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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第38話 砦のあと


 旧ハルヴァ砦の朝は、静かだった。


 戦が終わったから、静かなのではない。

 叫ぶ声が、怒鳴る声に変わり、怒鳴る声が命令の声に変わっただけだ。


 川は、まだ強く流れている。

 落とされた橋の残骸は、水の真ん中で斜めに沈み、引っかかった枝や布切れを揺らしていた。

 昨日、その向こうへ渡った兵たちの足跡が、川岸の泥に残っている。


 旧砦の周りには、折れた槍が刺さっていた。

 農具の柄。

 短い棍棒。

 矢羽の折れた矢。

 踏みつけられて泥に沈んだ灰色の布。


 そして、土の上に落ちた白い椀の旗。


 それはもう、風を受けていなかった。

 旗竿は折れて、布は半分ほど泥に濡れている。

 遠くから見ていた時には、あれが人を集めていた。

 けれど今は、集められた武器の山のそばに、ただ置かれているだけだった。


 僕らは、高所の荷車のそばから下りた。


 下りたと言っても、旧砦の中へ入ったわけではない。

 ヴェルナー子爵家軍の後ろにつき、後方整理の外側へ移っただけだ。

 荷車二台は、ゆっくりと進む。

 車輪が泥に沈むたび、トマが顔をしかめた。


「戦った気がしねえな」


 ブルーノが、肩を回しながら言う。


「そうだね」


「そうだね、じゃねえよ。俺、昨日からずっと待ってただけだぞ」


「待ってたから、無事にここにいるんだと思う」


「つまんねえ理屈だな」


 ブルーノは口を曲げたが、それ以上は言わなかった。


 ガレスが、川向こうの旧砦を見たまま言う。


「戦わずに済んだなら、それも役目だ」


「役目ねえ」


「不満か」


「だいぶな」


 ブルーノはそう答えたけれど、前へ出ようとはしなかった。

 昨日、川の向こうで大きな軍が動くのを見たからだろう。

 自分たちの出る場所ではなかったことくらいは、ブルーノにも分かっているのだと思う。


 僕にも、少しだけ分かってきていた。


 戦場には、動くべき場所と、動かない方がいい場所がある。

 前へ出ることだけが役目ではない。

 そう思えるようになったのは、たぶん、僕らが本当に前へ出なかったからだ。



 旧砦の外側では、もう戦いではなく、仕事が始まっていた。


 ルミナ沿海伯家軍の兵たちが、槍や農具を一か所へ集めている。

 別の場所では、寄子軍の兵が縄を張り、投降した者たちを座らせていた。

 負傷者は、筵の上へ寝かされている。

 血のにおいと、冷めかけた粥のにおいが、泥のにおいに混ざっていた。


 旧砦は、砦と呼ぶには古すぎた。


 崩れた土塁。

 半ば埋まった門跡。

 焼け残った古い柱。

 誰かが急いで積み直したらしい石。

 そこへ、灰衣の者たちは布を張り、荷車を寄せ、粥釜を置いていた。


 戦う場所というより、逃げ込んだ場所だった。

 けれど、ただ逃げ込んだだけではない。

 川沿いには槍が並び、石が積まれ、弓を置いた跡もある。

 戦うための顔と、暮らすための顔が、同じ場所に重なっていた。


「粥場、ですね」


 ノエルが小さく言った。


 荷車の脇に立ったまま、旧砦の奥を見ている。

 昨日よりは近い。

 だから、そこに何があったのかも少し分かる。


 黒く煤けた大釜。

 割れた椀。

 濡れた布。

 寝かされていたらしい筵。

 荷車の周りに残った足跡。


 ノエルは、それ以上は何も言わなかった。


 言わなくても分かることがある。

 ここにいた者たちには、事情があったのだろう。

 飢えた者がいて、負傷者がいて、逃げてきた者がいて、粥を炊いた者がいた。


 でも、川沿いで槍をこちらへ向けていた者たちは、僕らを殺そうとしていた。


 事情があっても、槍を向けるなら敵になる。

 僕にとっては、自分と見える仲間の方が大切だ。


 その線だけは、昨日から変わらなかった。



 投降者の列は、いくつにも分けられていた。


 槍を持って川沿いで戦った者は、縄の内側へ座らされている。

 旧砦の周りで最後まで抵抗した者は、さらに見張りが厚い。

 途中で武器を置いた者は、別の列に移されていた。


 粥場から下った者たちは、荷車の近くへ座らされている。

 子供を抱えた女。

 老人。

 負傷者に肩を貸す若者。

 農具を手放して、両手を膝に置いている男。


 負傷者は筵の列へ運ばれていた。

 灰衣の者もいる。

 ルミナ沿海伯家軍の兵もいる。

 寄子軍の兵もいる。


 同じ場所に寝かされているわけではない。

 けれど、誰が敵で誰が味方かを分けながらも、怪我人は怪我人として扱われていた。


 大きな声が飛ぶ。


「武器を先に集めろ!」


「槍持ちと粥場の者を混ぜるな!」


「子供を抱いた者は奥へ座らせろ。走らせるな!」


「筵が足りん。古布を回せ!」


 声の主は一人ではない。

 現場の士官、書きつけを持つ者、縄を張る兵、負傷者を運ぶ兵。

 それぞれが自分の場所で動いている。


 僕は、それを見ていた。


 槍を構えている者だけでは、この場所は片づかない。


 書きつけを持つ者が、数を拾う。

 縄を張る者が、列を分ける。

 筵を運ぶ者が、負傷者を寝かせる。

 見張りの兵が、座り込んだ者たちの前を歩く。


 昨日、川を越えた軍は、今日、川を越えた後を片づけていた。

 それもまた、軍なのだと思った。



 ロドリック・サヴェルヌ軍務長は、旧砦の外に置かれた指揮所で、次々に報告を受けていた。


 泥のついた外套を着た士官が、膝をついて言う。


「奥の橋、通行は可能です。ただし、橋板の一部が緩んでおります」


「見張りを置け。荷車はまだ通すな」


「逃げた灰衣の小集団が北東へ散っています」


「追いすぎるな。半刻追ったら戻せ。旧砦と投降者の整理が先だ」


「寄子軍の損耗、まだ全家分はそろっておりません」


「家ごとに出させろ。負傷者も別に数えろ」


 ロドリックの声は、昨日と同じだった。

 勝って浮かれているようには見えない。

 怒っているわけでもない。

 ただ、目の前に積まれた仕事を、順番に崩している。


「下った者の数は」


「まだ確定しておりません。粥場側だけでも、千を超える見込みです」


「見込みでは食わせられん。数えろ」


「はっ」


「それから、粥場の者と槍持ちを混ぜるな。あとで揉める」


 ロドリックは、地面に広げられた粗い図へ視線を落とした。

 旧砦、川、落とされた橋、奥の橋、投降者を置いた場所、武器を集めた場所。

 昨日の戦場が、今日は片づけるための図になっている。


「戦は終わった。だが、軍を解くな」


 ロドリックは短く言った。


「終わった後に崩れる軍は、勝ったとは言わん」


 近くにいた士官たちが、いっせいに頭を下げる。


 僕は少し離れた場所から、それを見ていた。


 ロドリック軍務長は、名将という感じではない。

 大きな奇策を使う人でもない。

 ただ、橋を落とされれば渡る場所を探し、川を越えれば広がらせ、砦を囲めば投降者を分ける。


 やるべきことを、順にやる。


 それができることが、こんなにも大きいのだと、僕は初めて知った気がした。



 寄子軍の兵たちは、泥だらけだった。


 川を越えた者は、腰のあたりまで濡れている。

 弓兵は弦を外し、乾いた布で何度も拭いていた。

 槍兵は、泥のついた穂先を地面に立て、順番に人数を確かめている。


 家ごとの旗の下に、小さな輪ができていた。

 戻った者。

 戻らない者。

 負傷して運ばれた者。

 どこかへ伝令に出ている者。


 それを一つずつ数えている。


 主攻は、ルミナ沿海伯家軍だった。

 最初に水へ入ったのも、川の向こうで足場を作ったのも、沿海伯家軍だ。


 けれど、寄子軍が楽をしていたわけではない。


 泥に足を取られた兵がいた。

 矢を受けた兵がいた。

 逃げ道を塞ぐために、旧砦の脇へ回った兵がいた。

 戦った家は、それぞれの旗の下で、疲れた顔をしていた。


 エスター男爵家も、寄子の一つだ。

 僕らは、その末席の、そのさらに小さな分遣隊にすぎない。


 ここにいる兵たちと同じように旗の下へ戻るほど、僕らにはまだ大きな旗もない。

 あるのは、荷車二台と、三十に届かない者たちだけだ。


 その小ささが、今日ははっきり見えた。


「退屈だったか」


 ふいに声をかけられて振り向くと、オルステッドさんがいた。


 兜を小脇に抱え、外套の裾に泥をつけている。

 昨日、川を越えた隊を見ていた時より、少しだけ疲れた顔をしていた。


「だいぶな」


 ブルーノが答える。


 僕が返事をする前だった。


 オルステッドさんは、ブルーノを見て短く笑った。


「それでいい。退屈なまま終わる予備は、悪くない」


「悪くなくても、楽しくはねえな」


「戦場を楽しみに来るな」


「そりゃそうだけどよ」


 ブルーノは不満そうに鼻を鳴らした。


 オルステッドさんは、僕の方へ視線を移す。


「今日の仕事は、戦うことではない。見ることだ」


「見ること、ですか」


「ああ。勝った後に何が残るか。軍が何を片づけるか。覚えておけ」


 そう言うと、オルステッドさんはまた別の兵へ声をかけに行った。


 褒められたわけではない。

 戦功を認められたわけでもない。


 ただ、見ておけと言われた。


 それが、今の僕らにはちょうどよかった。



 昼近くになると、旧砦周辺の混乱は少しずつ形を持ち始めた。


 武器の山は、三つに分けられている。

 槍と弓。

 農具や棍棒。

 短剣や隠し持っていた刃物。


 投降者の列も、少しずつ落ち着いていく。

 見張りの兵が、縄の外側を歩く。

 座らされた灰衣たちは、うつむいたまま動かない。


 粥場にいた者たちは、別の場所で固まっていた。

 子供の泣き声がする。

 老人が咳き込む。

 誰かが水を求める声を上げ、近くの兵が怒鳴る。

 また別の兵が、怒鳴るなと止める。


 勝った後の場所は、きれいではなかった。


 泥がある。

 血がある。

 泣く声がある。

 怒る声がある。

 数が合わないと叫ぶ声がある。

 自分は戦っていないと訴える声がある。


 それでも、少しずつ列になる。

 少しずつ分けられる。

 少しずつ、戦場ではなくなっていく。


 戦は、勝って終わりではなかった。

 勝った軍は、そのあとを片づけなければならない。


 そして、片づける力がなければ、勝った後にまた崩れるのだろう。


 僕は、ロドリック軍務長の指揮所を見た。

 まだ伝令が走っている。

 まだ士官が報告を上げている。

 まだ書きつけを持った者が、数字を書き直している。


 昨日まで、軍は槍と旗と太鼓でできているように見えた。


 でも今は違う。


 軍は、縄と木札と荷車と筵でもできている。

 数える者と、運ぶ者と、座らせる者と、見張る者でもできている。


 それを持っているから、大きな軍は大きな軍なのだ。



 夕方近くになって、旧ハルヴァ砦の上には、もう白い椀の旗はなかった。


 落ちた布は回収され、槍や弓と同じように別の場所へ置かれている。

 砦の上にあるのは、ルミナ沿海伯家軍の見張りだけだ。


 ノトスの門は開いた。

 旧ハルヴァ砦も落ちた。

 街道には、少しずつ兵と荷が戻り始めている。


 周辺の村に残っている白い椀の旗も、これから下ろされていくのだろう。

 逃げた者の追跡も、しばらくは続くのだろう。

 投降者の処分も、負傷者の扱いも、まだ決まっていないことばかりだ。


 それでも、東南に広がっていた灰衣の火は、ここで大きく折れたのだと思えた。


 ブルーノが、旧砦を見上げて言った。


「これで終わりか」


「東南では、かなり落ち着くと思う」


 僕はそう答えた。


 でも、言いながら、自分でも分かっていた。

 これは、灰衣大乱のすべてではない。

 兵たちの報告の中で、何度もその名を聞いた。


 東部グランヴェル平原。


 帝国の穀倉と呼ばれる、もっと広く、もっと人の多い土地。

 そこでは、ここよりも大きな灰色の波が、まだ収まっていないのだという。


 僕らが見た灰衣の列は、乱世の端に流れ着いたものにすぎなかったのかもしれない。


 旧ハルヴァ砦の上に、白い椀の旗はもうない。


 けれど、遠い東の空には、まだ灰色の煙が残っている気がした。


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