第33話 ノトスの門
待つ戦いは、初めてかもしれない。
ノトスの門は閉じたままだった。
防壁の上には、ルミナ沿海伯家とヴェルナー子爵家の旗が揺れている。
街は落ちていない。けれど、門が閉じているということは、街の中にいる本隊も、自由には動けないということだ。
僕たちは、ノトスから南西に伸びる街道の近くに布陣している。
前にオルステッド隊。
少し後ろにロイター隊。
僕たちアズール隊は、オルステッド隊の脇に置かれた小回りの利く予備という扱いだ。
予備。
そう言われると聞こえはいいけれど、要するに、どこかが危なくなった時に穴を埋める役目だ。
兵の数は三十ほど。
相手は千名規模。
正面からどうにかする役目ではない。
「ちょっと落ち着かないですね」
ニルスが、少し声を落として言った。
いつもならもう少し軽い調子で言うのだけれど、今日はその明るさもやや控えめだ。
「動いていないからね」
戦うとなれば怖い。
でも、何もしないまま待つのも、別の怖さがあるのを知った。
目の前で灰色の旗が揺れ、白い椀の印がこちらを向いている。銅鑼の音がときおり響き、そのたびに兵たちの肩がわずかに動いた。
白い椀。
粥を分けるための椀、なのだろう。
けれど今、その旗の下には槍が並んでいる。
ノエルは、僕の少し後ろで、荷と負傷者を置く場所を確認している。
戦いになれば、すぐに人が出る。
怪我人も出る。だから、戦う前から、ノエルは戦いの後を考えている。
「兄上」
「どうしたの?」
「荷車は少し後ろへ下げました。動線を塞がないようにしています。ただ、ここで押し込まれた場合、あまり余裕はありません」
「……うん、わかったよ」
押し込まれる。
その言葉が、妙に重く聞こえる。
ガレスは前を見ている。
エルヴィンは、灰衣勢の陣と、そこから伸びる街道を見ている。
ブルーノは大棍棒を肩に担いでいるけれど、珍しくまだ文句を言っていない。
カインは、いつものように僕の近くに黙って立っていた。
待つ。
ただ待つ。
その時間が、じわじわと兵の体から力を奪っていくようだった。
*
最初に動いたのは、灰衣勢だ。
銅鑼が大きく鳴り響く。
それまで大きな塊に見えていた灰衣勢が、ゆっくりと形を変え始めた。
「動くぞ」
ガレスが短く言う。
灰衣の前面にいた三つの部隊のうち、中央の大きな塊と、その片翼がこちらへ押し出してくる。
もう一つの部隊は、西側の街道へ回るように動いた。
乱れた群れではない。
少なくとも、前に出てきた者たちは、自分たちがどこへ向かうのか分かっているように見える。
「思ったより、まとまってるね……」
「前面だけだ」
エルヴィンが後方の灰衣勢を鋭い視線で見ている。
「後ろの一団は違う。だが、前に出てくる連中は、ただの民じゃなさそうだ」
その言葉を聞いて、僕は灰衣勢の後方に目を向けた。
後ろにいる大きなまとまりは、まだ大きく動いていない。
ただ、ノトスの方へじわりと寄っている。
突撃ではない。
けれど、門の方へ寄っている。
武器を持ってはいる。
けれど、列は整っていない。
荷車や炊き出しの煙にも近い。
ノトスを攻めてはいない。
でも、無視できない。
だから、ノトスの中の本隊は動けない。
「嫌な動きだな」
ガレスが眉を寄せた。
「戦う気が薄い者まで混ぜて、門の前に置いている」
「それだけで、子爵様んところの本隊を縛れるわけか」
ブルーノが低く唸る。
「汚ねえな」
「汚いけど、効いてる」
僕はノトスの方を見ながらそう言った。
効いている。
嫌なやり方だ……。
灰衣の後方の一団が門前へ近づけば、ノトスの門は開けにくくなる。
開ければ、そこへ人が流れ込むかもしれない。
閉じたままなら、本隊は外へ出られない。
戦わなくても、戦場を動かしている。
灰衣勢は、もうただの村の騒ぎではなかった。
オルステッド隊の方で、短い号令が飛ぶ。
槍が前へ揃う。
ロイター隊も、西側へ回ろうとする灰衣の一隊に向けて動き出した。
僕たちは、オルステッド隊の脇へ寄る。
「アズール!」
ガレスがこちらを見ながら叫ぶ。
「俺たちは穴埋めだ。前に出すぎない。崩れそうなところへ入るぞ」
「わかった!」
「ブルーノも、まだだぞ」
「ああ、分かってる」
ブルーノは不満そうに鼻を鳴らしたけれど、前には出なかった。
よし。
まだ、ここではない。
次の銅鑼が鳴った時、灰衣の前面が走り出した。
*
ぶつかった瞬間、思ったより重い、と感じた。
灰衣勢は、これまで見た灰衣たちとは違った。
もちろん全員が整った兵というわけではない。鎧もばらばらで、槍も棍棒も、短い刃物も混ざっている。けれど、前に出る者たちには迷いが少なかった。
叫びながら、押してくる。倒れても、後ろが前に出る。
それに合わせて、こちらも槍を並べ、盾を重ね、押し返す。
オルステッド隊は、さすがによく耐えている。
けれど、相手は数が多い。こちらの正面に来ているだけでも、オルステッド隊と僕たちを合わせた数よりずっと多い。
「右が薄い!」
ガレスが叫ぶ。
「そっちへ十人!」
僕が言うより早く、ガレスが兵を動かしている。
僕はそれを見て、頷く。
「ニルス、後ろに伝えて。ここはまだ保つ。でも負傷者を下げる場所を空けて」
「はい!」
ニルスが走る。
僕は前を見る。
灰衣の男が、錆びた槍を突き出してきた。
こちらの兵が盾で受け、別の兵が横から押し返す。
そこへ、さらに別の灰衣が飛び込んでくる。
荒い。
でも、弱くはない。
「アズール様、押されております」
カインが静かに言った。
「うん。分かってる」
少しずつ下がっている。
大きく崩れているわけではない。
けれど、足元の草が、最初に立っていた場所から後ろへ移っている。
「下がるな!」
オルステッド隊の誰かが叫ぶ。
下がるなと言われても、押されれば下がる。
押されながら、隊の形を崩さずにいられるかどうか。
今はそこが大事だった。
ブルーノが前へ一歩出た。
「アズール」
「まだ」
「ちっ」
「抜けそうなところが出たら、そこ」
「分かったよ」
ブルーノは唇を歪めたが、止まった。
今、ブルーノを前へ出せば、一箇所は割れるかもしれない。
でも、深く入れば戻せない。
押されている時に、こちらの楔だけが前へ出れば、周囲から食われる。
ブルーノは強い。
でも、強いからこそ、使う場所を間違えると危ない。
エルヴィンが僕の横に来た。
「まだ退ける。だが、もう少し押されると荷車に近い」
「じゃあ、そこで止めたい」
「止めるには、何か欲しいな」
「何かって?」
「向こうの圧が少し緩むか、こちらに増援が来るか」
簡単に言う。
でも、そのどちらも今はない。
その時、西側の街道から矢が飛んだ。
ロイター隊の方だ。
目を向けると、西へ回ろうとしていた灰衣の一隊が、ロイター隊に押し留められているのが見えた。
派手さはない。けれど、ロイター隊は少しずつ前へ出ている。
「ロイター隊は押してる」
僕が言うと、エルヴィンも頷いた。
「あそこが崩れなければ、まだ全体は保つ」
まだ保つ。
それだけだった。
*
ノトスの方で、門がわずかに動いた。
「門が開くぞ!」
誰かが叫んだ。
北東側の門は開けられない。
開いたのは、こちらに近い南側の門だった。
中から出てきたのは、本隊すべてではなく、百名ほどの増援だ。
彼らは、門から出るとすぐに隊列を整え、灰衣の中央へ向かった。
ヴェルナー子爵家の旗が、小さく揺れる。
「本隊から出したか」
ガレスが槍を捌きながら言った。
「全部は出せないんだ」
僕はノトスの門前へ目を向けた。
灰衣の後方の一団が、まだ門の方へ寄っている。
攻撃はしていない。けれど、武器を持った四百ほどのまとまりが近くにいるだけで、ノトスの門は大きく開けられない。
増援百名は、勢いづいた灰衣の中央へぶつかった。
一瞬、押し返したように見えた。けれど、それは本当に一瞬だった。
灰衣の中央三百は、強かった。
前へ出る者が倒れても、後ろが押す。押されるのを嫌がらない。
むしろ、損耗を承知で圧をかけているようにも見える。
百名の増援は、じりじりと押し戻された。
やがて、隊の前面が崩れかけ、門の方へ大きく下がる。
「まずいか?」
ブルーノが声を低くする。
「まだ崩れてない」
僕はそう答えた。
でも、苦しい。増援が大きく下がったことで、灰衣の中央はさらに勢いづいている。こちらの前面にも圧が増す。
「アズール、ここは一度、下げて整えた方がいい」
ガレスが叫ぶ。
「下がりすぎると荷に当たるぞ」
エルヴィンが叫び返す。
「なら、横へずらす」
「街道から外れる。足場が悪い」
二人の言葉が早い。
僕は二人の間で一瞬迷った。
……どうする。
ここで乱れれば、僕たちだけじゃなくオルステッド隊の端も崩れる。
でも、踏ん張りすぎれば割られる。
そのとき、灰衣の一団が、こちらの右端へ食い込もうとした。
そこだけ、兵の列が揺れる。
今だ。
「ブルーノ!」
「あいよ!」
「前に出すぎないで、先頭だけ叩いて!」
「注文が細けえなあ!」
言葉よりも楽しそうに、ブルーノが飛び出した。
大棍棒が横へ振られる。
灰衣の先頭が、盾ごと弾かれた。
すぐにブルーノはさらに踏み込みかける。
「ブルーノ、そこまで!」
「ちっ、分かってる!」
言いながら、もう一人を吹き飛ばしてから下がった。
……下がったので、よしとする。
その隙に、ブルーノの穴を埋めるべくガレスが兵を入れ替え、列が少し戻る。
僕は息を吐いた。
勝ってはいない。でも、崩れてもいない。
その時、南東の街道の方から、土煙が上がった。
*
最初に気づいたのは、エルヴィンだった。
「来た」
短い声だった。
「何が?」
僕が聞くより早く、ガレスもそちらを見た。
「旗だ。ヴェルナー子爵家の旗」
南東の街道から、味方の旗が二つ見えた。
遅れていた二部隊。
合わせて三百名ほど。
来た。
その事実が、こちらの兵たちの間に伝わっていく。
声が変わり、足が戻る。
そして、背中が少し伸びる。
灰衣の中央も、それに気づいたように動きが変わった。
前へ押し続ける者と、南東へ向き直ろうとする者が混ざる。
「今、乱れているぞ」
エルヴィンが言った。
「押し返せる?」
「少しなら」
「ガレス!」
「承知!」
ガレスが声を張る。
「前へ押すな! 形を保って半歩戻せ! 抜けようとする者だけ止めろ!」
押し返す。でも、深追いはしない。
包囲ができるまで、ここで崩さず、抜けさせない。
アズール隊は、その小さな隙間を埋める役目だった。
南東から来た二部隊は、そのまま灰衣の中央へぶつかった。
増援百名を押し戻していた灰衣本隊が、今度は別の方向から押される。
灰衣の中央は強い。
だが、三方を見なければならなくなった。
その分、こちらへの圧がわずかに薄くなる。
「来たな」
ブルーノが笑った。
「まだ終わってないよ」
「分かってるって」
そう言いながら、ブルーノは嬉しそうだった。
西側では、ロイター隊が動きを強めていた。
先ほどから押していた灰衣の一隊を、ついに街道の脇へ追い込む。
矢が飛び、槍が揃い、灰衣の列が崩れた。
派手な突破ではない。
でも、崩れた。
ロイター隊が、灰衣の西側の一隊を押し切ったのだ。
そして、ロイター隊はそこで止まらなかった。
向きを変え、ノトスの門前へ近づいていた後方の灰衣の一団へ圧をかける。
その瞬間、後方の一団が揺れた。
攻めていたわけではない。ただ、門の前に寄っていただけだったのだろう。
そこへ、隊列を整えたロイター隊が向かう。
それだけで、彼らの足が止まった。
銅鑼が乱れる。白い椀の旗が揺れる。
槍を持った者たちが、前を見るべきか、後ろを見るべきか分からないように動く。
そして、下がり始めた。
「下がった」
僕は思わず呟いた。
「攻めるつもりの隊ではなかったのだろう」
ガレスが隊を整えつつ言う。
「でも、武器を構えていた……」
「ああ。だから厄介だった」
ロイター隊が、灰衣の後方部隊を押し下げる。
戦いというより、圧をかけて道を空けさせるような動きだった。
そのとき、ノトスの門が開いた。
*
今度は、少しだけ開いたのではない。
門が大きく開く。
中から、ヴェルナー子爵家軍本隊の旗が出てきた。
先ほど押し戻された百名も、その中へ吸収されるように合流していく。
門の内側で待っていたヴェルナー子爵家の旗が、外へ出る。
閉じていた門が、戦場へ向かって開いた。
「本隊が出るぞ!」
誰かが叫んだ。
ノトスの街が、その声に震えたように見えた。
ヴェルナー子爵家軍本隊は、ただ前へ出たのではない。
灰衣の後方部隊が下がったことで街自体への脅威がなくなり、門を開け、押し戻されていた百名を拾い上げ、隊列を整えてから、灰衣本隊の背後へ向かった。
熱に浮かされたように前へ出ていた灰衣の中央が、完全に挟まれる形になった。
南東から二部隊。
南西からオルステッド隊と僕たち。
西側をロイター隊。
そして、ノトスから出た本隊。
灰衣の本隊は、行き場を失った。
それでも、すぐには崩れなかった。
何人かは叫び、槍を振り、囲みを破ろうとする。
「抜けようとしてる!」
エルヴィンが指した。
灰衣の一団が、僕たちの側の薄いところへ向かってくる。
数は多くない。
でも、必死だ。
「ブルーノ!」
「そこだな!」
「抜けさせない。追わない」
「はいはい!」
ブルーノが前へ出る。
今度は、止めなかった。
大棍棒が、包囲を破ろうとする先頭を叩き戻す。
ガレスが、その後ろを埋める。
エルヴィンが別の隙間を指し、僕が兵を送る。
倒すためじゃない。
抜けさせないために、使う。
ブルーノは少し不満そうだったけれど、今はちゃんと分かっている。
深くは追わない。
前へ出て、叩き、戻る。
何度かそれを繰り返すうちに、灰衣の動きが鈍った。
銅鑼の音が止まる。
白い椀の旗が、一つ倒れた。
誰かが武器を落とした。
次に、別の誰かも落とした。
それは、一斉の投降ではなかった。
最後まで槍を構える者もいる。
逃げようとして取り押さえられる者もいる。
地面に膝をついて、両手を上げる者もいる。
そして、後方の一団の方では、もっと早く武器が落ちていた。
ロイター隊に押され、ノトス本隊が出てきた時点で、彼らの多くはもう戦う顔をしていなかった。
座り込む者。
槍を放り出す者。
ただうつむく者。
同じ灰色だった。
同じ白い椀の旗の下にいた。
でも、同じ顔ではなかった。
*
戦は、終わった。
少なくとも、ノトスの門前での大きな戦いは終わった。
灰衣勢は投降し、武器を集められている。
前へ出ていた好戦的な者たちは、縛られ、隊ごとに分けられていく。
後方にいた者たちは、扱いに困る者も多いようだった。
武器を持っていた以上、ただの民とは言えない。
けれど、前で槍を振るっていた者たちと同じようにも見えなかった。
ノトスの門は開いている。
閉じたまま夕暮れを迎えようとしていた門は、今は戦場へ向かって開かれていた。
「勝った、んですよね」
ニルスが、ぽつりと言った。
「勝ったよ」
僕はそう答えた。
ノトスは守られた。
街道も守られた。
灰衣勢の大きな集団も、投降した。
だから、勝った。
けれど、僕の目は、倒れた白い椀の旗と、その後ろで座り込んでいる灰衣の者たちに向いていた。
あの旗の下には、槍を振るって前へ出た者がいた。
その後ろには、槍を持っていただけのように見える者もいた。
どちらも、灰衣だった。
どちらも、武器を持っていた。
それでも、同じものだとは思えなかった。
ガレスが隣に立つ。
「アズール」
「うん」
「今は、捕虜の整理が先だ」
「分かってるよ」
分かっている。
戦の後には、やることがある。
武器を集め、怪我人を見る。
捕虜を分け、逃げた者がいないか確認する。
ノトスの街も落ち着かせなければならない。
勝った後も、戦は終わらない。
僕はもう一度、倒れた白い椀の旗を見た。
ノトスの門は開いた。
灰衣の旗は、地に落ちた。
けれど、白い椀の下にいた者たちの顔は、最後まで一つには重ならなかった。




