第二話:牢屋から始まる異世界生活
「…………」
目の前には、冷たい鉄格子。
足元には、硬い石の床。
そして、部屋の隅には、申し訳程度に敷かれた薄汚い藁。
「……どうして、こうなったんだろう」
僕は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
当然、返事はない。
代わりに聞こえてくるのは、どこからか滴り落ちる水の音だけだった。
……おかしいな。
つい数時間前まで、僕はこの街を手に入れようと考えていたはずなのに。
お金も、地位も、権力も。
何もかも手に入れて、いつかは世界そのものを支配してやろうと。
そんな壮大な計画を立てていたはずなのに。
「…………」
……世界征服って、牢屋から始まるものだったっけ。
いや。
違うと思う。
少なくとも、僕が想像していた異世界生活は、こんなものじゃなかった。
そもそも、異世界に召喚されてから、まだ一日も経っていないのだ。
それなのに、もう犯罪者扱いされている。
……まあ。
理由は、分かっているんだけど。
僕は、小さくため息をついた。
すべての始まりは、数時間前。
あの小さな女の子と、その父親に出会ったことだった。
◇◆◇
――数時間前。
「……へえ」
僕は、石畳の道を歩きながら、周囲を見回していた。
道の両側には、木造や石造りの建物が立ち並んでいる。
軒先に商品を並べた商店。
焼きたてのパンらしきものを売っている露店。
荷物を積んだ馬車。
鎧を着て歩く兵士たち。
そして、行き交う大勢の人々。
……本当に、ファンタジーの世界なんだな。
まるで、ゲームの中に入り込んでしまったようだった。
ただし、ゲームとは違って、目の前に便利な地図が表示されたり、目的地を教えてくれる案内役が現れたりすることはない。
……あの邪神様。
せめて、もう少し説明してから送り込んでくれてもよかったんじゃないかな。
まあ、今さら言っても仕方ないけど。
僕は、通りの端に並ぶ露店へ目を向けた。
「焼きたてだよ! 銅貨三枚!」
「こっちは二枚だ! 今朝採れたばかりだぞ!」
……銅貨。
なるほど。
この世界にも、お金はあるらしい。
当たり前だけど。
ただ、僕はその銅貨というものを一枚も持っていない。
それどころか、泊まる場所も、食べ物も、身分証もない。
「…………」
……あれ?
よく考えたら、結構まずい状況なんじゃないかな。
まあ、いいか。
お金を持っている人に、少し分けてもらえばいい。
もちろん、本人が喜んで渡してくれるようにしてから。
そう考えると、随分と気が楽になった。
……さて。
まずは、この街について調べてみようかな。
どんな人が住んでいて、誰が偉くて、どんな仕組みで動いているのか。
それくらいは知っておいた方がいいだろう。
僕は、再び歩き始めた。
……そして。
「……あっ」
「……きゃっ」
曲がり角を曲がった、その瞬間だった。
何か柔らかいものが、僕の身体にぶつかった。
「……え?」
慌てて足を止める。
すると、目の前で小さな人影がよろめき、そのまま地面に尻もちをついた。
「……あ、す、すみません!」
僕は、慌てて頭を下げた。
……しまった。
考え事をしていて、前をよく見ていなかった。
目の前にいたのは、一人の少女だった。
年齢は、僕よりだいぶ下だろうか。
ただ、随分と小柄で、華奢な体格をしている。
腰を優に越えるほど長い髪は、淡い桜色を帯びた銀白色。
柔らかな髪の左右には、レースを重ねた大きな桃色のリボンが飾られていた。
身にまとっているのは、白と淡いピンクを基調とした、フリルだらけのドレス。
胸元や袖口には繊細な刺繍が施され、ところどころにハート型の装飾が揺れている。
足元には、リボンのついた可愛らしい靴。
そして。
何より印象的だったのは、その瞳だった。
宝石のように澄んだ、桃色の大きな瞳。
今は驚きのせいか、少し潤んでいる。
……すごいな。
まるで、お人形みたいだ。
「……あぅ……」
少女は、小さく声を漏らした。
どうやら、驚いてしまったらしい。
「……だ、大丈夫ですか?」
「…………」
少女は、僕を見上げたまま固まっている。
……えっと。
どうしよう。
僕も人と話すのは得意じゃないんだけど。
すると、少女の視線が、ふと地面へ向いた。
僕もつられて目を向ける。
そこには、白いクマのぬいぐるみが落ちていた。
首元には大きな桃色のリボン。
足の裏には、小さなハート模様までついている。
……ああ。
さっきまで抱えていたのかな。
僕は、そのぬいぐるみを拾い上げた。
「……これ、あなたのですか?」
「…………」
少女は、小さく頷いた。
「……はい。どうぞ」
僕が差し出すと、少女は両手でぬいぐるみを受け取った。
そして、ぎゅっと胸に抱きしめる。
「……あ、りがと……」
「……いえ」
……よかった。
どうやら、怪我はしていないみたいだ。
僕は、少し安心した。
……そのときだった。
「ミリアァァァッ!!」
「……っ!?」
突然、通りの向こうから大きな声が響いた。
驚いて顔を上げる。
そこには、立派な服を着た中年の男性がいた。
金糸の刺繍が施された上等な上着。
よく手入れされた髭。
そして、いかにも偉そうな雰囲気。
その後ろには、鎧を身につけた護衛らしき男たちが何人も続いている。
……誰だろう。
男性は、こちらを見るなり顔色を変えた。
「ミリア! 大丈夫か!? どこか痛いところはないか!?」
「……お、お父さま……」
……お父さん?
男性は少女の前に駆け寄ると、その身体をあちこち確認し始めた。
「怪我は!? 頭は打っていないか!? 足は!? 手は!? どこか痛くないか!?」
「……だい、じょうぶ……」
「本当か!? 無理をしているのではないだろうな!?」
「……うん……」
「そうか! よかった……!」
男性は、心底安心したように息を吐いた。
……随分と過保護なお父さんだな。
まあ、娘が転んでいたら心配になるのも分かるけど。
僕は、邪魔にならないように少し離れようとした。
しかし。
「……ん?」
男性の視線が、僕へ向いた。
「……貴様」
「……え?」
「そこで何をしている?」
「……あ、えっと……」
僕が答えるより早く、男性の目が鋭くなった。
「まさか……貴様がミリアを転ばせたのか?」
「……あ、はい。すみません。少しぶつかってしまって……」
「なっ!?」
男性の顔が、みるみる赤くなっていく。
「き、貴様ァァァッ!!」
「……ひっ!?」
……え?
何?
「よくも私の可愛いミリアに危害を加えたな!!」
「……あ、いえ、危害というか……」
「言い訳など聞かん!!」
「…………」
……いや。
聞いてほしいんだけど。
「おい! こいつを捕らえろ!」
「はっ!」
男性の後ろにいた護衛たちが、一斉に動き出した。
「……えっ!? ちょ、ちょっと待ってください!」
「黙れ! 貴様のような不審者が、私の娘に近づくこと自体が許されん!」
「……あ、あの、本当に、ただぶつかっただけで……」
「そのような怪しい格好で何を言う!」
「…………」
……それは。
確かに、そうかもしれないけど。
……いや、違う。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
僕は、近づいてくる護衛たちを見た。
鎧。
剣。
大柄な身体。
……うん。
普通に勝てないな。
だったら。
《睡眠学習》を使えばいい。
そう思って、男性へ視線を向けた。
……でも。
「…………」
僕は、そこで動きを止めた。
男性の周囲には、何人もの護衛がいる。
さらに、騒ぎを聞きつけた通行人たちまで集まってきていた。
……あれ?
ちょっと待って。
ここで、この人を眠らせたらどうなるんだろう。
突然倒れた男性を見て、護衛たちが黙っているはずがない。
それに、眠らせた後は、言葉で命令を植え付けなければならない。
周囲にこれだけ人がいては、不自然すぎる。
……なるほど。
この能力。
思っていたより、面倒くさいな。
「おい! 何をぼさっとしている!」
「……あっ」
考えている間に、護衛たちに両腕を掴まれてしまった。
「……ちょ、ちょっと……!」
「大人しくしろ!」
「……は、はい……」
……痛い。
普通に痛いんだけど。
僕は抵抗を諦めた。
……まあ。
今は、大人しくしておこう。
後でどうにかすればいい。
「こいつを屋敷の地下牢へ放り込め!」
「はっ!」
……地下牢?
いや。
ちょっと待って。
そこまでする?
僕は、最後に少女の方を見た。
彼女は白いクマのぬいぐるみを抱きしめながら、困ったようにこちらを見つめていた。
「……お父さま……」
「安心しなさい、ミリア! もう大丈夫だ!」
「……でも……」
「さあ、屋敷へ戻ろう! 怖かっただろう!」
「…………」
少女は何か言いたそうにしていたけれど、結局、それ以上は何も言わなかった。
……ああ。
なるほど。
このお父さん。
娘の話も、あまり聞いていないんだな。
そんなことを考えながら。
僕は、護衛たちに連れていかれた。
◇◆◇
――そして、現在。
「…………」
僕は、改めて目の前の鉄格子を見つめた。
……うん。
やっぱり、理不尽だと思う。
ただ女の子とぶつかっただけなのに。
まさか、牢屋に入れられるなんて。
ちなみに、ここは街を治める領主の屋敷の地下にある牢屋らしい。
連れてこられる途中で聞いた話によると、あの男性こそが、この街の領主なのだそうだ。
そして、この地下牢は、領主が個人的に気に入らなかった者を閉じ込めるためにも使われているらしい。
……そんな理由で牢屋を使っていいのかな。
まあ、権力者なら何でもありなのかもしれない。
……それなら。
なおさら、権力って便利そうだな。
僕は、牢屋の隅に腰を下ろした。
……さて。
どうしようかな。
見張りの衛兵は一人だけだ。
呼び寄せて眠らせれば、ここから出ること自体は難しくないだろう。
ただ、それだけでは、また捕まるかもしれない。
どうせなら、あの領主をどうにかしたい。
……でも。
領主に近づく方法がないんだよな。
そんなことを考えていた、そのとき。
カツン。
カツン。
石の床を踏む足音が聞こえてきた。
「……ん?」
僕は、顔を上げた。
足音は、一つではない。
複数の人間が、こちらへ向かって歩いてくる。
やがて、通路の向こうから人影が現れた。
「ふん。ここにいたか」
「…………」
……あ。
さっきのお父さんだ。
領主は、三人の護衛を引き連れて、僕の牢屋の前に立った。
見張りの衛兵が慌てて姿勢を正す。
「領主様!」
「うむ。ご苦労」
領主は軽く頷くと、鉄格子越しに僕を見下ろした。
「どうだ? 少しは反省したか?」
「……あ、はい」
「ふん! 当然だ!」
「…………」
……いや。
別に、反省するようなことはしていないんだけど。
「貴様も、これに懲りたら二度と私の娘に近づこうなどと考えぬことだな!」
「……はあ」
「何だ、その気の抜けた返事は!」
「……す、すみません」
領主は、満足そうに鼻を鳴らした。
……わざわざ、そんなことを言うために来たのかな。
暇な人だな。
僕は、領主の後ろに立つ護衛たちを見た。
三人。
それに、少し離れた場所に見張りの衛兵が一人。
……合計、五人か。
そこで、ふと思いついた。
……そういえば。
《睡眠学習》って、複数人にも同時に使えるのかな。
あの邪神様は、使用回数に制限はないと言っていた。
でも、一度に何人まで眠らせられるのかは聞いていない。
……まあ。
聞こうとしたところで、途中で送り飛ばされちゃったんだけど。
僕は、改めて目の前の四人を見た。
領主と、三人の護衛。
もし、全員を一度に眠らせられるなら。
……随分と、楽になるんじゃないかな。
もちろん、失敗したら怪しまれるかもしれない。
でも。
どうせ、今の僕は牢屋の中だ。
これ以上、状況が悪くなることも……。
……いや。
拷問とかされたら嫌だな。
……うーん。
どうしよう。
「おい! 聞いているのか!」
「……あ、はい」
「まったく! 反省の色が見えん!」
……うるさいな。
僕は、小さく息を吐いた。
……まあ、いいか。
試してみよう。
僕は、領主と三人の護衛をまとめて意識した。
そして、前髪の奥から、彼らを見つめる。
「……眠れ」
「……何?」
領主が眉をひそめた。
その瞬間。
「……っ」
四人の身体が、同時にぐらりと揺れた。
そして。
ドサッ。
ガシャン。
鎧のぶつかる音とともに、全員が床へ崩れ落ちた。
「…………」
……え?
僕は、思わず目を見開いた。
領主も。
護衛たちも。
全員、目を閉じている。
……あ。
できちゃった。
……へえ。
複数人でも、使えるんだ。
僕は、少し感心した。
……これは、便利だな。
「りょ、領主様!?」
そのとき、見張りの衛兵が慌てて駆け寄ってきた。
「な、何が……!?」
……あ。
そういえば、この人もいたんだっけ。
僕は、衛兵へ顔を向けた。
「……眠れ」
「……っ」
衛兵も、その場に崩れ落ちた。
「…………」
……うん。
やっぱり、使える。
どうやら、複数人を一度に眠らせることもできるし、後から別の相手を眠らせることもできるらしい。
……本当に、制限がないんだな。
僕は、鉄格子越しに眠っている領主を見つめた。
……さて。
それじゃあ。
少し、考え方を変えてもらおうかな。
「……あなたは、僕のことを、自分の娘さんと同じくらい大切に思っています」
領主は、眠ったまま動かない。
「……僕のことが大好きで、何よりも大切な存在だと思っています」
僕は、ゆっくりと言葉を続けた。
「……だから、僕が困っていたら助けたいし、僕の望みはできる限り叶えてあげたいと思っています」
……これでいいかな。
いや。
もう少し、細かくしておこう。
「……それから、僕のことを心から信用しています。僕が何かをお願いしても、悪いことを企んでいるなんて疑いません」
僕は、少し考えた。
……そうだ。
牢屋に入れられたことも、どうにかしておかないと。
「……あなたは、僕を牢屋に入れたのは自分の早とちりだったと理解しています」
「…………」
「……僕は何も悪いことをしていません。だから、あなたは僕をすぐに解放して、屋敷に迎え入れたいと思っています」
……うん。
これで、だいたい大丈夫かな。
それから、僕は護衛たちにも声をかけた。
領主が僕の無実を認め、釈放を命じたこと。
僕は領主にとって大切な人物であり、丁重に扱うべき存在であること。
そして、先ほど突然眠ったことについて、不審に思わないこと。
見張りの衛兵にも、同じように認識を植え付けた。
……さて。
これで、準備は整った。
「……起きろ」
その瞬間。
「……む?」
領主が、ゆっくりと目を開けた。
護衛たちも、何事もなかったかのように身体を起こす。
そして。
「……アレン?」
「……あ、はい」
領主が、僕の顔を見た。
次の瞬間。
「アレンッ!!」
「……ひっ!?」
……え?
何?
「おお、アレン! こんなところにいたのか!」
「……あ、えっと……」
「まったく! どうしてお前がこんな場所に……」
領主は、そこで何かを思い出したように顔を青くした。
「……そうだ! 私が牢屋に入れたのだったな!」
「……はい」
「なんということだ……!」
領主は、頭を抱えた。
「私としたことが! 可愛いミリアのことになると、つい周りが見えなくなってしまう!」
「……はあ」
「アレン! 本当にすまなかった!」
「……あ、いえ。大丈夫です」
「大丈夫なものか!」
領主は、鉄格子に両手をついた。
「こんな薄暗く、汚い場所に閉じ込められて! 寒くはなかったか!? 腹は減っていないか!? 怪我は!?」
「……えっと、特には……」
「そうか! よかった……!」
領主は、心底安心したように息を吐いた。
……すごいな。
さっきまで、あんなに怒っていたのに。
今では、まるで別人だ。
「おい! 何をしている! 早くアレンをここから出せ!」
「はっ!」
護衛の一人が、慌てて鍵を取り出した。
ガチャリ。
鉄格子が開く。
「……あ、ありがとうございます」
「何を言う! 礼を言うのはこちらの方だ!」
「……え?」
「私の過ちを許してくれて、ありがとう!」
「…………」
……いや。
別に、許したわけじゃないんだけど。
まあ、いいか。
僕は、牢屋から外へ出た。
領主は、嬉しそうに僕の肩を叩いた。
「さあ、屋敷へ行こう! 温かい食事を用意させよう! 風呂も入るといい! それから、部屋も用意せねばな!」
「……あ、はい」
「遠慮することはないぞ! ここを自分の家だと思ってくれ!」
「……ありがとうございます」
……へえ。
自分の家、か。
……それは、ありがたいな。
僕は、領主に連れられて地下牢を後にした。
◇◆◇
地下牢から出た僕は、領主の屋敷を案内されていた。
……すごい。
広い。
それに、豪華だ。
磨き上げられた大理石の床。
壁に飾られた絵画。
天井から吊るされた大きなシャンデリア。
廊下には、ふかふかの絨毯まで敷かれている。
……これが、貴族の家なんだ。
僕の地球の家とは、比べものにならないな。
「アレン! 何か欲しいものはないか?」
「……え?」
「服でも、食事でも、何でも言うがよい!」
「……あ、ありがとうございます」
「はっはっは! 遠慮するな!」
……本当に、何でもしてくれそうだな。
僕は、少し考えた。
……そうだ。
せっかくだから、あの女の子にも会っておこうかな。
確か、名前は……。
ミリア、だったっけ。
「……あの」
「む? どうした、アレン!」
「……よかったら、娘さんにも改めてご挨拶したいんですが……」
「おお! ミリアにか!」
「……はい。さっきは、驚かせてしまったので……」
「なんと律儀な!」
領主は、嬉しそうに笑った。
「もちろん構わんとも! ミリアも、きっと喜ぶだろう!」
「……そうですか」
「うむ! さあ、案内しよう!」
……本当に、簡単だな。
僕は、領主の後について歩き始めた。
長い廊下を進み、階段を上る。
そして、屋敷の奥にある一つの扉の前で、領主は足を止めた。
「ミリア! お父さんだ!」
コンコン、と扉を叩く。
しばらくすると。
「……は、はい……」
小さな声が返ってきた。
「入るぞ!」
領主が扉を開ける。
そして。
「…………」
僕は、思わず足を止めた。
……え?
何、この部屋。
目の前に広がっていたのは、淡いピンク色を基調とした、可愛らしい寝室だった。
白い家具。
レースのカーテン。
大きな天蓋付きのベッド。
そして。
ぬいぐるみ。
ぬいぐるみ。
ぬいぐるみ。
「…………」
……すごいな。
ぬいぐるみだらけだ。
ベッドの上には、大小さまざまなクマのぬいぐるみ。
壁際の棚には、ウサギやネコ、それから見たことのない動物のぬいぐるみまで並んでいる。
椅子の上にも、窓辺にも。
とにかく、部屋中がぬいぐるみで埋め尽くされていた。
……どれだけ好きなんだろう。
そして、その部屋の中央。
先ほどの少女が、白いクマのぬいぐるみを抱えて立っていた。
「……お父さま……?」
「ミリア! 客人を連れてきたぞ!」
「……おきゃく、さま……?」
少女――ミリアは、僕の姿を見ると、小さく肩を震わせた。
「……あ……」
そして、慌ててぬいぐるみの後ろに顔を隠してしまう。
……ああ。
やっぱり、人見知りなんだな。
「ミリア! 紹介しよう! こちらはアレンだ!」
「……アレン……?」
「うむ! お父さんの大切な客人だ!」
「…………」
ミリアは、ぬいぐるみの陰から、ちらりと僕を見た。
……なるほど。
随分と大人しい子だな。
「……あ、えっと。さっきは、すみませんでした」
「…………」
ミリアは、小さく首を振った。
「……だい、じょうぶ……」
「……そうですか」
……よかった。
少なくとも、嫌われてはいないみたいだ。
「はっはっは! どうだ、アレン! 可愛い娘だろう!」
「……はい。とても可愛らしいですね」
「そうだろう! そうだろう!」
領主は、嬉しそうに笑った。
……本当に、娘が大好きなんだな。
僕は、少し考えた。
「……あの、もしよければ、少しだけ二人でお話ししてもいいですか?」
「む?」
「……さっき、驚かせてしまったので。ちゃんと謝りたくて……」
「おお! もちろん構わんとも!」
領主は、あっさり頷いた。
「ミリアも年の近い相手の方が話しやすかろう! ゆっくりしていくといい!」
「……ありがとうございます」
「では、私は失礼するぞ!」
そう言って、領主は部屋を出ていった。
パタン。
扉が閉まる。
「…………」
「…………」
部屋には、僕とミリアだけが残された。
……さて。
どうしようかな。
僕は、改めて部屋を見回した。
どこを見ても、ぬいぐるみばかり。
そして、ミリア自身も、白いクマを大切そうに抱きしめている。
……なるほど。
これは、間違いないな。
この子。
絶対、ぬいぐるみが大好きだ。
だったら。
……うん。
ちょうどいいかもしれない。
「……あの、ミリアさん」
「……っ」
ミリアは、びくりと肩を震わせた。
「……は、はい……」
「……少し、こっちを見てもらってもいいですか?」
「…………」
ミリアは、おずおずと顔を上げた。
桃色の瞳が、僕を見つめる。
……よし。
僕は、ゆっくりと意識を集中させた。
「……眠れ」
「……ふぁ……」
ミリアの瞼が、ゆっくりと閉じていく。
そのまま、小さな身体が傾いた。
「……おっと」
僕は、慌てて彼女を支えた。
……危ない。
そのまま倒れたら、怪我をしてしまうところだった。
……こういうところは、気をつけないとな。
僕は、眠っているミリアを近くの椅子に座らせた。
そして、改めて彼女を見つめる。
……さて。
どういう命令にしようかな。
普通に、僕のことを好きになるようにしてもいい。
でも。
それだけじゃ、少し面白くない。
僕は、部屋中のぬいぐるみを見回した。
……そうだ。
この子が一番好きなものと、同じくらい好きになってもらえばいいんじゃないかな。
僕は、ミリアの耳元へ顔を近づけた。
「……あなたは、僕のことを、この部屋で一番お気に入りのぬいぐるみと同じくらい大好きになります」
「…………」
「……僕のことを、とても大切で、ずっとそばに置いておきたい存在だと思っています」
……それから。
「……僕と一緒にいると、安心します。僕に抱きつくと、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめているときと同じくらい、幸せな気持ちになります」
……うん。
こんなところかな。
僕は、少し考えてから付け加えた。
「……それから、僕のことを怖がる必要はありません。僕は、あなたにとって、とても大切な存在です」
……よし。
これでいいだろう。
「……起きろ」
「……ん……」
ミリアが、ゆっくりと目を開けた。
桃色の瞳が、僕を見つめる。
「……アレン……?」
「……あ、はい」
「…………」
ミリアは、しばらく僕の顔を見つめていた。
そして。
とてとて。
小さな足音を立てながら、僕の方へ近づいてきた。
「……え?」
きゅっ。
ミリアの小さな手が、僕の服の裾を掴んだ。
「……アレン」
「……な、何?」
「……ぎゅって、してもいい……?」
「……え?」
……ぎゅって?
抱きつくってことかな。
「……あ、はい。どうぞ」
そう答えた瞬間。
ぎゅうっ。
「……っ!?」
ミリアが、僕に抱きついてきた。
小さな身体が、ぴったりとくっつく。
そして、嬉しそうに頬を寄せてきた。
「……えへへ……」
「…………」
……あ。
なるほど。
こうなるんだ。
ミリアは、僕の服をぎゅっと掴んだまま、離れようとしない。
「……アレン、あったかい……」
「……そ、そう?」
「……うん……」
……へえ。
さっきまで、あんなに人見知りしていたのに。
今では、すっかり懐いている。
……本当に、便利な力だな。
「……アレン」
「……はい?」
「……だいすき……」
「……あ、ありがとう」
……うん。
なかなか、可愛いじゃないか。
僕は、ミリアの頭を軽く撫でた。
すると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「……えへへ……」
……なるほど。
ぬいぐるみと同じくらい好きになるって、こういうことなんだな。
……まあ。
悪くないかな。
◇◆◇
それから、しばらくして。
「はっはっは! ミリアがここまで誰かに懐くとはな!」
「……あ、はは……」
僕は、領主と一緒に夕食を食べていた。
目の前には、豪華な料理が並んでいる。
肉料理。
焼きたてのパン。
色とりどりの野菜。
それから、見たことのない果物まで。
……すごい。
こんな豪華な食事、初めてかもしれない。
そして、僕の隣にはミリアが座っていた。
もちろん、白いクマのぬいぐるみも一緒だ。
「……アレン」
「……ん?」
「……あーん……」
「…………」
……え?
ミリアは、小さなフォークに刺した料理を、僕の口元へ差し出していた。
……いや。
別に、自分で食べられるんだけど。
「……アレン……?」
ミリアが、不安そうに僕を見つめる。
「……あ、ありがとう」
僕は、差し出された料理を口に運んだ。
すると、ミリアは嬉しそうに笑った。
「……えへへ……」
「はっはっは! 仲がよいな!」
領主は、心底嬉しそうだった。
「ミリアは昔から人見知りでな! まさか、こんなに早くアレンと仲良くなるとは!」
「……そうなんですか」
「うむ! アレン! これからも、ミリアと仲良くしてやってくれ!」
「……あ、はい。もちろんです」
「そうか! そうか!」
……本当に、いいお父さんだな。
少なくとも、僕にとっては。
……まあ。
さっきまで、僕を牢屋に入れていたんだけど。
僕は、目の前の料理を口に運んだ。
……おいしい。
うん。
やっぱり、お金持ちの家はいいな。
食べ物もおいしいし。
部屋も広いし。
使用人もたくさんいる。
……それに。
この領主は、僕のことを娘と同じくらい大切に思っている。
つまり。
ここにいれば、生活に困ることはなさそうだ。
……ふふっ。
これは、いい場所を見つけたな。
◇◆◇
夜。
僕は、屋敷の廊下を歩いていた。
……疲れた。
本当に、疲れた。
今日は、いろいろありすぎた。
異世界に召喚されて。
草原を歩いて。
街に入って。
女の子とぶつかって。
牢屋に入れられて。
それから、領主に気に入られて。
……うん。
改めて考えても、すごい一日だな。
僕は、小さくあくびをした。
……早く寝たい。
領主は、僕のために立派な客室を用意してくれたらしい。
……ありがたいな。
そう思っていた、そのとき。
「……アレン」
「……ん?」
服の裾が、小さく引っ張られた。
振り返る。
そこには、ミリアが立っていた。
白いクマのぬいぐるみを抱え、こちらを見上げている。
「……どうしたの?」
「……いっしょ……」
「……え?」
「……いっしょに、ねたい……」
「…………」
……一緒に?
僕は、少し考えた。
……まあ。
別に、いいけど。
でも、さすがに領主に怒られないかな。
……いや。
今の領主なら、大丈夫か。
「……えっと、お父さんに聞いてみようか」
「……うん……!」
ミリアは、嬉しそうに頷いた。
……そして。
「もちろん構わんとも!」
「……あ、いいんですか?」
「うむ! ミリアがここまで誰かに懐くのは珍しいことだからな!」
領主は、満面の笑みを浮かべていた。
「それに、アレンなら安心だ!」
「……あ、ありがとうございます」
「はっはっは! 遠慮するな!」
……本当に。
何でもありだな。
僕は、ミリアに手を引かれながら、彼女の部屋へ向かった。
◇◆◇
「…………」
ふかふかのベッド。
柔らかい枕。
暖かい毛布。
そして、僕の隣には、銀白色の髪をした可愛らしい少女がいる。
……うん。
なかなか、いい寝心地だ。
ミリアは、白いクマのぬいぐるみを枕元に置き、代わりに僕の腕をぎゅっと抱きしめていた。
「……アレン」
「……ん?」
「……あったかい……」
「……そ、そう?」
「……うん……」
ミリアは、嬉しそうに頬を寄せてきた。
……なるほど。
僕は、完全に抱き枕扱いされているらしい。
……まあ。
別に、悪くないけど。
「……アレン」
「……はい?」
「……だいすき……」
「……ありがとう」
「……ずっと、いっしょ……」
「……うん」
ミリアは、満足そうに微笑んだ。
そして、しばらくすると、小さな寝息を立て始めた。
「…………」
……寝ちゃった。
僕は、天井を見上げた。
……それにしても。
今日は、本当にいろいろあったな。
異世界に来て、まだ一日も経っていない。
それなのに。
寝る場所も。
食事も。
お金も。
それから、僕を大切にしてくれる人たちまで。
全部、手に入ってしまった。
……ああ。
なるほど。
何も、最初から全部自分で用意する必要なんてないんだ。
持っている人から、もらえばいい。
もちろん。
本人が、喜んで差し出してくれるようにしてから。
「……ふふっ」
僕は、小さく笑った。
ミリアが、寝ぼけたように僕の腕を抱きしめ直す。
「……んぅ……アレン……」
「…………」
……うん。
なかなか、可愛いじゃないか。
僕は、空いている方の手で、ミリアの頭を軽く撫でた。
……さて。
とりあえず。
最初の居場所は、手に入った。
それも、思っていたよりずっといい場所だ。
領主の屋敷。
豪華な食事。
何不自由ない生活。
そして、僕のことを大切に思ってくれる領主と、その娘。
……うん。
悪くない。
むしろ、最高だ。
僕は、ゆっくりと目を閉じた。
……さて。
明日は、何を手に入れようかな。




