第35話 集まる旗
ノトスの門を背にして、僕らは北東へ向かった。
門前には、まだ戦のあとが残っている。
捕虜の列。積まれた武器。負傷者を運ぶ声。泥に沈んだ白い椀の旗。
けれど、そこに留まり続けることはできなかった。
ノトスの門は開いた。
開いた以上、その先を見なければならない。
ヴェルナー子爵家軍の旗が、街道の前で揺れている。
僕らはその後ろの方についた。
荷車二台。歩ける負傷者。担架が必要な者。水袋。替えの布。拾って直した折れた槍。
進みは速くない。
速くできる隊でもない。
それでも一歩前に足を踏み出していた。
*
「車輪、少し右に寄せてください。そこの轍は深いです」
ノエルが荷車の横で、注意を促すように声を出した。
大きな声ではない。けれど、必要なところには届く声だった。
ニルスが水袋を抱えて走り、カインは捕虜の列からこちらへ近づく者がいないかを、まだ気にしている。
ガレスは列の前後を見て、ブルーノは大棍棒を肩に乗せたまま、退屈そうに歩いていた。
「なあ、アズール」
「どうしたの?」
「今日は殴れる日かあ?」
「物騒なこと言わないで……」
「つまんねえな」
「昨日、十分やったでしょ」
「そうでもねえよ」
そう言いながらも、ブルーノは無駄に前へ出ない。
それでいい。
今、僕らがするべきことは、前に出ることではなかった。
街道の脇には、ところどころに灰衣の痕跡が残っていた。
折れた杭。
白い布の切れ端。
灰になった粥釜の跡。
踏み荒らされた荷置き場。
荷車を引いた轍。
人はいない。
声もない。
けれど、そこに何かがいたことは分かる。
粥を炊いていた者がいた。
荷を集めた者がいた。
白い椀の旗を立てた者がいた。
そして、今はもういない。
「逃げ散った感じじゃないな」
エルヴィンが、轍を見ながら言った。
「分かるの?」
「ばらばらなら、もっと乱れるはずだ。これは、荷を引いて同じ方へ向かっている」
エルヴィンは東を見た。
「退いたんだろう。集まるために」
僕は、その先を見た。
街道はノトスを離れ、少しずつ低い湿地の方へ近づいている。
遠くには、葦原の影が見えた。
灰衣は、消えたわけではない。
ただ、見えないところへ動いただけだ。
それでも、今の僕にできることはなかった。
僕が見るべきなのは、足元の荷車で、うちの負傷者で、まだ歩ける仲間たちだった。
*
ノトス北東の集結地点に着いた時、空気は門前とは違っていた。
そこは、街道が広がる少し高い場所だった。
北へ伸びる道。東へ向かう道。旧ハルヴァ砦へ続く道。
道の脇には杭が打たれ、縄が張られ、到着した部隊の行き先が分けられている。
旗があった。
一本ではない。
二本でもない。
ルミナ沿海伯家の旗。
すでに着いていた寄子軍の旗。
水場を押さえる小隊の旗。
荷置き場を示す布。
馬をつなぐ場所の目印。
兵の声が重なっている。
家名を呼ぶ声。人数を数える声。荷車をどけろと怒鳴る声。水を先に馬へやるなと叱る声。
戦場ではない。
まだ、誰も刃を交えていない。
けれど、ここにはもう、戦が始まる前の匂いがあった。
「すごい数だね」
僕が思わず言うと、ガレスが短く返した。
「まだ一部だろう」
「これで?」
「沿海伯家が本腰を入れるなら、この程度では済まん」
僕は、もう一度旗を見た。
僕らがこれまで見てきた戦は、目の前で崩れる戦や、門の前で押し合う戦だった。
ここにあるのは、もっと大きい。
人を集めるための人。馬を置くための場所。水を分けるための列。旗を立てる順番。
戦う前から、もう軍は動いている。
「ヴェルナー子爵家軍!」
係の兵が声を張った。
「こちらへ。旗は第二列東寄り。荷は後方へ。重傷者がいるなら先に申告を」
ヴェルナー子爵家軍の士官が応じる。
その後ろで、僕らの番も来た。
「エスター男爵家分遣隊」
ノエルが、証文と帳面を抱えて前へ出た。
僕も横につく。
係の書記らしい男が、こちらをちらりと見た。
「エスター男爵家分遣隊。ヴェルナー子爵家軍預かりでよいか」
「はい」
「負傷者」
「歩ける者六名。担架が必要な者二名です」
「荷車」
「二台。どちらも動きます」
「動ける兵」
ノエルが一瞬、僕を見る。
ガレスが答えた。
「三十に少し足りません。疲労と負傷者を除けば、すぐ動けるのは二十前後です」
書記はうなずき、木札に何かを書いた。
「荷車は第三列後方。水場は南側を使え。呼ばれるまでは前へ出るな。負傷者を動かす時は、先遣隊の係に申告すること」
「承知しました」
それで終わりだった。
褒められるわけではない。
ノトスでどう動いたかを聞かれるわけでもない。
僕らは、名簿の中に置かれた。
周りには、数百の軍勢がいくつもいた。
千を超えていそうなまとまりもある。
僕らは三十に届かない。
荷車二台と、負傷者を抱えた三十だった。
「兄上、荷車はあちらです」
「うん」
僕らは、指定された場所へ動いた。
大きな旗の端に、僕らの荷車二台分の場所があった。
*
寄子軍は、次々と集まってきた。
旗だけを見れば、どの家も立派だった。
けれど、その下にいる兵たちの顔は同じではない。
鎧の磨かれた隊もあれば、古い槍を担いだ隊もある。
足並みの揃った隊もあれば、荷車の列だけはやけに整っている隊もあった。
旗は立派だが、兵の顔に疲れが出ている家。
兵の数は少ないが、弓兵の割合が多い家。
水場の場所を真っ先に確認する係官。
手柄の話をしている若い士官。
捕虜の列の話を聞いて、声を落とす古参兵。
「また東かよ」
近くの兵が、荷を下ろしながらぼやいた。
「あらかた大きな街は解放したんだから、終わりじゃねえのか」
「終わりなら、ここに旗は集まらねえよ」
「今度は沿海伯軍が前に出るって話だ」
その言葉に、ぼやいていた兵が少し黙った。
「本当か?」
「先遣隊の連中が言ってた。旧砦の正面は主家が受けるってさ」
僕は、そのやり取りを聞いていた。
寄子軍は、ただ命じられて来ているだけではない。
それぞれの家が、兵を出している。荷を出している。自分たちの村や道を空けて、ここへ来ている。
だから疲れている。
だから不満もある。
それでも旗は集まっている。
ルミナ沿海伯家の旗の下へ。
「アズール」
ガレスが、少し離れたところを顎で示した。
そこに、ほかの兵より明らかに多くの視線を集めている一団があった。
派手な鎧ではない。
むしろ、装いは堅く、余計な飾りは少ない。
ただ、その周りだけ、人の流れが早かった。
報告を持った兵が来る。木札を持った書記が来る。寄子軍の士官が来る。斥候が来る。
「あれが?」
「ロドリック・サヴェルヌ軍務長だろう」
名前は聞いたことがあった。
ルミナ沿海伯家の軍務を預かる男。
港都で衛兵をやっていた時にも、その名だけは遠くにあった。
けれど、こうして軍の中で見るのは初めてだ。
ロドリック軍務長は、大声で怒鳴っているわけではなかった。
奇抜なことを言っているようにも見えない。
ただ、次々に来る報告を受け、短く返している。
「水場は先に押さえろ。馬と兵を分けるな」
「左翼のノイエール子爵家軍は構え。前へ出すのは弓だけでよい」
「ヴェルナー子爵家軍は南側の備えに置け。ノトスから来たばかりだ。軽く動かすな」
「主攻は、沿海伯家軍が担う。寄子軍は渡河支援と側面保持に回せ」
その言葉が聞こえた時、近くにいた寄子軍の兵たちが、少し顔を上げた。
主攻は沿海伯家軍。
それは、ただの配置の話ではないのだと、僕にも分かった。
ここまで寄子には出させた。
なら、旧砦の正面は主家が受ける。
そういう意味が、言葉の奥にある。
「無難だな」
エルヴィンが言った。
「悪い意味?」
「いや。良い意味だ。無茶に寄子を投げない。水と荷を先に見る。橋を見る。普通にやるべきことをやってる」
普通にやるべきこと。
僕は、ロドリック軍務長の周りを見た。
大きな旗は、ただ集まれば軍になるわけではない。
誰かが置かなければならない。
水も、荷も、兵も、旗も。
港都にいたころ、ロドリック・サヴェルヌ軍務長は、やたら細かく、口うるさい人だと聞いたことがある。
けれど、今見ているロドリック軍務長は、ただ無駄を嫌う人なのだと思った。
*
午後に入り、旧ハルヴァ砦の名が、何度も聞こえるようになった。
斥候が戻るたび、書記が木札を動かし、先遣隊の士官が地図の上に石を置く。
僕らはその輪の外にいて、すべてが聞こえないわけではない。
「斥候の報告通り、既に旧ハルヴァ砦に灰衣が入っています」
「数は」
「まだ固まっておりません。ですが、砦奥へ荷車が入っています」
「荷か」
「粥釜、布、負傷者らしき者も。戦えぬ者も混じっているようです」
粥釜。
布。
負傷者。
その言葉だけで、ノトスへ来る途中に見た空の粥場を思い出した。
灰衣は、戦う者だけを集めているわけではない。
飯を炊く者も、荷を引く者も、動けない者も、旧砦へ入れている。
何も思わないわけではない。
でも、彼らが武器を持ってこちらへ来るなら、敵として止める。
それは変わらない。
けれど、砦の中にあるのは、剣と槍だけではないのだろう。
そのくらいは分かる。
旧ハルヴァ砦へ向かう道は、途中で川を越える。
こちら側から見て手前の橋と、砦に近い奥側の橋。
斥候の報告では、どちらもまだ落ちていない。
「川沿いには、武装の厚い連中が出ています」
別の斥候が報告する。
「手前の橋は、まだ健在。奥側の橋も残っています。ただ、渡河しやすい場所には見張りが出ています」
「橋か……」
先遣隊の士官が、少し眉を動かした。
「ただ逃げ込んだわけではなさそうだな」
エルヴィンが小さく言った。
「どういうこと?」
「砦を守るだけなら、普通は橋だけを気にするところだ。だが向こうは、こっちがどこから川を渡るかも見ている」
「灰衣が?」
「灰衣全部が、ではないだろうな」
エルヴィンは、川の方角を見る。
「誰か、戦の形を知ってるやつがいる」
その言葉に、僕は少しだけ嫌な感じを覚えた。
黒棘の森で感じたような、見えない場所から道を狭められていく感じ。
ただの思い過ごしかもしれない。
けれど、灰衣の中に、野盗や逃亡兵や、戦を知る者が混ざっていてもおかしくはない。
灰衣は一つではない。
ノトス門前で見たように、顔も、目も、立ち方も違っていた。
旧ハルヴァ砦へ集まっているものも、きっと一つではないのだろう。
*
夕方に近づくころ、集結地点の旗はさらに増えていた。
ルミナ沿海伯軍の旗。
先着した寄子軍の旗。
遅れて入ってきた小貴族の旗。
ヴェルナー子爵家軍の旗。
そして、その端に、僕らの荷車二台。
前方では、沿海伯家軍の一部が川の方へ動き始めていた。
主攻を担う隊だろう。
寄子軍はその左右に置かれ、弓を持つ者たちが矢筒を確認している。
ヴェルナー子爵家軍は、前へは出なかった。
大きな旗を立てたまま、南側に構えている。
アズール隊は、そのさらに後ろだった。
「動かないんだね」
僕がつぶやくと、ガレスが答えた。
「いざ動くときのために残されている」
「前に出ないのに?」
「前に出れば、もう予備ではない。崩れた時に入る者がいなくなる」
エルヴィンも言った。
「強い隊ほど、今すぐ動かさないこともある。橋がある戦場なら、なおさらだ」
僕は、ヴェルナー子爵家軍の旗を見た。
前に出ることだけが、戦うことではない。
構えていることにも、意味がある。
それを、僕はまだうまく飲み込めていなかった。
「じゃあ、俺は?」
ブルーノが聞いた。
「まだ待って」
「またかよ」
「まただよ」
ブルーノは、ひどく不満そうな顔をした。
けれど、動かない。
大きな戦の中で、僕らは見る側だった。
少なくとも、今は。
その時だった。
川の方から、低い音が響いた。
木が裂けるような音。
石が崩れるような音。
それから、遅れて人の声が広がる。
集結地点の空気が変わった。
前方から馬が戻ってくる。
乗っていた斥候は、息を切らして飛び降りた。
「手前の橋が落とされました!」
声が走った。
手前の橋。
ついさっきまで、こちらが渡る道として数えられていた橋だ。
「奥側は」
ロドリックの声が飛ぶ。
「健在です。見張りあり。灰衣の外側部隊との連絡に使っている様子です」
ロドリックは少しだけ黙った。
それから、すぐに言う。
「渡河点を組み直す。軽率に寄るな。弓隊を前へ出すな、まず位置を洗え」
周りの兵が動き出す。
怒号ではない。
混乱でもない。
けれど、さっきまでとは明らかに空気が違った。
橋を落とされた。
それは、灰衣がただ旧砦に逃げ込んだだけではないということだった。
落とす橋を選んだ。
残す橋も選んだ。
退路を残し、こちらの道を狭めた。
僕は、川の方を見た。
旧ハルヴァ砦は、川を越えた先にある。
けれど、その向こうに集まっている灰色の気配が、少し濃くなったように思えた。
旗が集まっていた。
ルミナ沿海伯軍の旗。
寄子たちの旗。
ノトスから来た、ヴェルナー子爵家軍の旗。
その端に、僕らの荷車二台が置かれている。
向こう側では、灰衣が旧ハルヴァ砦へ集まり直していた。
まだ戦は始まっていない。
けれど、川にかかっていた手前の橋は、落とされた。
こちらには、ルミナ沿海伯軍の旗が集まっている。
寄子たちの旗が集まっている。
ノトスから来たヴェルナー子爵家軍の旗もある。
その端に、僕らの荷車二台が置かれている。
そして向こう側では、灰衣が旧ハルヴァ砦へ集まり直していた。
集まっているのは、こちらだけではなかった。




