第36話 旧ハルヴァ砦攻略戦・前編
朝の光が、落とされた橋の残骸を照らしていた。
川の上にあったはずの道は、途中で折れている。
橋板は流れに引っかかり、傾いた橋脚の間で水を割っていた。
昨日までは、あそこを渡るつもりだったのだろう。
けれど今は、そこに兵を通すことはできない。
僕らは、その川を少し高い場所から見下ろしていた。
旧ハルヴァ砦へ向かう道は、途中で川を越える。
その手前の高みに、荷車と負傷者、後方に回された小部隊が置かれていた。
ヴェルナー子爵家軍の旗は、南側の備えとして少し前にある。
僕らエスター男爵家分遣隊は、そのさらに後ろだ。
荷車二台。
歩ける負傷者。
担架が必要な者。
水袋と替えの布。
拾って直した折れた槍。
昨日と変わらない荷が、僕らの足元にあった。
「橋が落ちたんなら、殴りに行けねえじゃねえか」
ブルーノが、大棍棒を肩に乗せたまま不満そうに言った。
「殴るための橋じゃないよ」
「じゃあ何のための橋だよ」
「……渡るための橋かな」
「渡れねえなら、やっぱり役に立たねえじゃねえか」
ブルーノの言い分は乱暴だったけれど、少しだけ正しい。
橋が落とされたことで、戦の形は変わっていた。
ノエルは荷車の脇で、負傷者に水を分けている。
カインは、前方ではなく、僕らの周囲を見ていた。
ニルスは何か言いたそうに川を見て、けれど結局、黙って水袋の口を縛り直した。
ガレスは、落ちた橋ではなく、川沿いの旗を見ていた。
「慌ててはいないな」
「誰が?」
「沿海伯家軍だ」
僕も前を見る。
淡い青色の旗が動いていた。
ルミナ沿海伯家軍の旗だ。
橋が落ちたからといって、兵たちがあちこちへ散っているわけではない。
伝令が走り、旗手が位置を変え、弓兵が前へ出る。
水場も、荷置き場も、負傷者置き場も、昨日決められた場所から大きく動いていない。
戦場は乱れていない。
ただ、組み直されていた。
*
ロドリック・サヴェルヌ軍務長のいる場所は、ここからでも分かった。
大きな声で怒鳴っているわけではない。
派手な鎧でもない。
けれど、そこへ兵が集まり、そこから伝令が散っていく。
「落とされた橋に兵を集めるな。残った橋にも寄りすぎるな」
前方から伝令の声が流れてきた。
「まず川沿いを黙らせる。弓隊、前へ」
その声の後、寄子軍の一部が前へ出た。
ルミナ沿海伯家軍の弓兵も列を整える。
ロドリック軍務長の命令は、奇抜ではなかった。
落ちた橋にこだわらない。
残った橋に殺到しない。
川沿いの灰衣を矢で押さえる。
主攻は沿海伯家軍。
寄子軍は矢と側面で支える。
それだけだ。
けれど、その「それだけ」を大きな軍でやるのは、きっと簡単ではない。
黒棘の森で見た討伐隊は、数だけはいた。
でも、誰がどこを見るのか、どこへ退くのか、誰が命じるのか、何もかもが少しずつ噛み合っていなかった。
今、下に見える軍は違う。
旗が動けば、列が動く。
太鼓が鳴れば、弓兵が膝をそろえる。
伝令が走れば、荷車は道を空ける。
戦う前から、軍は軍なのだと思った。
「主攻は沿海伯家軍」
また声が届く。
「寄子軍は矢を合わせろ。渡る者を急がせるな。急げば川で詰まる」
その言葉を聞いて、近くの寄子軍の兵たちが少し顔を上げた。
主家が命じるだけではない。
主家が、先に川へ入る。
僕は、まだその意味を全部分かっているわけではない。
ただ、寄子家の旗の下にいた兵たちの空気が、少しだけ変わったことは分かった。
*
手前の橋を落としたこと自体は、悪くなかった。
ピリムは、旧ハルヴァ砦の崩れた土塁のそばから、川筋を見ていた。
川の向こうに、淡い青色の旗が並んでいる。
ルミナ沿海伯家軍。
その後ろには寄子軍の旗。
さらに後ろには、まだ動かない白地に青い二本線の旗もある。
あの白のあたりに、ノトスで戦った連中もいるのだろう。
ピリムは、灰色の布を肩に巻いた男たちの怒鳴り声を聞き流した。
灰衣を纏えば、貴賤は消える。
同じ椀から粥を分ける。
周りの者たちは、その言葉にすがっていた。
だが、ピリムは信じていない。
ただ、飯を求める者が集まれば、人も集まる。
人が集まれば、槍を握る者も混じる。
槍を握る者が混じれば、野盗崩れを束ねる自分にも、口を挟む場所ができる。
手前の橋は落とした。
もう、手前側から旧砦へ入る者はほとんど入った。
あの橋を残しておけば、ルミナ側はそこを使う。
落とせば、渡る場所は減る。
渡る場所が減れば、兵は詰まる。
兵が詰まれば、石も矢も当たる。
それだけでいい。
勝てるとは思っていない。
時間を稼げればいい。
奥側の橋は残した。
逃げ道だ。
外へ置いた連中との連絡にも使える。
いざとなれば、荷も人も、さらに奥へ逃がせる。
落とす橋を間違えるほど、ピリムは愚かではない。
ただし、こちらの手勢は、兵ではなかった。
命じた通りに動く者は半分。
怒鳴れば動く者が三割。
残りは、勝手に叫び、勝手に前へ出る。
それでも、ただの群れよりはましだった。
「川沿いから離れるな! 前へ出すぎるな!」
ピリムは怒鳴った。
聞いている者は少ない。
それでも、聞く者が少しでもいれば、戦場の形は少し変わる。
*
最初の斉射は、川の上を越えていった。
高所から見ると、矢は黒い線のようだった。
いくつもの線が、同じ方角へ流れる。
風がうなり、少し遅れて、対岸で叫び声が上がった。
黒棘の森で降った矢は、僕らを散らす矢だった。
どこから来るのか分からず、どこへ伏せればいいのかも分からなかった。
今、川へ向かって飛んでいく矢は、味方を進ませるための矢だった。
寄子軍の弓兵が撃つ。
沿海伯家軍の弓兵も撃つ。
矢は灰衣をすべて倒すためではなく、顔を上げさせないために降っている。
対岸の灰衣勢が、少し下がった。
気勢を吐いている灰衣勢。
その中には、元兵も、野盗も、自分たちの何かを守るために槍を取った者もいるのだろう。
けれど、遠くから見れば、一つの塊に見える。
川沿いで石を投げようとした者が、矢を受けて転んだ。
別の者が前へ出ようとして、後ろの者とぶつかる。
叫び声は聞こえるが、命令の声には聞こえない。
「押さえているな」
ガレスが言った。
「倒してる、じゃなくて?」
「倒せればいい。だが、それだけが目的ではない。顔を上げさせなければ、渡る時間ができる」
その言葉の通り、淡い青色の旗の下から兵が前へ出た。
ルミナ沿海伯家軍の左翼だった。
*
川へ入った兵の膝に、水がぶつかる。
冷たい水だろう。
流れは見た目より強い。
橋が落とされたせいで、折れた木材が水を乱し、足元の泥を掻き回していた。
「止まるな!」
後ろから声が飛ぶ。
止まりたくなくても、足が止まりそうになる。
盾を頭上へ上げる。
石が当たる。
盾が揺れる。
水が腰に近づく。
隣の兵が滑った。
すぐに後ろの兵が腕をつかむ。
「立て、流されるな!」
矢が頭上を越える。
味方の矢だ。
その矢がなければ、対岸の灰衣はもっと顔を上げていただろう。
ルミナ沿海伯家軍の旗が水の中で傾いた。
旗手が踏みとどまる。
槍を持つ兵が二人、旗手の脇に入る。
川の向こうは、まだ遠い。
だが、遠いだけだった。
行けない場所ではなかった。
*
高所から見ると、渡河する兵の列は、黒い帯のように見えた。
水の中で止まりかけ、また進む。
盾が揺れ、槍が傾き、旗が一度沈みかける。
けれど列は切れない。
「すごい……」
ニルスが小さく言った。
ブルーノは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「遠くで見ててもつまんねえ」
「今出たら邪魔だ」
エルヴィンが淡々と言った。
「分かってるよ」
「分かっていない顔をしている」
「うるせえな」
ブルーノは文句を言う。
けれど、動かない。
ガレスも前へ出ない。
ヴェルナー子爵家軍も動いていない。
南側の備えとして旗を立て、列を保っている。
「強い隊ほど、すぐ動かさないこともある」
エルヴィンが前に言った言葉を、僕は思い出した。
今なら少しだけ分かる。
前へ出れば、もう予備ではない。
川で詰まれば、後ろから助ける者がいなくなる。
南側が崩れれば、ノトスへ戻る道も危うくなる。
僕らは、ここで見ているだけだった。
大きな軍は、僕らが動かなくても動いていく。
そのことが、少し寂しくもあり、少し怖くもあった。
黒棘討伐戦では、隊が崩れていくのを見た。
ノトス門前戦では、目の前の穴を埋めるために走った。
今は違う。
大きな軍が、崩れずに川を越えている。
*
旧ハルヴァ砦の奥には、大きな灰色の塊があった。
そこから細い煙が上がっている。
戦の煙ではない。
たぶん、粥か何かを炊く煙だ。
荷車も見える。
布のようなものも見える。
人の列らしきものも見える。
遠目には、兵の集団にも見えた。
でも、川沿いの塊とは違う。
槍の先も少ない。
動きも鈍い。
「あれも灰衣なのかな」
僕が言うと、ノエルが目を細めた。
「旗はあります。ですが、戦列には見えません」
「じゃあ、何?」
「分かりません。近づかなければ」
近づかなければ分からない。
その通りだった。
今見えているものは、大きな灰色の塊でしかない。
炊き出しの煙も、荷車も、人の列も、遠くからでは意味を持たない。
ただ、そこにいるのは槍を持つ者だけではない。
それだけは分かった。
それでも、川沿いの灰衣勢の塊は槍を持っている。
石を投げ、矢を射て、こちらの兵を止めようとしている。
ならば、そこは敵だ。
その線だけは、今も変わらなかった。
*
ピリムは、歯を噛んだ。
橋を落としても、止まらない。
矢を浴びせても、崩れない。
一度下がった列が、また前へ出る。
あれは、ヴェルカの衛兵隊ではない。
あの時の討伐隊は、森に入れば見えなくなった。
見えなくなれば叫んだ。
叫べば矢が集まった。
隊ごとの旗はあっても、全軍としての息はなかった。
だが、今の相手は違う。
前に出る兵がいる。
その兵を守る矢がある。
矢が止まる前に、次の列が水へ入る。
川で詰まりかければ、後ろが止まる。
止まった列へ、また矢がかぶさる。
つまらないほど、堅い。
ピリムはそう思った。
「左を押せ! 水から出る前に押し返せ!」
怒鳴る。
灰色の布を巻いた者たちが動く。
だが、動きは遅い。
動き出した者の半分は、矢を嫌って腰が引けている。
残りは、怒りで前へ出すぎる。
統制など、最初から期待していない。
ただ、もう少し時間は稼げると思っていた。
川の向こうで、淡い青色の旗が立ち上がった。
ピリムは、顔をしかめた。
*
ルミナ沿海伯家軍の左翼が、対岸で踏みとどまった。
そこへ、中央の部隊が続いた。
斉射の音が変わる。
それまで同じ場所へ落ちていた矢が、少し左右へ広がる。
寄子軍の弓兵が、射線を変えている。
ロドリック軍務長の指揮所から、また伝令が走った。
「中央、渡河。左翼と離すな」
太鼓が鳴る。
ルミナ沿海伯家軍の旗がもう一つ、川へ向かって動く。
中央の部隊だ。
灰衣側の塊が揺れた。
左翼を押すべきか。
中央を止めるべきか。
その迷いが、ここからでも分かった。
正規の軍なら、そこで命令が飛ぶのだろう。
だが、灰衣側の動きは乱れた。
叫ぶ者が前へ出て、別の者が下がる。
川沿いへ寄ろうとした一団が、味方同士でぶつかっている。
「崩れた?」
僕が聞くと、ガレスは首を横に振った。
「まだだ。だが、形は乱れた」
「形……」
「戦は、人が多いだけでは形にならん」
ガレスは短く言った。
僕は、川の向こうを見た。
ルミナ沿海伯家軍の旗が、もう一本立つ。
水から上がった兵たちが、盾を並べる。
その後ろへ、まだ濡れた兵が続く。
川の向こうに、足場ができていく。
落とされた橋の先に、道が作られていく。
*
「寄子軍、渡河支援を前へ」
伝令の声が、こちらの高所まで届いた。
寄子軍の旗が動いた。
それまで弓を構え、側面を保っていた寄子軍の一部が、列を変える。
弓兵は射線をずらし、槍を持つ兵が前へ出る。
川へ向かう道が空けられ、荷車と予備の兵が後ろへ下がる。
寄子軍が、水へ近づいていく。
ルミナ沿海伯家軍の旗が、川の向こうに立っている。
それを見て、寄子軍の旗も動き始める。
主家が足場を作り、寄子がそこへ続く。
大きな軍が、川を越え始めていた。
ブルーノが、つまらなそうに大棍棒を担ぎ直す。
「で、俺らは?」
「まだ待つ」
「またかよ」
「まただよ」
僕がそう言うと、ブルーノは大きく息を吐いた。
けれど、やっぱり動かなかった。
僕らは、まだ高所の荷車のそばにいた。
橋は落とされていた。
けれど、川はもう、こちらと向こうを分ける壁ではなくなり始めていた。
旧ハルヴァ砦は、まだ遠い。
砦の奥には、大きな灰色の塊がある。
川沿いでは、灰衣勢がまだ槍を構えている。
それでも、ルミナ沿海伯家軍の旗は向こう岸に立った。
寄子軍の旗も、水へ入っていく。
落とされた橋の先に、道が作られていく。
戦は、ようやく川を越え始めた。




