第34話 門のあと
銅鑼の音は、もう止んでいた。
少し前まで腹の底を叩いていた低い響きが消えると、ノトスの門前には、別の音が残った。
泥を踏む音。武器を集める音。負傷者を運ぶ兵たちの短い掛け声。縄を引く音。
それから、どこかで誰かが泣いている声。
白い椀の旗が、ぬかるんだ地面に倒れている。
灰色の布に描かれた白い椀は、泥で半分ほど汚れていた。
僕は、その旗を少しだけ見てから、門の前に積まれていく武器へ目を移す。
槍。
鎌。
刃の欠けた剣。
木の棒。
鍬の先に布を巻いたもの。
武器と呼ぶには粗いものもある。
けれど、人を傷つけるには十分だった。
「そこへ置け。刃をこちらに向けるな」
ヴェルナー子爵家軍本隊の兵が怒鳴る。
灰衣の男が手にしていた槍を落とすと、別の兵がそれを蹴って武器の山へ寄せた。
戦は終わった。
少なくとも、ノトスの門前では。
けれど、終わったあとに残るものは、思っていたよりずっと多い。
「アズール様、こちらへ寄りすぎませんように」
カインが、僕の横で低く言った。
僕の一歩前に出られる位置に、ずっと立っている。
「うん。分かってる」
捕虜の列は、門の外側で作られていた。
前で槍を振るっていた者たちは、すでに縄をかけられ、膝をつかされている。
後ろの方にいた者たちは、まだ集められているところだ。
同じ灰衣をまとっている。
同じ白い椀の旗の下にいた。
けれど、顔つきは同じではなかった。
前で戦っていた者たちは、まだ目が戦場に残っている。
縛られても、こちらを睨み、歯を食いしばり、隙があれば跳ねそうな顔をしていた。
一方で、後ろにいた者たちは、少し違う。
もちろん、全員が怯えているわけではない。
中には睨み返す者もいた。
ただ、泣いている者もいる。膝から力が抜けたように座り込む者もいる。手に持った棒をどこへ置けばよいのか分からず、守備兵に怒鳴られてから慌てて放す者もいた。
「前で暴れた連中は分けろ。後ろの者と混ぜるな」
ノトス衛兵隊の係官らしい男が、短く命じていた。
それだけだった。
なぜ混ぜてはいけないのか、長い説明はない。
けれど、その場にいる兵たちは、それで十分分かるらしい。
前の列を押さえる兵は、縄の締め方も、立つ位置も違っていた。
ノトスは、ルミナ沿海伯領の街だ。
ヴェルナー子爵家の兵は、この街と街道を守るために入っている有力な寄子軍であって、ノトスそのものを治める家ではないはずだ。
門前の後始末は、ノトスの衛兵隊を中心として、ヴェルナー子爵家から回された一部の係の者たちが進めている。
僕らは、エスター家から出された預かりの分遣隊にすぎない。
ここで勝手に口を出しすぎる場所ではなかった。
「兄上」
後ろからノエルが声をかけてきた。
帳面を抱えている。けれど、捕虜の列へ近づく気配はない。ノエルは、僕らの荷車と負傷者を下げた場所の間に立っていた。
「うちの負傷者は、歩ける者が六名。担架が必要な者が二名です。荷車二台は、どちらも動きます」
「動かせそう?」
「はい。ただ、門前に出すと邪魔になります。今は少し後ろに置いた方がよさそうです」
「分かった。そうしよう」
ノエルはうなずき、すぐに荷車の方へ戻ろうとした。
その途中で、ふと捕虜の列を見る。
「……あちらは、だいぶ詰まっていますね」
「捕虜の列?」
「はい。ただ、何か言える立場ではありません」
ノエルはそう言って、自分で線を引いた。
「僕たちが見るのは、うちの荷車と負傷者です」
「うん。それでいい」
ノエルは少し安心したように息を吐き、荷車へ戻っていった。
たぶん、気づいていることは他にもあるのだろう。けれど、それを全部言えば、僕らが出すぎることになる。
「まあ、こっちが口を出す場じゃねえよな」
ブルーノが大棍棒を肩に乗せたまま言った。
息はだいぶ整ってきているが、まだ戦場の顔をしている。
「うん」
「でも、前の連中と後ろの連中、やっぱ違うな」
「目?」
「ああ。前のは、こっちを殺す目だった。後ろのは、なんだろうな。逃げ場所を探してるやつも混ざってる」
ガレスが、捕虜の列を見たまま言う。
「だが、武器を持って戦場に立ったことに違いはない」
「分かってらぁよ」
「なら、敵だ」
「だから面倒なんだろ」
ブルーノはそう言って、鼻を鳴らした。
怒っているというより、片づかないものを見ている顔だった。
僕は、門前に積まれていく武器を見た。
事情はあるのかもしれない。
村から出された者もいるのかもしれない。
粥を求めて白い椀の旗の下へ行った者もいるのかもしれない。
槍を持てと言われて持っただけの者も、きっと混ざっている。
でも、槍を持って門へ押し寄せた時点で、僕らにとっては敵だった。
ガレスやブルーノや、ノエルやカインや、僕の後ろにいる者たちへ刃を向けるなら、止めるしかない。
必要なら、戦う。そこは迷わない。
考えるとすれば、もっと前のことだ。
白い椀の下に集まった者たちが、槍を握って門へ向かう前に、どこかで止める手はなかったのか。
ただ、それは今ここで答えの出ることではない。
「違う、俺は前じゃない。粥場にいただけだ」
捕虜の列の中から、そんな声が漏れた。
「槍は渡されただけだ。持てって言われたんだ」
「黙って歩け」
守備兵が短く言う。
別の係官がその男を見て、前列ではなく後ろの武器持ちの列へ回すように命じた。
それで終わりだった。
僕は、そのやりとりを見ただけだ。
近づきはしない。声もかけない。
ただ、そういう者も混ざっているのだと思った。
それ以上は、僕が背負う話ではなかった。
「アズール隊」
呼ばれて、僕は振り返った。
ロイター隊の士官がこちらへ来ていた。
ロイターさん本人ではない。西側で灰衣の一隊を押し止めていた部隊の者だ。
「動ける人数はどの程度いる?」
「ガレス、答えられる?」
僕が見ると、ガレスがすぐに答えた。
「疲労を無視すれば、戦える者は三十に少し足りないくらいかと。負傷者を除けば、すぐ動かせるのは二十前後……」
「荷車は」
「二台。どちらも動きます。ただし、負傷者を乗せています」
「なら、門前には残らなくていい。邪魔になるしな」
士官は、淡々と言った。
「荷車は後ろへ下げて、動ける者は街道南側の見張りに回ってくれ。捕虜はノトス側とヴェルナー子爵家軍本隊で見る」
「承知しました」
「呼ばれたら動けるようにだけしておいてくれ。勝手に前へ出ることはないように。特に、そこの大きいの」
ブルーノが眉を上げた。
「あぁ?」
「門前で暴れる場所はもうない。暴れるなら、命じられてからにしろ」
士官は、それだけ言って次の隊へ向かった。
褒められたわけではない。評価されたわけでもない。
ただ、邪魔にならない場所へ回され、必要なら使われる。
今の僕らには、そのくらいがちょうどよかった。
「だとよ、アズール」
「うん。命じられるまで待って」
「またかよ」
「まただよ」
ブルーノは不満そうに言ったが、口元は少しだけ笑っていた。
僕らは荷車を下げた。
ノエルが通り道を確認し、ニルスが水袋を運び、カインが捕虜の列との間に立つ。ガレスは動ける者を数え直し、ブルーノは大棍棒を肩に乗せたまま、退屈そうに周囲を見ていた。
エルヴィンだけは、東の街道をじっと見ていた。
「どうしたの」
「静かすぎる」
「東が?」
「ああ。門前でこれだけやった後なら、逃げた連中の足音なり、村からの騒ぎなり、もう少し何かあってもいい」
エルヴィンは目を細めた。
「終わった感じがしない」
僕も、東の街道を見た。
ノトスの門は開いている。
けれど、開いた道の先が、本当に開いているのかは、まだ分からない。
ちょうどその時、東側へ出ていた斥候が戻ってきた。
馬の足元に泥が跳ねる。
乗っていた兵は、門前で飛び降りるように下りた。
「東側、荷置き場まで確認。白い椀の旗を立てていた跡あり。粥釜と灰、捨てられた布もあります」
門前にいた者たちの顔が、一斉にそちらへ向く。
「灰衣は」
ロイター隊の士官が問う。
「見えません。荷置き場にも、その先の街道筋にも、まとまった者は残っておりません」
「逃げ散ったか」
「いえ」
斥候は、少し息を整えてから続けた。
「足跡が東へ向かっています。ばらばらではなく、荷を引いた跡もあります。小さな集団が、奥へ退いたものと思われます」
それを聞いて、ロイター隊の士官が短く舌打ちした。
「集まり直す気か」
「おそらくは」
門前の空気が、少しだけ変わった。
戦が終わった後の、緩みかけていた気配が、また固くなる。
ただし、それは今すぐ別の敵が門へ押し寄せる、という固さではなかった。
もっと遠く、道の先を見なければならなくなった時の重さだった。
「街道の確認は続けろ。ただし深追いするな」
「荷置き場の灰と旗は記録しておけ」
「ヴェルナー子爵家本隊へ報告上げろ」
声が飛ぶ。
門が開いたこと自体は、間違いなく大きい。
けれど、門が開いたからこそ、道の先に残された跡も見える。
白い椀の旗。
粥釜の灰。
踏み荒らされた荷置き場。
そして、そこにもう人がいないこと。
灰衣が消えたわけではない。
たぶん、退いたのだ。
小さな塊のまま潰される前に、どこかへ集まり直している。
「兄上」
ノエルが戻ってきた。
「荷車はすぐ動かせます。ただ、負傷者を乗せたままなので、速くは進めません」
「置いていけない」
「はい。ですから、動くならゆっくりです」
「分かった」
ガレスが言う。
「街道警戒なら、前へ出す人数を絞るべきだ。荷車を守る者も残さねばならん」
「うん」
「俺は?」
ブルーノが聞いた。
「まだ待って」
「またかよ」
「まただよ」
同じ言葉を繰り返すと、ブルーノは今度こそ苦い顔をした。
けれど、動かない。それでいい。
夕方に近い光が、ノトスの門を斜めに照らしていた。
泥の上に倒れていた白い椀の旗は、いつの間にか兵の一人に拾い上げられ、武器の山の横へ寄せられている。
捕虜の列は、いくつかに分けられていた。
前で戦った者。後ろで武器を持っていた者。怪我をしている者。座り込んだまま動けない者。
灰衣と呼べば、まとめられる。でも、まとめれば見えなくなるものもあるのだろう。
そう思った。
だからといって、僕が彼らを背負うわけではない。
彼らがまた武器を持ってこちらへ来るなら、その時は敵として止める。
僕が見るべきなのは、うちの荷車で、うちの負傷者で、まだ動ける仲間たちだった。
僕は捕虜の列から目を離し、東の街道を見た。
道の近くに、灰衣の姿はない。
けれど、白い椀の跡は残っている。
門前で倒した一団だけで、灰色が消えたわけではない。
ノトスの門は開いた。
けれど、開いた道の向こうで、灰色はまだ消えていなかった。




