第39話 東からの報せ
旧ハルヴァ砦が落ちて、三日が過ぎた。
川の音は、相変わらず強く、僕の耳に届いている。
落とされた橋の残骸は、まだ水の中で斜めに沈み、流れてきた枝が引っかかり、布切れが水を吸って重く揺れていた。
白い椀の旗は、もう砦の上にはない。
あれは槍や弓や農具と一緒に集められ、武器の山から少し離れた場所に置かれていた。泥を吸った布は乾ききらず、白かったはずの椀も、もう灰と土の色に近かった。
旧砦の外に張られていた縄囲いは、半分以上が空になっていた。
最初の日、そこには灰衣たちが座らされていた。
川沿いで槍を持っていた者。旧砦の周りで最後まで抵抗した者。途中で武器を置いた者。粥場から下った者。負傷して筵へ寝かされた者。
だが、その大半はもうここにはいない。
残っているのは、杭に結ばれた縄の端と、踏み荒らされた泥と、数を記した木札だった。
それでも、仕事は残っている。
後方へ送った者の数を、木札と照らし合わせる声。
ノトスへ送った組と、旧砦裏の仮囲いへ回した組を混ぜるなという声。
残った重傷者を今日中に下げろという声。
奥側の橋はまだ荷車を通すなという声。
叫び声は減った。
代わりに、数を読む声、木札を渡す声、荷車を回せという声、筵を足せという声が増えていた。
「三日経っても、片づかねえもんだな」
ブルーノが、荷車の横で腕を組んだまま言った。
僕らの荷車二台は、旧砦へ続く道から少し外れたところに止められている。泥はまだ深く、車輪が一度はまると、トマが顔をしかめながら押し直すことになる。
「これだけの人数が動いたあとだ。すぐには戻らない」
ガレスが答える。
ブルーノは鼻を鳴らした。
「戦った気もしねえのに、片づけだけ長え」
「戦わずに済んだなら、それも役目だ」
ガレスは、前にも似たことを言っていた。
ブルーノはそれが気に入らないらしく、肩を回して旧砦の方を見た。
「その役目、腹が減るだけなんだよ」
ノエルが荷車の帳面から顔を上げた。
「腹は減ります。動いても、動かなくても」
「そういう真面目な返しは、いらねえんだよ」
「では、食べる量を減らしますか」
「それはもっといらねえ」
ブルーノが即座に言い、トマが荷車の陰で小さく笑った。
笑えるだけ、三日前よりは空気が戻っているのだと思う。
けれど、旧砦の周りに漂う疲れは消えていなかった。
寄子軍の陣では、家ごとに兵を数えていた。
戻った者。戻らなかった者。負傷して下げられた者。伝令に出ている者。
旗の下で、小隊長らしい男たちが帳面を持ち、泥だらけの兵に名を呼ばせている。
「東南は、これで終わりに近いんでしょうね」
ニルスが、少し遠くを見ながら言った。
「ノトスの門が開いて、旧砦も落ちた。周りの村も旗を下ろし始めてるって聞いたし」
「近い、だけだ」
エルヴィンが短く返した。
「残党がいる。後方へ送った者もいる。橋も道も、元に戻っていない」
「夢がないですね!」
「夢で道は通れない」
ニルスは肩をすくめた。
僕は、旧砦の上を見た。
そこには、もう白い椀の旗はない。
代わりに、ルミナ沿海伯家軍の見張りが立っている。
東南に広がっていた灰色は、ここで大きく折れたのだと思えた。
少なくとも、僕らの目に見える範囲では。
だから、兵たちの中には、もう帰り支度の気配があった。
武具を手入れする者。泥を落とす者。破れた靴を直す者。家の陣へ戻る日を数える者。
ここが終われば、家へ戻れる。村へ戻れる。畑や港道や家族のところへ戻れる。
そう思っている顔が、いくつもあった。
その空気を破ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
港都ルミナからの伝令が、旧砦外の指揮所へ入った。
馬は泡を吹いていた。伝令の外套にも、泥と汗がこびりついている。
旧ハルヴァ砦が落ちた一報は、すでに港都へ送られていた。
その返書が来たのだと、すぐに分かった。
指揮所の前で、兵たちの動きが一瞬だけ細くなる。
勝報への返事。
褒賞。
帰還命令。
東南鎮定の確認。
そんなものを待っていた空気が、別のものに変わっていく。
ロドリック・サヴェルヌ軍務長は、旧砦の外に設けられた指揮所で伝令を受けた。
僕らのいる場所からは、声の全部は聞こえない。
けれど、指揮所の周りにいた士官たちの顔つきが変わったのは見えた。
やがて、ロドリック軍務長の声が聞こえた。
「帝国中央からの要請に、沿海伯閣下が応じられた」
その場の声が、少し沈んだ。
「東部へ兵を出す」
誰かが息を呑んだ。
東部。
その言葉だけで、周りの兵たちの顔が変わる。
東南の村ではない。
ルミナ潟岸の街道でもない。
自分たちの港でも、自分たちの寄り親の目の届く土地でもない。
東部グランヴェル平原。
帝国直轄の穀倉地帯。
僕は、何度かその名を聞いていた。
灰衣大乱の火元。
東南に流れてきた灰色を、もともと押し出した場所。
「東部だと?」
寄子軍の陣の方から、低い声が聞こえた。
「こっちは旧砦を落としたばかりだぞ」
「うちは負傷者が戻ってねえ」
「帝国直轄地の火だろ。なんで俺たちが行く」
「もう東南は鎮まるんじゃねえのか」
大声ではない。命令に逆らう声でもない。
でも、明るい声ではなかった。
地元の治安を守るなら、分かる。
自分たちの村を守るなら、分かる。
港道を開くためなら、分かる。
けれど、東部は遠い。
そこに何があるのか、僕にはまだはっきり見えていなかった。
兵たちにとっては、なおさらだと思う。
「関係がないからと放っておけるならよいがな。だが、灰衣は東部からここまで来たのだ」
近くにいた年長の兵が、誰に言うでもなく呟いた。
その言葉に、周りは返さなかった。
返せなかったのかもしれない。
ロドリック軍務長は、伝令の書状を畳むと、士官たちへ向き直った。
「東南を空にはできん。旧砦には守備を残す。移した者の照合も続ける」
声は淡々としていた。勝った後と同じだ。浮かれず、急がず、目の前の仕事を順に切っていく声。
「負傷の多い家は戻せ。損耗を隠すな。動ける家を選ぶ」
「はっ」
「荷を守れない隊は、東へ出しても詰まる。兵だけで組むな。荷駄、人足、馬、車を数えろ」
「はい」
「全軍は動かさん。だが、沿海伯家の旗として軽くもできん」
士官たちが頷く。
「四千を軸に組む。荷駄を厚くしろ。東部で飢える軍は、戦う前に負ける」
四千。
その数は、僕らの荷車二台と三十に届かない者たちからすれば、あまりに大きい。
けれど、ルミナ沿海伯家の軍全体からすれば、全部ではない。
東南を空にしないための、ぎりぎりの数なのだと思う。
「ここは波及だ」
ロドリック軍務長の隣にいた副官が、低く言った。
「火元は東部だ。火元を放っておけば、灰はまた流れる」
僕は、その言葉を聞いた。
ここは波及。
火元は東部。
ノトス。
旧ハルヴァ砦。
白い椀の旗。
粥場。
投降者の列。
僕らが見てきた灰色は、灰衣大乱のすべてではなかった。
流れ着いた端だった。その端を押し出した、大きな波が東にある。
そう考えると、旧砦の上から消えた旗の跡が、急に小さく見えた。
「おい、アズール」
ブルーノが、僕の肩を小突いた。
「東部って、どこまで行くんだよ」
「遠いね」
「遠いね、じゃねえよ」
「僕も、詳しくは知らない」
正直に言うと、ブルーノはさらに嫌そうな顔をした。
「東部だろうが何だろうが、飯が出るなら行くしかねえだろ」
「飯だけで決めるな」
「じゃあ、何で決めるんだよ」
ガレスが答えた。
「我々はエスター家の分遣隊で、今はオルステッド隊の預かりだ。命が下れば動く」
「真面目か」
「真面目な話だ」
ノエルは帳面を閉じた。
「戻っても、外倉が広くなるわけではありません」
「それ、言う必要あるか?」
「あります。戻れば楽になる、と思わない方がいいので」
ブルーノは黙った。
僕も、少しだけ黙った。
戻る場所は、一応ある。
エスター領。外倉。オスカー兄上が、どうにか用意してくれた場所。
けれど、あれは僕らの国でも、僕らの倉でもない。
僕らをずっと食わせるために空けられた場所でもない。
僕らは、まだ根を張っていない。
帰る場所がある者ほど、東へ行きたがらない。
僕らは、帰る場所が薄い。
だから、命令に逆らう理由も薄かった。
それが良いことなのかは分からない。
ただ、食べていくには、どこかで役に立つしかなかった。
東南では、僕らはあまり戦わなかった。
旧ハルヴァ砦の戦いでも、最後まで高所の荷車のそばにいた。
見ることも役目だと、オルステッドさんは言った。
でも、見ているだけで、ずっと食っていけるわけではない。
「アズール様」
カインが少し近づいてきた。
「ヴェルナー子爵家軍の一部が、東部支援軍に入るようです」
「オルステッド隊も?」
「おそらくは」
カインの声は落ち着いていた。けれど、完全に他人事ではない響きがある。
「僕らも、だね」
そう言うと、カインは頷いた。
「オルステッド隊の預かりですから」
僕らに直接命令が来たわけではない。
オルステッド隊に命令が来る。だから、僕らも動く。
それだけのことだった。
夕方近くになって、オルステッドさんが僕らのところへ来た。
鎧にはまだ泥が残っている。
表情は、いつも通り読みづらい。
「東へ動く」
短い言葉だった。
「東部ですか」
僕が聞くと、オルステッドさんは首を横に振った。
「東部の手前からだ。まずは荷と道を守る」
「荷と道」
「大きな軍は、勝手に進まん。道が要る。荷が要る。食わせる者が要る」
僕は、三日前の旧砦の後処理を思い出した。
数える者。分ける者。運ぶ者。見張る者。
軍は、槍と旗だけでできていない。
「退屈だったか」
オルステッドさんが、ブルーノの方を見た。
ブルーノは、少しだけ顔をそらした。
「だいぶ」
「なら、次は退屈では済まんかもしれん」
「そりゃ、いいことなのか?」
「知らん」
オルステッドさんは淡々と言った。
「だが、役目はある」
その言葉で、僕は少しだけ息を吐いた。
役目がある。
それは、怖いことでもある。
でも、今の僕らには必要な言葉だった。
夜が近づく頃、旧砦の上には小さな火が灯った。
見張りの火だ。
白い椀の旗は、もうそこにはない。
旧ハルヴァ砦を落としたという一報は、港都ルミナへ届いていた。
けれど返ってきたのは、東南の終わりを告げる言葉ではなかった。
沿海伯閣下は、帝国中央からの要請に応じた。
僕らに直接命じられたわけではない。
けれど、僕らはオルステッド隊の預かりだ。
オルステッド隊が動くなら、僕らも動く。
東南の戦は、終わりに近づいていた。
けれど灰衣大乱は、まだ終わっていない。
東から届いた報せは、僕らの帰り道を、静かに東へ曲げていた。




