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エルダニア大戦記〜敗残兵に飯と役目を与えていたら、乱世の国づくりが始まりました〜  作者: 志摩 伊純
第3章:灰衣大乱

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第33話 ノトスの門


 待つ戦いは、初めてかもしれない。


 ノトスの門は閉じたままだった。

 防壁の上には、ルミナ沿海伯家とヴェルナー子爵家の旗が揺れている。

 街は落ちていない。けれど、門が閉じているということは、街の中にいる本隊も、自由には動けないということだ。


 僕たちは、ノトスから南西に伸びる街道の近くに布陣している。


 前にオルステッド隊。

 少し後ろにロイター隊。

 僕たちアズール隊は、オルステッド隊の脇に置かれた小回りの利く予備という扱いだ。


 予備。


 そう言われると聞こえはいいけれど、要するに、どこかが危なくなった時に穴を埋める役目だ。


 兵の数は三十ほど。

 相手は千名規模。

 正面からどうにかする役目ではない。


「ちょっと落ち着かないですね」


 ニルスが、少し声を落として言った。

 いつもならもう少し軽い調子で言うのだけれど、今日はその明るさもやや控えめだ。


「動いていないからね」


 戦うとなれば怖い。

 でも、何もしないまま待つのも、別の怖さがあるのを知った。

 目の前で灰色の旗が揺れ、白い椀の印がこちらを向いている。銅鑼の音がときおり響き、そのたびに兵たちの肩がわずかに動いた。


 白い椀。

 粥を分けるための椀、なのだろう。

 けれど今、その旗の下には槍が並んでいる。


 ノエルは、僕の少し後ろで、荷と負傷者を置く場所を確認している。

 戦いになれば、すぐに人が出る。

 怪我人も出る。だから、戦う前から、ノエルは戦いの後を考えている。


「兄上」


「どうしたの?」


「荷車は少し後ろへ下げました。動線を塞がないようにしています。ただ、ここで押し込まれた場合、あまり余裕はありません」


「……うん、わかったよ」


 押し込まれる。

 その言葉が、妙に重く聞こえる。


 ガレスは前を見ている。

 エルヴィンは、灰衣勢の陣と、そこから伸びる街道を見ている。

 ブルーノは大棍棒を肩に担いでいるけれど、珍しくまだ文句を言っていない。

 カインは、いつものように僕の近くに黙って立っていた。


 待つ。

 ただ待つ。


 その時間が、じわじわと兵の体から力を奪っていくようだった。



 最初に動いたのは、灰衣勢だ。


 銅鑼が大きく鳴り響く。

 それまで大きな塊に見えていた灰衣勢が、ゆっくりと形を変え始めた。


「動くぞ」


 ガレスが短く言う。


 灰衣の前面にいた三つの部隊のうち、中央の大きな塊と、その片翼がこちらへ押し出してくる。

 もう一つの部隊は、西側の街道へ回るように動いた。


 乱れた群れではない。

 少なくとも、前に出てきた者たちは、自分たちがどこへ向かうのか分かっているように見える。


「思ったより、まとまってるね……」


「前面だけだ」


 エルヴィンが後方の灰衣勢を鋭い視線で見ている。


「後ろの一団は違う。だが、前に出てくる連中は、ただの民じゃなさそうだ」


 その言葉を聞いて、僕は灰衣勢の後方に目を向けた。

 後ろにいる大きなまとまりは、まだ大きく動いていない。

 ただ、ノトスの方へじわりと寄っている。

 突撃ではない。

 けれど、門の方へ寄っている。


 武器を持ってはいる。

 けれど、列は整っていない。

 荷車や炊き出しの煙にも近い。


 ノトスを攻めてはいない。

 でも、無視できない。


 だから、ノトスの中の本隊は動けない。


「嫌な動きだな」


 ガレスが眉を寄せた。


「戦う気が薄い者まで混ぜて、門の前に置いている」


「それだけで、子爵様んところの本隊を縛れるわけか」


 ブルーノが低く唸る。


「汚ねえな」


「汚いけど、効いてる」


 僕はノトスの方を見ながらそう言った。


 効いている。

 嫌なやり方だ……。


 灰衣の後方の一団が門前へ近づけば、ノトスの門は開けにくくなる。

 開ければ、そこへ人が流れ込むかもしれない。

 閉じたままなら、本隊は外へ出られない。


 戦わなくても、戦場を動かしている。

 灰衣勢は、もうただの村の騒ぎではなかった。


 オルステッド隊の方で、短い号令が飛ぶ。

 槍が前へ揃う。

 ロイター隊も、西側へ回ろうとする灰衣の一隊に向けて動き出した。


 僕たちは、オルステッド隊の脇へ寄る。


「アズール!」


 ガレスがこちらを見ながら叫ぶ。


「俺たちは穴埋めだ。前に出すぎない。崩れそうなところへ入るぞ」


「わかった!」


「ブルーノも、まだだぞ」


「ああ、分かってる」


 ブルーノは不満そうに鼻を鳴らしたけれど、前には出なかった。

 よし。

 まだ、ここではない。


 次の銅鑼が鳴った時、灰衣の前面が走り出した。



 ぶつかった瞬間、思ったより重い、と感じた。


 灰衣勢は、これまで見た灰衣たちとは違った。

 もちろん全員が整った兵というわけではない。鎧もばらばらで、槍も棍棒も、短い刃物も混ざっている。けれど、前に出る者たちには迷いが少なかった。


 叫びながら、押してくる。倒れても、後ろが前に出る。

 それに合わせて、こちらも槍を並べ、盾を重ね、押し返す。


 オルステッド隊は、さすがによく耐えている。

 けれど、相手は数が多い。こちらの正面に来ているだけでも、オルステッド隊と僕たちを合わせた数よりずっと多い。


「右が薄い!」


 ガレスが叫ぶ。


「そっちへ十人!」


 僕が言うより早く、ガレスが兵を動かしている。

 僕はそれを見て、頷く。


「ニルス、後ろに伝えて。ここはまだ保つ。でも負傷者を下げる場所を空けて」


「はい!」


 ニルスが走る。


 僕は前を見る。

 灰衣の男が、錆びた槍を突き出してきた。

 こちらの兵が盾で受け、別の兵が横から押し返す。

 そこへ、さらに別の灰衣が飛び込んでくる。


 荒い。

 でも、弱くはない。


「アズール様、押されております」


 カインが静かに言った。


「うん。分かってる」


 少しずつ下がっている。

 大きく崩れているわけではない。

 けれど、足元の草が、最初に立っていた場所から後ろへ移っている。


「下がるな!」


 オルステッド隊の誰かが叫ぶ。


 下がるなと言われても、押されれば下がる。

 押されながら、隊の形を崩さずにいられるかどうか。

 今はそこが大事だった。


 ブルーノが前へ一歩出た。


「アズール」


「まだ」


「ちっ」


「抜けそうなところが出たら、そこ」


「分かったよ」


 ブルーノは唇を歪めたが、止まった。


 今、ブルーノを前へ出せば、一箇所は割れるかもしれない。

 でも、深く入れば戻せない。

 押されている時に、こちらの楔だけが前へ出れば、周囲から食われる。


 ブルーノは強い。

 でも、強いからこそ、使う場所を間違えると危ない。


 エルヴィンが僕の横に来た。


「まだ退ける。だが、もう少し押されると荷車に近い」


「じゃあ、そこで止めたい」


「止めるには、何か欲しいな」


「何かって?」


「向こうの圧が少し緩むか、こちらに増援が来るか」


 簡単に言う。

 でも、そのどちらも今はない。


 その時、西側の街道から矢が飛んだ。

 ロイター隊の方だ。


 目を向けると、西へ回ろうとしていた灰衣の一隊が、ロイター隊に押し留められているのが見えた。

 派手さはない。けれど、ロイター隊は少しずつ前へ出ている。


「ロイター隊は押してる」


 僕が言うと、エルヴィンも頷いた。


「あそこが崩れなければ、まだ全体は保つ」


 まだ保つ。

 それだけだった。



 ノトスの方で、門がわずかに動いた。


「門が開くぞ!」


 誰かが叫んだ。


 北東側の門は開けられない。

 開いたのは、こちらに近い南側の門だった。


 中から出てきたのは、本隊すべてではなく、百名ほどの増援だ。


 彼らは、門から出るとすぐに隊列を整え、灰衣の中央へ向かった。

 ヴェルナー子爵家の旗が、小さく揺れる。


「本隊から出したか」


 ガレスが槍を捌きながら言った。


「全部は出せないんだ」


 僕はノトスの門前へ目を向けた。


 灰衣の後方の一団が、まだ門の方へ寄っている。

 攻撃はしていない。けれど、武器を持った四百ほどのまとまりが近くにいるだけで、ノトスの門は大きく開けられない。


 増援百名は、勢いづいた灰衣の中央へぶつかった。

 一瞬、押し返したように見えた。けれど、それは本当に一瞬だった。


 灰衣の中央三百は、強かった。


 前へ出る者が倒れても、後ろが押す。押されるのを嫌がらない。

 むしろ、損耗を承知で圧をかけているようにも見える。


 百名の増援は、じりじりと押し戻された。

 やがて、隊の前面が崩れかけ、門の方へ大きく下がる。


「まずいか?」


 ブルーノが声を低くする。


「まだ崩れてない」


 僕はそう答えた。


 でも、苦しい。増援が大きく下がったことで、灰衣の中央はさらに勢いづいている。こちらの前面にも圧が増す。


「アズール、ここは一度、下げて整えた方がいい」


 ガレスが叫ぶ。


「下がりすぎると荷に当たるぞ」


 エルヴィンが叫び返す。


「なら、横へずらす」


「街道から外れる。足場が悪い」


 二人の言葉が早い。

 僕は二人の間で一瞬迷った。


 ……どうする。


 ここで乱れれば、僕たちだけじゃなくオルステッド隊の端も崩れる。

 でも、踏ん張りすぎれば割られる。


 そのとき、灰衣の一団が、こちらの右端へ食い込もうとした。

 そこだけ、兵の列が揺れる。


 今だ。


「ブルーノ!」


「あいよ!」


「前に出すぎないで、先頭だけ叩いて!」


「注文が細けえなあ!」


 言葉よりも楽しそうに、ブルーノが飛び出した。


 大棍棒が横へ振られる。

 灰衣の先頭が、盾ごと弾かれた。

 すぐにブルーノはさらに踏み込みかける。


「ブルーノ、そこまで!」


「ちっ、分かってる!」


 言いながら、もう一人を吹き飛ばしてから下がった。

 ……下がったので、よしとする。


 その隙に、ブルーノの穴を埋めるべくガレスが兵を入れ替え、列が少し戻る。


 僕は息を吐いた。

 勝ってはいない。でも、崩れてもいない。


 その時、南東の街道の方から、土煙が上がった。



 最初に気づいたのは、エルヴィンだった。


「来た」


 短い声だった。


「何が?」


 僕が聞くより早く、ガレスもそちらを見た。


「旗だ。ヴェルナー子爵家の旗」


 南東の街道から、味方の旗が二つ見えた。

 遅れていた二部隊。

 合わせて三百名ほど。


 来た。


 その事実が、こちらの兵たちの間に伝わっていく。

 声が変わり、足が戻る。

 そして、背中が少し伸びる。


 灰衣の中央も、それに気づいたように動きが変わった。

 前へ押し続ける者と、南東へ向き直ろうとする者が混ざる。


「今、乱れているぞ」


 エルヴィンが言った。


「押し返せる?」


「少しなら」


「ガレス!」


「承知!」


 ガレスが声を張る。


「前へ押すな! 形を保って半歩戻せ! 抜けようとする者だけ止めろ!」


 押し返す。でも、深追いはしない。

 包囲ができるまで、ここで崩さず、抜けさせない。


 アズール隊は、その小さな隙間を埋める役目だった。


 南東から来た二部隊は、そのまま灰衣の中央へぶつかった。

 増援百名を押し戻していた灰衣本隊が、今度は別の方向から押される。


 灰衣の中央は強い。

 だが、三方を見なければならなくなった。

 その分、こちらへの圧がわずかに薄くなる。


「来たな」


 ブルーノが笑った。


「まだ終わってないよ」


「分かってるって」


 そう言いながら、ブルーノは嬉しそうだった。


 西側では、ロイター隊が動きを強めていた。

 先ほどから押していた灰衣の一隊を、ついに街道の脇へ追い込む。

 矢が飛び、槍が揃い、灰衣の列が崩れた。


 派手な突破ではない。

 でも、崩れた。


 ロイター隊が、灰衣の西側の一隊を押し切ったのだ。


 そして、ロイター隊はそこで止まらなかった。

 向きを変え、ノトスの門前へ近づいていた後方の灰衣の一団へ圧をかける。


 その瞬間、後方の一団が揺れた。


 攻めていたわけではない。ただ、門の前に寄っていただけだったのだろう。

 そこへ、隊列を整えたロイター隊が向かう。

 それだけで、彼らの足が止まった。


 銅鑼が乱れる。白い椀の旗が揺れる。

 槍を持った者たちが、前を見るべきか、後ろを見るべきか分からないように動く。


 そして、下がり始めた。


「下がった」


 僕は思わず呟いた。


「攻めるつもりの隊ではなかったのだろう」


 ガレスが隊を整えつつ言う。


「でも、武器を構えていた……」


「ああ。だから厄介だった」


 ロイター隊が、灰衣の後方部隊を押し下げる。

 戦いというより、圧をかけて道を空けさせるような動きだった。


 そのとき、ノトスの門が開いた。



 今度は、少しだけ開いたのではない。


 門が大きく開く。

 中から、ヴェルナー子爵家軍本隊の旗が出てきた。

 先ほど押し戻された百名も、その中へ吸収されるように合流していく。


 門の内側で待っていたヴェルナー子爵家の旗が、外へ出る。


 閉じていた門が、戦場へ向かって開いた。


「本隊が出るぞ!」


 誰かが叫んだ。


 ノトスの街が、その声に震えたように見えた。


 ヴェルナー子爵家軍本隊は、ただ前へ出たのではない。

 灰衣の後方部隊が下がったことで街自体への脅威がなくなり、門を開け、押し戻されていた百名を拾い上げ、隊列を整えてから、灰衣本隊の背後へ向かった。


 熱に浮かされたように前へ出ていた灰衣の中央が、完全に挟まれる形になった。


 南東から二部隊。

 南西からオルステッド隊と僕たち。

 西側をロイター隊。

 そして、ノトスから出た本隊。


 灰衣の本隊は、行き場を失った。


 それでも、すぐには崩れなかった。

 何人かは叫び、槍を振り、囲みを破ろうとする。


「抜けようとしてる!」


 エルヴィンが指した。


 灰衣の一団が、僕たちの側の薄いところへ向かってくる。

 数は多くない。

 でも、必死だ。


「ブルーノ!」


「そこだな!」


「抜けさせない。追わない」


「はいはい!」


 ブルーノが前へ出る。

 今度は、止めなかった。


 大棍棒が、包囲を破ろうとする先頭を叩き戻す。

 ガレスが、その後ろを埋める。

 エルヴィンが別の隙間を指し、僕が兵を送る。


 倒すためじゃない。

 抜けさせないために、使う。


 ブルーノは少し不満そうだったけれど、今はちゃんと分かっている。

 深くは追わない。

 前へ出て、叩き、戻る。


 何度かそれを繰り返すうちに、灰衣の動きが鈍った。


 銅鑼の音が止まる。


 白い椀の旗が、一つ倒れた。


 誰かが武器を落とした。

 次に、別の誰かも落とした。


 それは、一斉の投降ではなかった。

 最後まで槍を構える者もいる。

 逃げようとして取り押さえられる者もいる。

 地面に膝をついて、両手を上げる者もいる。


 そして、後方の一団の方では、もっと早く武器が落ちていた。

 ロイター隊に押され、ノトス本隊が出てきた時点で、彼らの多くはもう戦う顔をしていなかった。


 座り込む者。

 槍を放り出す者。

 ただうつむく者。


 同じ灰色だった。

 同じ白い椀の旗の下にいた。


 でも、同じ顔ではなかった。



 戦は、終わった。


 少なくとも、ノトスの門前での大きな戦いは終わった。


 灰衣勢は投降し、武器を集められている。

 前へ出ていた好戦的な者たちは、縛られ、隊ごとに分けられていく。

 後方にいた者たちは、扱いに困る者も多いようだった。

 武器を持っていた以上、ただの民とは言えない。

 けれど、前で槍を振るっていた者たちと同じようにも見えなかった。


 ノトスの門は開いている。

 閉じたまま夕暮れを迎えようとしていた門は、今は戦場へ向かって開かれていた。


「勝った、んですよね」


 ニルスが、ぽつりと言った。


「勝ったよ」


 僕はそう答えた。


 ノトスは守られた。

 街道も守られた。

 灰衣勢の大きな集団も、投降した。


 だから、勝った。


 けれど、僕の目は、倒れた白い椀の旗と、その後ろで座り込んでいる灰衣の者たちに向いていた。


 あの旗の下には、槍を振るって前へ出た者がいた。

 その後ろには、槍を持っていただけのように見える者もいた。


 どちらも、灰衣だった。

 どちらも、武器を持っていた。


 それでも、同じものだとは思えなかった。


 ガレスが隣に立つ。


「アズール」


「うん」


「今は、捕虜の整理が先だ」


「分かってるよ」


 分かっている。

 戦の後には、やることがある。

 武器を集め、怪我人を見る。

 捕虜を分け、逃げた者がいないか確認する。

 ノトスの街も落ち着かせなければならない。


 勝った後も、戦は終わらない。


 僕はもう一度、倒れた白い椀の旗を見た。


 ノトスの門は開いた。

 灰衣の旗は、地に落ちた。


 けれど、白い椀の下にいた者たちの顔は、最後まで一つには重ならなかった。


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