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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第35話 集まる旗


 ノトスの門を背にして、僕らは北東へ向かった。


 門前には、まだ戦のあとが残っている。

 捕虜の列。積まれた武器。負傷者を運ぶ声。泥に沈んだ白い椀の旗。

 けれど、そこに留まり続けることはできなかった。


 ノトスの門は開いた。

 開いた以上、その先を見なければならない。


 ヴェルナー子爵家軍の旗が、街道の前で揺れている。

 僕らはその後ろの方についた。

 荷車二台。歩ける負傷者。担架が必要な者。水袋。替えの布。拾って直した折れた槍。


 進みは速くない。

 速くできる隊でもない。

 それでも一歩前に足を踏み出していた。



「車輪、少し右に寄せてください。そこの轍は深いです」


 ノエルが荷車の横で、注意を促すように声を出した。

 大きな声ではない。けれど、必要なところには届く声だった。


 ニルスが水袋を抱えて走り、カインは捕虜の列からこちらへ近づく者がいないかを、まだ気にしている。

 ガレスは列の前後を見て、ブルーノは大棍棒を肩に乗せたまま、退屈そうに歩いていた。


「なあ、アズール」


「どうしたの?」


「今日は殴れる日かあ?」


「物騒なこと言わないで……」


「つまんねえな」


「昨日、十分やったでしょ」


「そうでもねえよ」


 そう言いながらも、ブルーノは無駄に前へ出ない。

 それでいい。

 今、僕らがするべきことは、前に出ることではなかった。


 街道の脇には、ところどころに灰衣の痕跡が残っていた。


 折れた杭。

 白い布の切れ端。

 灰になった粥釜の跡。

 踏み荒らされた荷置き場。

 荷車を引いた轍。


 人はいない。

 声もない。


 けれど、そこに何かがいたことは分かる。

 粥を炊いていた者がいた。

 荷を集めた者がいた。

 白い椀の旗を立てた者がいた。


 そして、今はもういない。


「逃げ散った感じじゃないな」


 エルヴィンが、轍を見ながら言った。


「分かるの?」


「ばらばらなら、もっと乱れるはずだ。これは、荷を引いて同じ方へ向かっている」


 エルヴィンは東を見た。


「退いたんだろう。集まるために」


 僕は、その先を見た。

 街道はノトスを離れ、少しずつ低い湿地の方へ近づいている。

 遠くには、葦原の影が見えた。


 灰衣は、消えたわけではない。

 ただ、見えないところへ動いただけだ。


 それでも、今の僕にできることはなかった。

 僕が見るべきなのは、足元の荷車で、うちの負傷者で、まだ歩ける仲間たちだった。



 ノトス北東の集結地点に着いた時、空気は門前とは違っていた。


 そこは、街道が広がる少し高い場所だった。

 北へ伸びる道。東へ向かう道。旧ハルヴァ砦へ続く道。

 道の脇には杭が打たれ、縄が張られ、到着した部隊の行き先が分けられている。


 旗があった。


 一本ではない。

 二本でもない。


 ルミナ沿海伯家の旗。

 すでに着いていた寄子軍の旗。

 水場を押さえる小隊の旗。

 荷置き場を示す布。

 馬をつなぐ場所の目印。


 兵の声が重なっている。

 家名を呼ぶ声。人数を数える声。荷車をどけろと怒鳴る声。水を先に馬へやるなと叱る声。


 戦場ではない。

 まだ、誰も刃を交えていない。


 けれど、ここにはもう、戦が始まる前の匂いがあった。


「すごい数だね」


 僕が思わず言うと、ガレスが短く返した。


「まだ一部だろう」


「これで?」


「沿海伯家が本腰を入れるなら、この程度では済まん」


 僕は、もう一度旗を見た。


 僕らがこれまで見てきた戦は、目の前で崩れる戦や、門の前で押し合う戦だった。

 ここにあるのは、もっと大きい。

 人を集めるための人。馬を置くための場所。水を分けるための列。旗を立てる順番。


 戦う前から、もう軍は動いている。


「ヴェルナー子爵家軍!」


 係の兵が声を張った。


「こちらへ。旗は第二列東寄り。荷は後方へ。重傷者がいるなら先に申告を」


 ヴェルナー子爵家軍の士官が応じる。

 その後ろで、僕らの番も来た。


「エスター男爵家分遣隊」


 ノエルが、証文と帳面を抱えて前へ出た。

 僕も横につく。


 係の書記らしい男が、こちらをちらりと見た。


「エスター男爵家分遣隊。ヴェルナー子爵家軍預かりでよいか」


「はい」


「負傷者」


「歩ける者六名。担架が必要な者二名です」


「荷車」


「二台。どちらも動きます」


「動ける兵」


 ノエルが一瞬、僕を見る。

 ガレスが答えた。


「三十に少し足りません。疲労と負傷者を除けば、すぐ動けるのは二十前後です」


 書記はうなずき、木札に何かを書いた。


「荷車は第三列後方。水場は南側を使え。呼ばれるまでは前へ出るな。負傷者を動かす時は、先遣隊の係に申告すること」


「承知しました」


 それで終わりだった。


 褒められるわけではない。

 ノトスでどう動いたかを聞かれるわけでもない。


 僕らは、名簿の中に置かれた。


 周りには、数百の軍勢がいくつもいた。

 千を超えていそうなまとまりもある。


 僕らは三十に届かない。

 荷車二台と、負傷者を抱えた三十だった。


「兄上、荷車はあちらです」


「うん」


 僕らは、指定された場所へ動いた。

 大きな旗の端に、僕らの荷車二台分の場所があった。



 寄子軍は、次々と集まってきた。


 旗だけを見れば、どの家も立派だった。

 けれど、その下にいる兵たちの顔は同じではない。


 鎧の磨かれた隊もあれば、古い槍を担いだ隊もある。

 足並みの揃った隊もあれば、荷車の列だけはやけに整っている隊もあった。


 旗は立派だが、兵の顔に疲れが出ている家。

 兵の数は少ないが、弓兵の割合が多い家。

 水場の場所を真っ先に確認する係官。

 手柄の話をしている若い士官。

 捕虜の列の話を聞いて、声を落とす古参兵。


「また東かよ」


 近くの兵が、荷を下ろしながらぼやいた。


「あらかた大きな街は解放したんだから、終わりじゃねえのか」


「終わりなら、ここに旗は集まらねえよ」


「今度は沿海伯軍が前に出るって話だ」


 その言葉に、ぼやいていた兵が少し黙った。


「本当か?」


「先遣隊の連中が言ってた。旧砦の正面は主家が受けるってさ」


 僕は、そのやり取りを聞いていた。


 寄子軍は、ただ命じられて来ているだけではない。

 それぞれの家が、兵を出している。荷を出している。自分たちの村や道を空けて、ここへ来ている。


 だから疲れている。

 だから不満もある。


 それでも旗は集まっている。


 ルミナ沿海伯家の旗の下へ。


「アズール」


 ガレスが、少し離れたところを顎で示した。


 そこに、ほかの兵より明らかに多くの視線を集めている一団があった。

 派手な鎧ではない。

 むしろ、装いは堅く、余計な飾りは少ない。


 ただ、その周りだけ、人の流れが早かった。

 報告を持った兵が来る。木札を持った書記が来る。寄子軍の士官が来る。斥候が来る。


「あれが?」


「ロドリック・サヴェルヌ軍務長だろう」


 名前は聞いたことがあった。

 ルミナ沿海伯家の軍務を預かる男。


 港都で衛兵をやっていた時にも、その名だけは遠くにあった。

 けれど、こうして軍の中で見るのは初めてだ。


 ロドリック軍務長は、大声で怒鳴っているわけではなかった。

 奇抜なことを言っているようにも見えない。


 ただ、次々に来る報告を受け、短く返している。


「水場は先に押さえろ。馬と兵を分けるな」


「左翼のノイエール子爵家軍は構え。前へ出すのは弓だけでよい」


「ヴェルナー子爵家軍は南側の備えに置け。ノトスから来たばかりだ。軽く動かすな」


「主攻は、沿海伯家軍が担う。寄子軍は渡河支援と側面保持に回せ」


 その言葉が聞こえた時、近くにいた寄子軍の兵たちが、少し顔を上げた。


 主攻は沿海伯家軍。


 それは、ただの配置の話ではないのだと、僕にも分かった。


 ここまで寄子には出させた。

 なら、旧砦の正面は主家が受ける。


 そういう意味が、言葉の奥にある。


「無難だな」


 エルヴィンが言った。


「悪い意味?」


「いや。良い意味だ。無茶に寄子を投げない。水と荷を先に見る。橋を見る。普通にやるべきことをやってる」


 普通にやるべきこと。


 僕は、ロドリック軍務長の周りを見た。

 大きな旗は、ただ集まれば軍になるわけではない。

 誰かが置かなければならない。

 水も、荷も、兵も、旗も。


 港都にいたころ、ロドリック・サヴェルヌ軍務長は、やたら細かく、口うるさい人だと聞いたことがある。

 けれど、今見ているロドリック軍務長は、ただ無駄を嫌う人なのだと思った。



 午後に入り、旧ハルヴァ砦の名が、何度も聞こえるようになった。


 斥候が戻るたび、書記が木札を動かし、先遣隊の士官が地図の上に石を置く。

 僕らはその輪の外にいて、すべてが聞こえないわけではない。


「斥候の報告通り、既に旧ハルヴァ砦に灰衣が入っています」


「数は」


「まだ固まっておりません。ですが、砦奥へ荷車が入っています」


「荷か」


「粥釜、布、負傷者らしき者も。戦えぬ者も混じっているようです」


 粥釜。

 布。

 負傷者。


 その言葉だけで、ノトスへ来る途中に見た空の粥場を思い出した。


 灰衣は、戦う者だけを集めているわけではない。

 飯を炊く者も、荷を引く者も、動けない者も、旧砦へ入れている。


 何も思わないわけではない。


 でも、彼らが武器を持ってこちらへ来るなら、敵として止める。

 それは変わらない。


 けれど、砦の中にあるのは、剣と槍だけではないのだろう。

 そのくらいは分かる。


 旧ハルヴァ砦へ向かう道は、途中で川を越える。

 こちら側から見て手前の橋と、砦に近い奥側の橋。

 斥候の報告では、どちらもまだ落ちていない。


「川沿いには、武装の厚い連中が出ています」


 別の斥候が報告する。


「手前の橋は、まだ健在。奥側の橋も残っています。ただ、渡河しやすい場所には見張りが出ています」


「橋か……」


 先遣隊の士官が、少し眉を動かした。


「ただ逃げ込んだわけではなさそうだな」


 エルヴィンが小さく言った。


「どういうこと?」


「砦を守るだけなら、普通は橋だけを気にするところだ。だが向こうは、こっちがどこから川を渡るかも見ている」


「灰衣が?」


「灰衣全部が、ではないだろうな」


 エルヴィンは、川の方角を見る。


「誰か、戦の形を知ってるやつがいる」


 その言葉に、僕は少しだけ嫌な感じを覚えた。


 黒棘の森で感じたような、見えない場所から道を狭められていく感じ。

 ただの思い過ごしかもしれない。

 けれど、灰衣の中に、野盗や逃亡兵や、戦を知る者が混ざっていてもおかしくはない。


 灰衣は一つではない。

 ノトス門前で見たように、顔も、目も、立ち方も違っていた。


 旧ハルヴァ砦へ集まっているものも、きっと一つではないのだろう。



 夕方に近づくころ、集結地点の旗はさらに増えていた。


 ルミナ沿海伯軍の旗。

 先着した寄子軍の旗。

 遅れて入ってきた小貴族の旗。

 ヴェルナー子爵家軍の旗。


 そして、その端に、僕らの荷車二台。


 前方では、沿海伯家軍の一部が川の方へ動き始めていた。

 主攻を担う隊だろう。

 寄子軍はその左右に置かれ、弓を持つ者たちが矢筒を確認している。


 ヴェルナー子爵家軍は、前へは出なかった。

 大きな旗を立てたまま、南側に構えている。


 アズール隊は、そのさらに後ろだった。


「動かないんだね」


 僕がつぶやくと、ガレスが答えた。


「いざ動くときのために残されている」


「前に出ないのに?」


「前に出れば、もう予備ではない。崩れた時に入る者がいなくなる」


 エルヴィンも言った。


「強い隊ほど、今すぐ動かさないこともある。橋がある戦場なら、なおさらだ」


 僕は、ヴェルナー子爵家軍の旗を見た。


 前に出ることだけが、戦うことではない。

 構えていることにも、意味がある。


 それを、僕はまだうまく飲み込めていなかった。


「じゃあ、俺は?」


 ブルーノが聞いた。


「まだ待って」


「またかよ」


「まただよ」


 ブルーノは、ひどく不満そうな顔をした。

 けれど、動かない。


 大きな戦の中で、僕らは見る側だった。

 少なくとも、今は。


 その時だった。


 川の方から、低い音が響いた。


 木が裂けるような音。

 石が崩れるような音。

 それから、遅れて人の声が広がる。


 集結地点の空気が変わった。


 前方から馬が戻ってくる。

 乗っていた斥候は、息を切らして飛び降りた。


「手前の橋が落とされました!」


 声が走った。


 手前の橋。

 ついさっきまで、こちらが渡る道として数えられていた橋だ。


「奥側は」


 ロドリックの声が飛ぶ。


「健在です。見張りあり。灰衣の外側部隊との連絡に使っている様子です」


 ロドリックは少しだけ黙った。

 それから、すぐに言う。


「渡河点を組み直す。軽率に寄るな。弓隊を前へ出すな、まず位置を洗え」


 周りの兵が動き出す。

 怒号ではない。

 混乱でもない。

 けれど、さっきまでとは明らかに空気が違った。


 橋を落とされた。


 それは、灰衣がただ旧砦に逃げ込んだだけではないということだった。


 落とす橋を選んだ。

 残す橋も選んだ。


 退路を残し、こちらの道を狭めた。


 僕は、川の方を見た。

 旧ハルヴァ砦は、川を越えた先にある。

 けれど、その向こうに集まっている灰色の気配が、少し濃くなったように思えた。


 旗が集まっていた。


 ルミナ沿海伯軍の旗。

 寄子たちの旗。

 ノトスから来た、ヴェルナー子爵家軍の旗。


 その端に、僕らの荷車二台が置かれている。

 向こう側では、灰衣が旧ハルヴァ砦へ集まり直していた。


 まだ戦は始まっていない。


 けれど、川にかかっていた手前の橋は、落とされた。


 こちらには、ルミナ沿海伯軍の旗が集まっている。

 寄子たちの旗が集まっている。

 ノトスから来たヴェルナー子爵家軍の旗もある。


 その端に、僕らの荷車二台が置かれている。

 そして向こう側では、灰衣が旧ハルヴァ砦へ集まり直していた。


 集まっているのは、こちらだけではなかった。


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