第40話 洗礼
どこをどう走っているのか、分からなかった。
とにかく走った。
東部の道は、僕の知っている道ではなく、それも僕を焦らせていた。
ルミナ潟岸のように水の匂いが濃いわけでもない。旧ハルヴァ砦の周りのように、砦や橋を目印にできるわけでもない。
広すぎる畑。低い用水路。刈り残された麦。どこまでも同じように続く畦道。倒された道標。黒く焦げた小さな倉。走っても、走っても、逃げ場がないように見える。
「アズール様、止まらないでください!」
カインの手が僕の腕を引く。その声に返事をしようとした時、後ろで笛が鳴った。高く、短い音。鳥の声ではない。兵の号令でもない。それなのに、その音を聞いた瞬間、僕の肩が勝手に縮む。
「伏せてください!」
カインが僕の肩を押す。
次の瞬間、畦の向こうから矢が飛び、頭の上をかすめた矢が、刈り残された麦の中へ落ちる。僕は泥に膝をついた。手をついたところがぬるりと沈み、指の間に冷たい土が入り込む。
顔を上げようとした僕の前で、カインが剣を抜く。
「大丈夫ですか」
「……灰色が」
畑の向こう、低い土手の陰で、灰色の布が揺れる。一人ではない。けれど、何人いるのかは分からない。
走ってくるわけでもなく、叫ぶわけでもない。ただ、見えて、消える。畦の向こうへ沈み、用水路の陰へ潜り、また別の場所に現れる。
東南で見た灰衣とは違った。
旧ハルヴァ砦の灰衣は、大きな群れだった。粥場に集まり、砦の内外に溜まり、白い椀の旗の下に寄り集まっていた。恐ろしくはあった。けれど、見えた。
ここにいる灰色は、見えない。道を塞ぎ、荷を裂き、声の届かない場所から列を切る。
東南へ流れてきた灰色は、今思えば、まだ群れでしかなかった。でも、この東部、灰衣の火元にいる者たちは、ただ集まっているだけではなかった。
*
旧ハルヴァ砦を発って、七日目の朝だった。
ヴェルナー子爵家軍の一部として、オルステッド隊は、東部支援軍本隊より先に出ていた。大きな戦をするためではない。道を確かめ、荷を通せるか見て、橋や村や倉の様子を確認し、本隊が詰まらないようにするためだ。
オルステッドさんは、東部の街道を眺めながら短く言った。
「前へ出るな。荷と道を見ろ」
「敵を探すのではないのですか?」
ガレスも街道を見つめながら尋ねる。
「事前の報せでは、敵は向こうから来るとのことだ」
それを聞いた時、ブルーノが鼻を鳴らす。
「なら楽でいいじゃねえか」
オルステッドさんは、ブルーノを見ながら眉を少しひそめた。
「楽だと思った時こそ、気を引き締めるものだ」
その言葉の意味を、僕はその時、分かっていなかった。
しばらく街道を進む。
日がてっぺんへ差し掛かるころ、前方から、こちらへ逃げてくる雑多な一団が見えた。避難民の列だ。
だが、その列が、街道の途中で突然詰まる。荷車が一台、道の真ん中で横を向き、痩せた馬が暴れ、子供が泣き、女たちが地面に伏せていた。誰かが「灰衣だ」と叫び、別の誰かが「違う、逃げてきた民だ」と叫んでいる。
ノエルは帳面を抱え直し、集団を見つめている。
「これは……列を分けないと、後ろが詰まります」
トマが止まった荷車の車輪を見て、舌打ちした。
「車軸が折れかけてる。押しても無理だぞ」
その時、前方で煙が上がった。
黒い煙ではなく、灰色の煙だ。湿った藁か、穀袋か、何かがくすぶるような煙。
そして、後ろで笛が鳴り響く。そこから先は、途切れ途切れにしか覚えていない。
道の脇に倒された道標。荷車の下から伸びる手。馬の悲鳴。誰かが「左へ寄れ」と叫んだ声。別の誰かが「戻れ」と怒鳴った声。
煙の向こうに見えたオルステッド隊の旗。それが、すぐに見えなくなったこと。
ガレスが盾を上げ、ブルーノが何かを叩き潰す音がした。エルヴィンが誰かの襟をつかんで、脇道へ引き、ニルスが僕の名前を呼んだ気がした。ノエルの荷車は、後退する兵と人足の中に飲み込まれていく。
その時にはもう、僕らの列は一つではなかった。誰の声も、誰の旗も、まっすぐには届かない。
僕は戻ろうとした。戻らなければいけないと思った。でも、カインが僕の腕をつかむ。
「こちらです」
「待って。ガレスたちが!」
「こちらです」
「ブルーノがまだ」
「アズール様!!」
カインの声が、初めて強くなった。
「今は、生きてください」
そのまま、僕は畑の中へ引きずり込まれた。
用水路を越えたところで、一度だけ振り返る。
道はもう道ではなかった。荷車と人と馬と煙が重なり、旗は見えず、声は届かず、何が味方で何が敵なのか分からなかった。
笛が鳴り響き、煙が上がり、矢が飛ぶ。
大きな軍が、一度に壊れるのではない。少しずつ、切られていた。前と後ろを切られ、右と左を切られ、荷と兵を切られ、声と旗を切られていた。
それが、東部の灰衣だった。
僕たちは、用水路沿いを走った。水は浅い。けれど、底は泥で、足を入れるたびに取られた。
カインは一度も立ち止まらなかった。僕より先に土手へ上がり、手を伸ばし、僕を引き上げる。その手は泥まみれで、息も荒い。それでも、僕の前では乱れた顔を見せなかった。
「カイン!」
「はい」
「皆の元へ戻る!!」
「なりません!」
「でも、みんなが!」
「今戻れば、アズール様の身にも危険が及びます!」
あまりにもまっすぐ言われて、言葉が詰まった。カインは、死ぬとは言わない。でも、その顔と必死な声で、僕にも分かった。
死ぬ。それは、怖いことだ。でも、怖いのに、それだけではなかった。僕が死んだら、皆はどうなる。誰かが残っていても、僕が戻れなければ、もう拾えない。
誰かが逃げ延びていても、僕が死んでいれば、ばらばらになってしまう。
僕ひとりでは、何もできない。けれど、僕がいなければ、戻る場所も消えるのかもしれない。その考えは、ひどく重かった。
「あなたを死なせるわけにはいきません」
カインが言った。
「それは、エスター家の命令?」
僕は、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。息が切れていた。喉が痛かった。なのに、その問いだけが出た。
カインは、少しだけ黙った。
「……私の役目です」
その言い方は、命令を守る者の声ではなかった。もっと古く、もっと重いものを抱えているように聞こえた。
でも、聞き返す余裕はなかった。畑の向こうで、人影が動いた。
「伏せて」
今度は、カインが言い終える前に、僕は身を低くした。
二人いた。
一人は灰色の布を肩にかけている。もう一人は、灰色ではない。汚れた革の上着を着て、短い槍を持っている。灰衣なのか、野盗なのか、逃亡兵なのか。
分からない。ただ、こちらを見つけていることだけは分かった。
「貴族か」
革の上着の男が僕を見ながら言った。
カインが僕の前へ出る。
「下がりなさい」
「剣を置けよ。そっちの坊ちゃんもだ」
男は笑った。その歯の隙間に、黒いものが詰まっている。
「水袋も置け。靴もだ。置けば、逃がしてやる」
逃がすつもりがない声だ。
カインが動く。速かった。
けれど、相手もただの農民ではなかった。短槍が突き出され、カインの剣がそれを払う。灰色の布をかけた男が横から回り込む。
僕は剣を抜いた。手が震えている。
前に出れば、邪魔になる。下がれば、カインが挟まれる。
どうすればいい。ガレスなら、盾を置く場所を見る。ブルーノなら、正面を割る。エルヴィンなら、逃げ道を見つけ、ノエルなら、何を捨てて何を残すか言う。
僕には、どれもできない。
灰色の男が、カインの背へ回る。その足元に、用水路の縁があった。泥で緩み、草が倒れている。
僕は剣を振らなかった。代わりに、足元の泥をつかんで投げる。
「っ」
泥を受けた灰色の男が顔を背けた。その一瞬だけ、足が止まる。
「カイン!」
僕は腹から叫ぶ。
カインは振り返らない。けれど、分かっていたように体をずらし、短槍の男を押し込む。短槍の男がよろめいたところへ、僕は横から体ごとぶつかった。
勝ったわけではない。押し倒したわけでもない。ただ、その衝撃で足を滑らせた男が、用水路へ落ち、水しぶきが上がる。
カインの剣が、灰色の男の手首を打ち、男が武器を落とす。
「走ってください」
「でも」
「走ってください!」
僕は走った。
背後で、誰かが呻いた。水をかく音がする。カインの足音がすぐ後ろに続く。僕がしたことは、勝つことではなかった。
カインが動ける一瞬を、泥の上に作っただけだった。それでも、僕たちは生きていた。
畑の端に、小さな倉を見つけ、そこへ向かう。
扉は開いていたが、中には何もない。穀袋が積まれていた跡だけが残り、床にはこぼれた麦が踏み潰されているだけだった。
壁に灰色の布切れが打ちつけられている。
カインは中へ入らずに僕に顔を向ける。
「ここは危険です」
「休めない?」
「休めません」
「少しだけでも」
「足跡から見つかります」
そう言って、カインは倉の裏手へ回り、僕もついていく。
足が重い。喉が焼けるように痛い。肩にかけていた袋は、いつの間にか半分ほど口が開き、中の乾いたパンがひとつなくなっていた。
ノエルなら怒るだろうと思った。ちゃんと締めておいてください、と言うだろう。それから、今残っている食べ物を数え直す。
その声が聞きたかった。ガレスの低い声が聞きたかった。ブルーノの乱暴な文句が聞きたかった。ニルスの無理な軽口が聞きたかった。エルヴィンの短い指摘が聞きたかった。トマの、荷車がどうの車軸がどうのという愚痴でさえ、今ならありがたかった。
でも、聞こえたのは風の音だけだった。
東部の空は広かった。広すぎて、どこへ逃げればいいのか分からない。
日は傾き始めていた。
カインが、僕を低い土手の陰へ座らせる。自分は立ったまま、周囲を見ていた。その横顔には、薄く血が流れている。
「カイン、怪我をしてる」
「かすり傷です」
「見せて」
「後で」
「カイン」
カインはこちらを見なかった。
「今、私を見る必要はありません。見るべきは、道です」
「道なんて、分からないよ」
「だから、止まれません」
その言葉は冷たくなかった。ただ、現実だけがあった。
僕は、膝の上で泥だらけの手を握った。
「みんなは、生きてるかな」
答えは返ってこないと思った。けれど、カインは少しだけ間を置いて言葉をこぼす。
「生きていると、考えます」
「考える?」
「そうであれば、探せます」
変な言い方だ。慰めでも、祈りでもない。
生きていると考える。だから、探す。カインらしい、ひどく実務的な希望だった。
僕は頷いた。頷くしかなかった。
遠くで、また笛が鳴る。
カインがすぐに身を低くし、僕もそれに倣う。
けれど、今度の笛は遠かった。追手がこちらへ来ているのか、別の誰かを追っているのかは分からない。
分からないことばかりだった。
オルステッドさんは無事なのか。ノエルとニルスは後退する隊に入れたのか。ガレスとエルヴィンは一緒にいるのか。ブルーノは、ちゃんと止まれているのか。トマは荷車から離れられたのか。
今の僕には、何もわからない。何も分からないまま、夕暮れが来る。畑の色が暗くなり、用水路の水面が黒く沈んでいく。風が麦の残りを揺らし、倒れた道標の影が長く伸びた。
旧ハルヴァ砦は、今はもう遠い。白い椀の旗が折れた場所も、もう見えない。東南の灰色は、そこで大きく折れたのだと思っていた。
けれど、東部には灰衣の火元があった。
僕らは東部へ来たのではない。東部に、叩き落とされたのだ。
「アズール様」
カインが、僕を見つめ、低く言った。
僕は顔を上げる。
「火です」
畑の向こう。北に続く道の先で、灰色の煙が上がっていた。夕暮れの空に、細く、まっすぐに。その煙の下に、味方がいるのか。敵がいるのか。誰かが助けを待っているのか。
僕には、まだ分からなかった。




