり降りてきた。空の端に残っていた赤みが消え、畑は黒い面になった。遠くの煙は、もう空と混ざって見えない。


 その代わり、音が近くなった。

 風の音。麦の穂が擦れる音。どこかで木が割れる音。低い声。短い笛。そして、ときどき、人の叫び。


 僕は顔を上げた。


「今の」


 カインも聞いていた。


 もう一度、声がした。遠い。でも、ただの風ではない。

 助けて、と聞こえた気がした。違う言葉だったのかもしれない。誰かの名前だったのかもしれない。


 それでも、僕の体は勝手に動いた。


「誰かいる」


「います」


「なら」


「行けません」


 カインの声が、僕の言葉を切った。


「でも、助けを呼んでる」


「罠かもしれません」


「本当に助けを呼んでいたら?」


「その時でも、行けません」


 僕はカインを見た。


「見捨てるの」


 言った瞬間、自分の声がひどく子供じみて聞こえた。でも、引っ込められなかった。


「今、向かえば、アズール様も死にます」


「僕だけなら」


「私も死にます」


 言葉が詰まる。


「それに、アズール様が死ねば、探せる者も探せなくなります」


「探せる者……」


「ガレス殿も、ブルーノ殿も、ノエル様も。生きているなら、探す者が必要です」


 生きているなら。

 カインはまた、その言い方をした。生きていると信じる、ではない。生きているなら、探せる。

 冷たく聞こえる。けれど、そこにだけ、細い道があった。


 声は、また聞こえた。


 僕は立ち上がりかけた膝に力を入れた。足は震えている。行かなければならない。そう思うのに、行けば何が待っているのか分からない。

 手が届くなら、拾いたい。でも、今は、手を伸ばした先に誰がいるのかも分からない。


 僕は息を吐いた。喉が痛かった。


「……わかった」


 カインの目が、少しだけ動いた。


「アズール様」


「行かない。今、行ったら、僕たちも戻れなくなる」


 声は震えていた。それでも、言葉にはなった。

 カインは、何も言わなかった。ただ、小さくうなずいてくれたのは分かった。


 遠くの声は、しばらくして聞こえなくなった。助かったのか。連れていかれたのか。最初から罠だったのか。何も分からなかった。

 何も分からないまま、僕は膝を抱え直した。


 夜がさらに深くなる。

 カインは少しだけ腰を下ろした。座ったというより、すぐに立てる形で膝を折っただけだ。


 僕は、しばらく迷ってから聞いた。


「カインは、どうしてそこまで僕を守るの」


 水の音がした。


 カインはすぐには答えなかった。暗くて表情はよく見えない。けれど、顔をそらしたのは分かった。


「役目です」


「それは、さっき聞いた」


「なら、同じ答えです」


「エスター家の命令?」


「今は、アズール様を生かすことが、私の役目です」


「どうして」


 自分でも、しつこいと思った。でも、聞かずにはいられなかった。

 カインは、低く息をついた。


「守れなかったものがあるからです」


 その言葉は、夜の中に落ちた。

 僕は顔を上げた。


「母上のこと?」


 カインは答えなかった。


 長い沈黙だった。

 用水路の水が、土手の下で細く鳴った。

 やがてカインは立ち上がった。


「今は、道を見ます」


 それで話は終わった。

 僕はそれ以上、聞けなかった。聞けば何かが開く。でも、今それを開いたら、戻れなくなる気がした。



 夜の中で、僕たちは少しずつ移動した。同じ場所に長くいてはいけない、とカインは言う。足跡を水で崩し、土手の柔らかい場所を避け、麦の倒れ方が不自然な畦には近づかなかった。


 途中、一度だけ、近くで笑い声がした。

 男の声だった。酒に酔ったような、でも酔いだけではない荒さがあった。カインは僕を低く押さえた。声は近づき、また遠ざかった。

 灰衣なのか。野盗なのか。逃亡兵なのか。見えないままだった。


 夜明け前が、いちばん寒かった。空はまだ暗いのに、黒ではなくなっていた。畑の線がぼんやり見え、用水路の水面に細い色が戻ってくる。


 カインが、ふいに足を止めた。


「何?」


 カインは手で黙るように示した。

 少し先に、道標が立っていた。倒されていない道標だった。杭はまっすぐで、根元の土が踏み固められている。

 そのそばに、小さな木札が打ちつけられていた。


 カインが近づき、目を細める。木札には焼き印があった。僕にも、それが灰衣の印ではないことは分かった。

 白い椀ではない。灰色の布でもない。帝国の印だ。


「帝国軍か、帝国側の部隊の跡です」


「味方……で、いいんだよね」


「少なくとも、灰衣ではありません」


 その言い方に、僕は小さく息を吐きかけた。安心しかけたのだと思う。

 でも、カインは安心していなかった。


「アズール様。まだ、声を出さずに」


「帝国軍なら」


「帝国軍にとって、私たちが何者に見えるかは別です」


 その言葉で、胸が冷えた。

 泥だらけの服。証文はない。ノエルの帳面もない。荷車もない。旗もない。仲間もいない。

 僕たちは、ただの武装した二人だった。


 カインは用水路の縁から、少し離れた畦へ上がろうとした。

 その時だった。


「止まれ」


 声がした。


 カインが、僕の前へ出る。ほとんど反射だった。右手が剣の柄へ伸びる。

 けれど、畦の向こうにいたのは一人ではなかった。


 麦の陰から。土手の上から。用水路の対岸から。槍の穂先が、朝の薄い光を受けて白く光った。


「武器を捨てろ」


「膝をつけ」


「手を見せろ」


 灰衣でも、野盗でもなさそうだった。けれど、助けかもわからない。

 カインの肩が、わずかに沈む。前へ出るつもりだ。


「カイン」


 僕は、かすれた声で言った。


「だめ」


「アズール様」


「斬ったら、終わる。ここで斬ったら、僕たちはもう戻れない」


 カインの手が、剣の柄の上で止まる。


 兵の一人が踏み込んでくる。別の兵が、僕の腕をつかんだ。振りほどこうとは思わなかった。思っても、できなかった。


 腕が後ろへ回され、泥の上に膝が落ちる。手首に、冷たい縄がかかった。

 カインの剣が取り上げられる音がした。


 僕は歯を食いしばった。

 東部で、初めて僕たちを捕まえたのは、灰衣ではなかった。

 僕は、抵抗しなかった。


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