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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第40話 洗礼


 どこをどう走っているのか、分からなかった。

 とにかく走った。


 東部の道は、僕の知っている道ではなく、それも僕を焦らせていた。

 ルミナ潟岸のように水の匂いが濃いわけでもない。旧ハルヴァ砦の周りのように、砦や橋を目印にできるわけでもない。


 広すぎる畑。低い用水路。刈り残された麦。どこまでも同じように続く畦道。倒された道標。黒く焦げた小さな倉。走っても、走っても、逃げ場がないように見える。


「アズール様、止まらないでください!」


 カインの手が僕の腕を引く。その声に返事をしようとした時、後ろで笛が鳴った。高く、短い音。鳥の声ではない。兵の号令でもない。それなのに、その音を聞いた瞬間、僕の肩が勝手に縮む。


「伏せてください!」


 カインが僕の肩を押す。


 次の瞬間、畦の向こうから矢が飛び、頭の上をかすめた矢が、刈り残された麦の中へ落ちる。僕は泥に膝をついた。手をついたところがぬるりと沈み、指の間に冷たい土が入り込む。

 顔を上げようとした僕の前で、カインが剣を抜く。


「大丈夫ですか」


「……灰色が」


 畑の向こう、低い土手の陰で、灰色の布が揺れる。一人ではない。けれど、何人いるのかは分からない。

 走ってくるわけでもなく、叫ぶわけでもない。ただ、見えて、消える。畦の向こうへ沈み、用水路の陰へ潜り、また別の場所に現れる。


 東南で見た灰衣とは違った。


 旧ハルヴァ砦の灰衣は、大きな群れだった。粥場に集まり、砦の内外に溜まり、白い椀の旗の下に寄り集まっていた。恐ろしくはあった。けれど、見えた。


 ここにいる灰色は、見えない。道を塞ぎ、荷を裂き、声の届かない場所から列を切る。

 東南へ流れてきた灰色は、今思えば、まだ群れでしかなかった。でも、この東部、灰衣の火元にいる者たちは、ただ集まっているだけではなかった。


*


 旧ハルヴァ砦を発って、七日目の朝だった。

 ヴェルナー子爵家軍の一部として、オルステッド隊は、東部支援軍本隊より先に出ていた。大きな戦をするためではない。道を確かめ、荷を通せるか見て、橋や村や倉の様子を確認し、本隊が詰まらないようにするためだ。


 オルステッドさんは、東部の街道を眺めながら短く言った。


「前へ出るな。荷と道を見ろ」


「敵を探すのではないのですか?」


 ガレスも街道を見つめながら尋ねる。


「事前の報せでは、敵は向こうから来るとのことだ」


 それを聞いた時、ブルーノが鼻を鳴らす。


「なら楽でいいじゃねえか」


 オルステッドさんは、ブルーノを見ながら眉を少しひそめた。


「楽だと思った時こそ、気を引き締めるものだ」


 その言葉の意味を、僕はその時、分かっていなかった。


 しばらく街道を進む。

 日がてっぺんへ差し掛かるころ、前方から、こちらへ逃げてくる雑多な一団が見えた。避難民の列だ。

 だが、その列が、街道の途中で突然詰まる。荷車が一台、道の真ん中で横を向き、痩せた馬が暴れ、子供が泣き、女たちが地面に伏せていた。誰かが「灰衣だ」と叫び、別の誰かが「違う、逃げてきた民だ」と叫んでいる。


 ノエルは帳面を抱え直し、集団を見つめている。


「これは……列を分けないと、後ろが詰まります」


 トマが止まった荷車の車輪を見て、舌打ちした。


「車軸が折れかけてる。押しても無理だぞ」


 その時、前方で煙が上がった。


 黒い煙ではなく、灰色の煙だ。湿った藁か、穀袋か、何かがくすぶるような煙。

 そして、後ろで笛が鳴り響く。そこから先は、途切れ途切れにしか覚えていない。

 道の脇に倒された道標。荷車の下から伸びる手。馬の悲鳴。誰かが「左へ寄れ」と叫んだ声。別の誰かが「戻れ」と怒鳴った声。

 煙の向こうに見えたオルステッド隊の旗。それが、すぐに見えなくなったこと。


 ガレスが盾を上げ、ブルーノが何かを叩き潰す音がした。エルヴィンが誰かの襟をつかんで、脇道へ引き、ニルスが僕の名前を呼んだ気がした。ノエルの荷車は、後退する兵と人足の中に飲み込まれていく。


 その時にはもう、僕らの列は一つではなかった。誰の声も、誰の旗も、まっすぐには届かない。

 僕は戻ろうとした。戻らなければいけないと思った。でも、カインが僕の腕をつかむ。


「こちらです」


「待って。ガレスたちが!」


「こちらです」


「ブルーノがまだ」


「アズール様!!」


 カインの声が、初めて強くなった。


「今は、生きてください」


 そのまま、僕は畑の中へ引きずり込まれた。


 用水路を越えたところで、一度だけ振り返る。

 道はもう道ではなかった。荷車と人と馬と煙が重なり、旗は見えず、声は届かず、何が味方で何が敵なのか分からなかった。


 笛が鳴り響き、煙が上がり、矢が飛ぶ。


 大きな軍が、一度に壊れるのではない。少しずつ、切られていた。前と後ろを切られ、右と左を切られ、荷と兵を切られ、声と旗を切られていた。


 それが、東部の灰衣だった。


 僕たちは、用水路沿いを走った。水は浅い。けれど、底は泥で、足を入れるたびに取られた。

 カインは一度も立ち止まらなかった。僕より先に土手へ上がり、手を伸ばし、僕を引き上げる。その手は泥まみれで、息も荒い。それでも、僕の前では乱れた顔を見せなかった。


「カイン!」


「はい」


「皆の元へ戻る!!」


「なりません!」


「でも、みんなが!」


「今戻れば、アズール様の身にも危険が及びます!」


 あまりにもまっすぐ言われて、言葉が詰まった。カインは、死ぬとは言わない。でも、その顔と必死な声で、僕にも分かった。


 死ぬ。それは、怖いことだ。でも、怖いのに、それだけではなかった。僕が死んだら、皆はどうなる。誰かが残っていても、僕が戻れなければ、もう拾えない。

 誰かが逃げ延びていても、僕が死んでいれば、ばらばらになってしまう。


 僕ひとりでは、何もできない。けれど、僕がいなければ、戻る場所も消えるのかもしれない。その考えは、ひどく重かった。


「あなたを死なせるわけにはいきません」


 カインが言った。


「それは、エスター家の命令?」


 僕は、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。息が切れていた。喉が痛かった。なのに、その問いだけが出た。

 カインは、少しだけ黙った。


「……私の役目です」


 その言い方は、命令を守る者の声ではなかった。もっと古く、もっと重いものを抱えているように聞こえた。

 でも、聞き返す余裕はなかった。畑の向こうで、人影が動いた。


「伏せて」


 今度は、カインが言い終える前に、僕は身を低くした。


 二人いた。

 一人は灰色の布を肩にかけている。もう一人は、灰色ではない。汚れた革の上着を着て、短い槍を持っている。灰衣なのか、野盗なのか、逃亡兵なのか。

 分からない。ただ、こちらを見つけていることだけは分かった。


「貴族か」


 革の上着の男が僕を見ながら言った。

 カインが僕の前へ出る。


「下がりなさい」


「剣を置けよ。そっちの坊ちゃんもだ」


 男は笑った。その歯の隙間に、黒いものが詰まっている。


「水袋も置け。靴もだ。置けば、逃がしてやる」


 逃がすつもりがない声だ。


 カインが動く。速かった。

 けれど、相手もただの農民ではなかった。短槍が突き出され、カインの剣がそれを払う。灰色の布をかけた男が横から回り込む。


 僕は剣を抜いた。手が震えている。

 前に出れば、邪魔になる。下がれば、カインが挟まれる。

 どうすればいい。ガレスなら、盾を置く場所を見る。ブルーノなら、正面を割る。エルヴィンなら、逃げ道を見つけ、ノエルなら、何を捨てて何を残すか言う。

 僕には、どれもできない。


 灰色の男が、カインの背へ回る。その足元に、用水路の縁があった。泥で緩み、草が倒れている。

 僕は剣を振らなかった。代わりに、足元の泥をつかんで投げる。


「っ」


 泥を受けた灰色の男が顔を背けた。その一瞬だけ、足が止まる。


「カイン!」


 僕は腹から叫ぶ。


 カインは振り返らない。けれど、分かっていたように体をずらし、短槍の男を押し込む。短槍の男がよろめいたところへ、僕は横から体ごとぶつかった。


 勝ったわけではない。押し倒したわけでもない。ただ、その衝撃で足を滑らせた男が、用水路へ落ち、水しぶきが上がる。

 カインの剣が、灰色の男の手首を打ち、男が武器を落とす。


「走ってください」


「でも」


「走ってください!」


 僕は走った。

 背後で、誰かが呻いた。水をかく音がする。カインの足音がすぐ後ろに続く。僕がしたことは、勝つことではなかった。

 カインが動ける一瞬を、泥の上に作っただけだった。それでも、僕たちは生きていた。


 畑の端に、小さな倉を見つけ、そこへ向かう。

 扉は開いていたが、中には何もない。穀袋が積まれていた跡だけが残り、床にはこぼれた麦が踏み潰されているだけだった。

 壁に灰色の布切れが打ちつけられている。


 カインは中へ入らずに僕に顔を向ける。


「ここは危険です」


「休めない?」


「休めません」


「少しだけでも」


「足跡から見つかります」


 そう言って、カインは倉の裏手へ回り、僕もついていく。

 足が重い。喉が焼けるように痛い。肩にかけていた袋は、いつの間にか半分ほど口が開き、中の乾いたパンがひとつなくなっていた。


 ノエルなら怒るだろうと思った。ちゃんと締めておいてください、と言うだろう。それから、今残っている食べ物を数え直す。


 その声が聞きたかった。ガレスの低い声が聞きたかった。ブルーノの乱暴な文句が聞きたかった。ニルスの無理な軽口が聞きたかった。エルヴィンの短い指摘が聞きたかった。トマの、荷車がどうの車軸がどうのという愚痴でさえ、今ならありがたかった。

 でも、聞こえたのは風の音だけだった。


 東部の空は広かった。広すぎて、どこへ逃げればいいのか分からない。


 日は傾き始めていた。

 カインが、僕を低い土手の陰へ座らせる。自分は立ったまま、周囲を見ていた。その横顔には、薄く血が流れている。


「カイン、怪我をしてる」


「かすり傷です」


「見せて」


「後で」


「カイン」


 カインはこちらを見なかった。


「今、私を見る必要はありません。見るべきは、道です」


「道なんて、分からないよ」


「だから、止まれません」


 その言葉は冷たくなかった。ただ、現実だけがあった。

 僕は、膝の上で泥だらけの手を握った。


「みんなは、生きてるかな」


 答えは返ってこないと思った。けれど、カインは少しだけ間を置いて言葉をこぼす。


「生きていると、考えます」


「考える?」


「そうであれば、探せます」


 変な言い方だ。慰めでも、祈りでもない。

 生きていると考える。だから、探す。カインらしい、ひどく実務的な希望だった。


 僕は頷いた。頷くしかなかった。


 遠くで、また笛が鳴る。

 カインがすぐに身を低くし、僕もそれに倣う。

 けれど、今度の笛は遠かった。追手がこちらへ来ているのか、別の誰かを追っているのかは分からない。


 分からないことばかりだった。


 オルステッドさんは無事なのか。ノエルとニルスは後退する隊に入れたのか。ガレスとエルヴィンは一緒にいるのか。ブルーノは、ちゃんと止まれているのか。トマは荷車から離れられたのか。


 今の僕には、何もわからない。何も分からないまま、夕暮れが来る。畑の色が暗くなり、用水路の水面が黒く沈んでいく。風が麦の残りを揺らし、倒れた道標の影が長く伸びた。


 旧ハルヴァ砦は、今はもう遠い。白い椀の旗が折れた場所も、もう見えない。東南の灰色は、そこで大きく折れたのだと思っていた。

 けれど、東部には灰衣の火元があった。


 僕らは東部へ来たのではない。東部に、叩き落とされたのだ。


「アズール様」


 カインが、僕を見つめ、低く言った。

 僕は顔を上げる。


「火です」


 畑の向こう。北に続く道の先で、灰色の煙が上がっていた。夕暮れの空に、細く、まっすぐに。その煙の下に、味方がいるのか。敵がいるのか。誰かが助けを待っているのか。

 僕には、まだ分からなかった。


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