第一話:邪神に選ばれた少年
僕の名前は、黒瀬アレン。
十七歳。どこにでもいる、ごく普通の高校生だ。
……いや、普通というには、少しばかり変わっているかもしれない。
何しろ、僕には友達と呼べるような人間がほとんどいない。
別に、いじめられているわけではない。
ただ、人と話すのが苦手なのだ。
それに、僕の目は生まれつき赤い。
黒目の部分まで赤く染まった、まるで血のような色の瞳。
昔から、その目を気味悪がられることが多かった。
だから、今では長い前髪で目元を隠している。
おかげで視界は少し悪いけれど、他人からじろじろ見られるよりはずっといい。
そんなわけで、僕は学校でもあまり目立たない存在だった。
「黒瀬くん、今日の日直の仕事、もう終わった?」
「……あ、うん。終わったよ」
「そっか。ありがとね!」
「……うん」
放課後。
クラスメイトの女子に声をかけられ、僕は小さく頷いた。
彼女はそれだけ言うと、友達のところへ戻っていく。
教室には、楽しそうな話し声が響いていた。
今日の帰りにどこへ寄るだとか、週末は何をするだとか。
そんな、ありふれた会話。
僕には、あまり縁のないものだ。
……まあ、別にいいけど。
鞄を肩にかけ、僕は一人で教室を出た。
廊下を歩き、階段を下り、昇降口で靴を履き替える。
校門を出れば、いつもと変わらない帰り道。
空は青く、秋らしい涼しい風が吹いていた。
……今日も、何もない一日だったな。
そんなことを考えながら、僕は家へと向かった。
◇◆◇
「……ただいま」
家に帰り、いつものように声をかける。
返事はない。
まあ、今の時間なら誰もいないので当然だ。
僕は靴を脱ぎ、廊下を歩いて自分の部屋へ向かった。
今日は特に予定もない。
適当に動画でも見て、夕食を食べて、風呂に入って寝る。
いつもどおりの一日が、いつもどおりに終わるはずだった。
……そのときまでは。
「……ん?」
突然、足元が光った。
見下ろすと、床に見慣れない模様が浮かび上がっている。
円形の中に、複雑な文字や図形が描かれた、いかにも魔法陣らしいもの。
「……え?」
何これ。
そう思った瞬間、光が一気に強くなった。
「……ちょ、ちょっと!?」
逃げようとした。
けれど、遅かった。
視界が真っ白に染まり、足元の感覚が消える。
まるで、身体ごとどこかへ引っ張られていくような感覚。
そして――。
「ふははははっ! よく来たのう、人間よ!」
「…………え?」
気づけば、僕は見知らぬ場所に立っていた。
白い床。
白い柱。
どこまでも続いているように見える、不思議な空間。
……どこ、ここ。
そして、目の前には一人の少女がいた。
年齢は、十歳くらいだろうか。
腰よりも長い銀白色の髪に、紫色の瞳。
頭には小さな角が生えており、黒と紫を基調とした、フリルの多いドレスを着ている。
まるで、人形のように可愛らしい少女だった。
そんな少女が、胸を張って偉そうに笑っている。
「ふふん! 驚いて声も出ぬようじゃな!」
「……あ、えっと……」
「よいよい! 無理もない! 何しろ、おぬしは今、偉大なる神の御前におるのじゃからな!」
「……神?」
「そうじゃ!」
少女は、びしっと自分を指差した。
「妾こそが、偉大なる邪神リリスティアじゃ!」
「…………」
……邪神?
神様じゃなくて?
「……あの、邪神って……」
「うむ! 邪神じゃ!」
「……悪い神様、ってことですか?」
「なっ!?」
少女は、なぜかものすごく驚いた顔をした。
「ち、違うのじゃ! 邪神というのは、神界における警告処分の呼称であって、妾が悪い神というわけでは……!」
「……はあ」
「そ、そもそも妾は悪くないのじゃ! 全部あの女が……!」
そこから、少女――リリスティアは、ものすごい勢いで話し始めた。
何万年もかけて育てた世界がどうとか。
神界の掟がどうとか。
アストレイアという女神がどうとか。
……正直、話が長い。
しかも、話している途中で何度も怒ったり、泣きそうになったりするものだから、なかなか話が進まなかった。
僕は適当に相槌を打ちながら、彼女の話を聞き続けた。
「――というわけで! 妾は、あの女に復讐してやると決めたのじゃ!」
「……はあ」
……なるほど。
長々と説明されたけれど、要するにこういうことらしい。
このちっこい神様は、自分が大切にしていた世界を、別の神様に勝手に消されてしまった。
それが腹立たしいので、自分の代わりにその神様が管理している世界をめちゃくちゃにしてほしい。
……ということらしい。
なんとも、見た目どおりの幼稚な考えだ。
そもそも、どうして僕なのだろう。
僕は、ただの高校生なのに。
「……あの、それで、僕は何をすればいいんですか?」
「決まっておろう!」
リリスティアは、再び胸を張った。
「おぬしには妾の眷属となり、アストレイアの世界をめちゃくちゃにしてもらうのじゃ!」
「……えっと」
「ふふん! 光栄に思うがよい!」
「……拒否したら、どうなるんですか?」
「む?」
リリスティアが首を傾げる。
「おぬし、妾の頼みを断るつもりか?」
「……い、いえ。そういうわけでは……」
「ならば問題ないのじゃ!」
「…………」
……どうやら、拒否権はないらしい。
困ったな。
勝手に連れてこられた挙げ句、知らない世界をめちゃくちゃにしてこいだなんて。
……まあ。
今さら何を言っても、帰してもらえそうにないけれど。
「じゃが、安心するがよい!」
リリスティアは、にやりと笑った。
「妾とて、何の力も持たぬ人間を、そのまま送り込むほど愚かではない!」
「……え?」
「特別に、妾の権能を一つ分け与えてやるのじゃ!」
……権能?
「……それって、魔法みたいなものですか?」
「まあ、似たようなものじゃな! ただし、普通の魔法とは比べものにならぬほど強力な力じゃ!」
「……へえ」
「その名も――《睡眠学習》じゃ!」
「…………」
……睡眠学習?
なんだか、随分と平和そうな名前だ。
寝ている間に勉強でもできるのだろうか。
「ふふん! その顔、驚いておるな!」
「……あ、はい」
「よい反応じゃ! では、特別に説明してやろう!」
リリスティアは得意げに人差し指を立てた。
「まず、この権能を使えば、相手を自由に眠らせることができるのじゃ!」
「……眠らせる?」
「そうじゃ! そして、好きなときに目覚めさせることもできる!」
「……なるほど」
「じゃが、それだけではないぞ!」
リリスティアは、さらに胸を張った。
「眠っておる相手に命令を与えることで、目覚めた後もその命令を絶対に守らせることができるのじゃ!」
「…………」
……ん?
それって。
「……あの、少し質問してもいいですか?」
「うむ! 何でも聞くがよい!」
「……例えば、僕のことを信用するように命令したら、その人は僕を信用するようになるんですか?」
「もちろんじゃ!」
「……元々、僕のことを嫌っていたとしても?」
「関係ないのじゃ! そう認識するように植え付ければよい!」
「……なるほど」
……それは、すごいな。
「……じゃあ、僕のことを昔からの友達だと思わせることも?」
「できるぞ!」
「……実際には、一度も会ったことがなくても?」
「うむ! そのような記憶を植え付けてしまえばよいのじゃ!」
「…………」
……記憶まで。
「……じゃあ、僕の命令を何でも聞くようにすることもできますか?」
「当然じゃ! ただし、相手の身体能力を超えることをさせたり、存在しないものを生み出したりすることはできぬぞ」
「……つまり、相手の考え方や行動を変えることはできても、現実そのものを変えることはできないんですね」
「そのとおりじゃ!」
「……なるほど」
僕は、少し考えた。
……それなら。
「……同じ相手に、何度も使うことは?」
「何度でも使えるぞ!」
「……一度命令した内容を、後から変更することも?」
「もちろんじゃ!」
「……使用回数に制限は?」
「ないのじゃ!」
「……眠らせた相手は、自分が眠らされたことを覚えているんですか?」
「それは、眠る前後の記憶をどう扱うかによるのう。気づかれたくなければ、そのように記憶を整えればよい!」
「…………」
……へえ。
それは。
ずいぶんと、便利そうな力だ。
「ふふん! どうじゃ! すごいじゃろう!」
「……はい。すごいですね」
「そうじゃろう、そうじゃろう!」
リリスティアは、嬉しそうに笑った。
……この神様。
随分と得意げだけれど。
自分がどんな力を渡そうとしているのか、本当に分かっているのだろうか。
まあ、別にいいけど。
「……あの、ちなみに」
「なんじゃ?」
「……僕自身が強くなったりはしないんですか?」
「む? 身体能力のことか?」
「……はい」
「それは変わらぬぞ」
「……え?」
「妾が与えるのは《睡眠学習》だけじゃ。おぬし自身の身体能力や魔法の才能が強化されるわけではない」
「……そう、ですか」
……少し残念だ。
せっかく異世界に行くのだから、剣や魔法で戦えるようになってもよさそうなのに。
「……他の力をもらうことは、できないんですか?」
「む? できぬことはないが……」
リリスティアは、少し考えるように顎に手を当てた。
「……いや、やめておいた方がよいのう」
「……どうしてですか?」
「おぬしにあまり多くの力を与えてしまうと、あやつに不審に思われるかもしれんからのう」
「……あやつ?」
「アストレイアじゃ! 妾が直接あの世界に干渉できぬ以上、妾の仕業だと気づかれるわけにはいかぬのじゃ!」
「……なるほど」
「そもそも、神の権能を一つ分け与えるだけでも、かなり大盤振る舞いなのじゃぞ? 感謝するがよい!」
「……あ、ありがとうございます」
「うむうむ!」
リリスティアは、満足そうに頷いた。
……つまり、あまり目立つ力を与えると、復讐しようとしている相手に気づかれるかもしれない、ということか。
……まあ、そういうことなら仕方ない。
それに、よく考えてみれば。
僕自身が強くなる必要なんて、ないのかもしれない。
強い人がいるなら、その人を従わせれば済む話なのだから。
「……それで、どうやって使うんですか?」
「対象を認識し、眠らせようと意識すればよい。声に出して命じれば、より分かりやすかろう」
「……なるほど」
「眠った相手には、言葉で命令や認識を植え付けるのじゃ。あとは目覚めさせれば、それが相手にとって当然のこととなる」
「……分かりました」
「うむ! 理解が早くて助かるのじゃ!」
リリスティアは満足げに頷いた。
「では、早速おぬしに権能を授けるとしよう!」
そう言って、僕の額に小さな手を伸ばしてきた。
次の瞬間。
何かが、身体の奥へと流れ込んでくるような感覚があった。
「……っ!」
思わず目を閉じる。
しかし、痛みはない。
ただ、今まで存在しなかった何かが、自分の中に加わったような。
そんな、不思議な感覚だった。
「ふふん! これで完了じゃ!」
「……もう、ですか?」
「うむ! これでおぬしは《睡眠学習》を使えるようになったのじゃ!」
「……そうですか」
僕は、自分の手を見下ろした。
見た目には、何の変化もない。
……本当に使えるのかな。
まあ、試してみれば分かるか。
「さて! それでは、そろそろ送り込むとするかのう!」
「……え?」
リリスティアが、ぱちんと指を鳴らした。
すると、僕の服が一瞬で変わった。
「……えっ!?」
制服が消え、代わりに黒い衣装を身にまとっている。
黒い上着に、黒いズボン。
足元には、しっかりとした革製のブーツ。
そして、全身を覆う大きなフード付きのローブ。
内側には暗い赤色の布が使われており、ところどころに金属製の装飾まで付いている。
……何これ。
ものすごく怪しいんだけど。
「ふふん! どうじゃ!」
リリスティアは、得意げに両手を腰に当てた。
「邪神の眷属に相応しい、実に格好よい衣装じゃろう!」
「……あの」
「なんじゃ?」
「……これ、目立ちませんか?」
「む?」
「……いや、なんというか、怪しい人に見えそうな……」
「何を言っておる! 邪神の眷属なのじゃから、多少は怪しい方がよいに決まっておろう!」
「…………」
……そういうものなのかな。
いや、絶対に違うと思う。
でも、言っても無駄そうだ。
「では、準備は整ったのう!」
「……えっと、ちょっと待ってください」
「今度はなんじゃ?」
「……向こうの世界って、どんなところなんですか?」
「む? 人間や魔物が暮らしておる、ごく普通の異世界じゃ!」
「……普通の異世界」
「うむ! 魔法もあれば、剣もあるぞ!」
「……なるほど」
……ファンタジーの世界、ということか。
「それと、何かあったらあなた様に連絡とかしても――」
「……むっ!? もうこんな時間ではないか!」
「……え?」
「いかんいかん! こんなところで長々と喋っておっては、他の神に見つかってしまうかもしれぬ!」
「…………」
……いや。
長々と喋っていたのは、お前だろ。
「妾はただでさえ邪神の呼称を与えられておるのじゃ! これ以上、神界の掟を破ったことが知られれば、追放されてしまう!」
「……あ、あの……」
「そんなことになっては大変じゃ! さっさと送り込まねば!」
……人の話、聞いてないな。この神様。
「では、行ってくるがよい!」
「……え?」
「妾の復讐、期待しておるぞ!」
「……ちょっ、まだ話が――」
「ふははははっ! あの女の世界を、思いっきりめちゃくちゃにしてくるのじゃ!」
リリスティアが、勢いよく両手を広げた。
すると、僕の足元に巨大な魔法陣が現れる。
「……ま、待っ――!」
次の瞬間。
僕の視界は、再び真っ白に染まった。
◇◆◇
「…………」
……風が、気持ちいい。
そんなことを考えながら、僕はゆっくりと目を開けた。
そこに広がっていたのは、一面の草原だった。
「……え?」
青い空。
白い雲。
どこまでも続く緑の大地。
遠くには山らしきものも見える。
……本当に、異世界に来ちゃったんだ。
僕は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
辺りを見回してみる。
人の姿はない。
建物もない。
道らしいものすら見当たらない。
「…………」
……いや。
ちょっと待って。
「……ここ、どこ?」
当然、返事はない。
……あの神様。
せめて、街の近くに送ってくれてもよかったんじゃないかな。
僕は、小さくため息をついた。
とはいえ、いつまでもここにいても仕方がない。
とりあえず、どこかに人がいないか探してみよう。
そう思い、僕は歩き始めた。
……それから、しばらくして。
「……はあ、はあ……」
……疲れた。
普通に疲れた。
歩いても歩いても、草原ばかり。
途中で何度か休憩を挟んだけれど、なかなか人のいる場所が見つからない。
……やっぱり、身体能力は変わっていないみたいだ。
まあ、当然か。
あの神様も、そう言っていたし。
僕は額の汗を拭い、再び歩き出した。
すると。
「……あれ?」
遠くに、何かが見えた。
目を凝らしてみる。
……壁?
いや、違う。
あれは……。
「……街?」
大きな城壁に囲まれた、立派な街だった。
壁の向こうには、いくつもの建物の屋根が見えている。
……よかった。
ようやく、人のいる場所を見つけた。
僕は、少しだけ足を速めた。
◇◆◇
街の入り口には、大きな門があった。
門の前には何人かの兵士らしき人たちが立っており、出入りする人々を確認している。
……門番、かな。
僕は、何となくフードを深く被り直した。
ただでさえ目立つ赤い目をしているのだ。
できれば、あまり顔を見られたくない。
……もっとも。
この格好の時点で、十分目立っている気もするけれど。
そんなことを考えながら門へ近づくと、案の定、声をかけられた。
「おい、そこのお前!」
「……え?」
「止まれ!」
大柄な門番が、僕の前に立ちはだかった。
鎧を身につけ、腰には剣を下げている。
……怖い。
普通に怖いんだけど。
「その格好は何だ?」
「……あ、えっと……」
「随分と怪しいな。フードを取って顔を見せろ」
「……はい」
僕は、おずおずとフードを下ろした。
しかし、長い前髪はそのままだ。
門番は、僕の顔をじろじろと見つめた。
「……目元が見えんぞ」
「……す、すみません」
「まあいい。それより、身分証を出せ」
「……身分証、ですか?」
「当たり前だろう。街へ入るなら、身分を確認する必要がある」
「…………」
……困った。
そんなもの、持っているわけがない。
僕は、ついさっき異世界に来たばかりなのだから。
「……持っていないのか?」
「……えっと、その……」
「おいおい。身分証もなしに、そんな怪しい格好で街に入ろうってのか?」
「……す、すみません」
門番の声が、少し厳しくなる。
……どうしよう。
このままだと、街に入れないかもしれない。
それどころか、怪しい人間として捕まってしまう可能性もある。
……それは困るな。
せっかく、ここまで歩いてきたのに。
僕は、何か方法がないか考えた。
……そして。
ふと、思い出した。
そういえば。
あの邪神様から、変な能力をもらったんだっけ。
確か、名前は……。
《睡眠学習》。
相手を眠らせて、命令や認識を植え付ける能力。
……そうだ。
あれを使えばいいんじゃないかな。
「……おい、聞いているのか?」
「……あ、はい」
「身分証がないなら、事情を説明してもらうぞ」
「……えっと」
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
長い前髪の隙間から、門番の顔を見つめる。
……試してみよう。
うまくいくかは分からないけれど。
たぶん、大丈夫だろう。
「……眠れ」
「……は?」
その瞬間。
前髪の奥に隠れた僕の瞳が、真紅に輝いた。
そして。
「…………」
門番の身体が、ぐらりと揺れた。
そのまま、力が抜けたように膝をつく。
「……え?」
僕は、思わず声を漏らした。
……本当に、眠った?
門番は目を閉じ、規則正しい寝息を立てている。
まるで、深い眠りに落ちているかのようだった。
……すごい。
本当に使えたんだ。
僕は、周囲をちらりと見回した。
幸い、他の門番たちは少し離れた場所で別の人たちの対応をしている。
こちらを気にしている様子はない。
……今のうちに、済ませよう。
僕は、眠っている門番に向かって、小さな声で話しかけた。
「……僕は、この街に昔から住んでいる普通の住民です」
「…………」
「……あなたは、僕のことを知っています」
「…………」
「……だから、僕が街に入ることに何の問題もありません。身分証を確認する必要もありません」
眠ったままの門番は、何も答えない。
……これでいいのかな。
あの邪神様は、眠っている間に命令すればいいと言っていたけれど。
まあ、試してみれば分かるか。
「……それから、今のやり取りも、特に不自然なことはなかったと認識してください」
僕は、少し考えてから付け加えた。
「……起きろ」
その瞬間。
「……ん?」
門番が、ゆっくりと目を開けた。
そして、何事もなかったかのように立ち上がる。
「……おお、なんだ。お前か」
「……え?」
「どうした? こんなところで突っ立って」
「……あ、えっと……」
「早く入れよ。後ろがつかえるだろ」
「…………」
……本当に?
僕は、恐る恐る門を指差した。
「……入っても、いいんですか?」
「はあ? 何を言ってるんだ?」
門番は、不思議そうに首を傾げた。
「お前、この街の住民だろ?」
「…………」
「別に、止める理由なんかないだろうが」
「……あ、はい」
僕は、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「おう。気をつけてな」
門番は、それだけ言って持ち場へ戻っていった。
僕は、その背中を見つめたまま、しばらく動けなかった。
……すごい。
本当に、僕のことを街の住民だと思っている。
それも、何の疑いもなく。
……いや。
違う。
あの人にとっては、僕がこの街の住民であることが、最初から当たり前の事実になっているんだ。
……へえ。
僕は、ゆっくりと門をくぐった。
そして、街の中へ足を踏み入れる。
石畳の道。
立ち並ぶ店。
行き交う人々。
聞き慣れない服装の人たちが、楽しそうに会話をしている。
……異世界の街だ。
本当に、異世界なんだ。
でも。
今の僕にとっては、そんなことよりも。
もっと、ずっと気になることがあった。
「…………」
僕は、背後の門を振り返った。
先ほどの門番は、何事もなかったかのように仕事を続けている。
僕のことなど、もう気にも留めていない。
……ふふっ。
思わず、笑みがこぼれた。
……本当に、すごいな。
たった一言で、相手を眠らせることができる。
そして、眠っている間に命令すれば、目覚めた後もその命令に従ってくれる。
記憶も、認識も、自由に変えられる。
しかも、何度でも。
……つまり。
この力があれば。
どんな相手でも、僕の思いどおりにできるということだ。
もちろん、僕自身が強くなったわけではない。
今の僕は、ただの高校生と変わらない。
剣を持った兵士と戦えば、きっと簡単に負けてしまうだろう。
……でも。
戦う必要なんて、ないんじゃないかな。
強い人がいるなら、その人を従わせればいい。
お金を持っている人がいるなら、その人に僕のことを大切に思わせればいい。
偉い人がいるなら、その人に僕の言うことを聞かせればいい。
……そうすれば。
僕は、何もしなくてもいい。
全部、他の人がやってくれる。
「……ふふっ」
また、笑みがこぼれた。
……なんだ。
こんなに簡単だったんだ。
今まで、僕には何の力もなかった。
欲しいものがあっても、手に入らない。
誰かに何かをしてほしくても、言うことを聞いてもらえるとは限らない。
だから、ずっと想像するだけだった。
もしも、何でも思いどおりにできたら。
もしも、誰も僕に逆らわなかったら。
もしも、この世界のすべてが、僕のものになったら。
……そんな、くだらない空想。
でも。
今なら。
この力があれば。
お金も。
地位も。
権力も。
何もかも、手に入る。
それこそ、王様にだってなれるかもしれない。
……いや。
王様だけじゃ、もったいないか。
だって。
この世界には、きっとたくさんの国がある。
たくさんの人がいる。
たくさんの、僕の知らないものがある。
……全部。
全部、欲しいな。
「……ふふふっ」
僕は、口元を手で隠した。
……ああ。
そうか。
あの邪神様は、僕に世界をめちゃくちゃにしてほしいと言っていたっけ。
……それなら。
別に、遠慮する必要もないよね。
だって、僕は頼まれただけなんだから。
……そうだ。
もし何か問題が起きたとしても、全部あの邪神様の責任にすればいい。
僕は、言われたとおりにしただけ。
……うん。
それでいい。
僕は、ゆっくりとフードを被り直した。
長い前髪の奥で、真紅の瞳が静かに輝く。
そして、賑やかな街並みを眺めながら、小さく呟いた。
「……まずは、この街からかな」
誰にも聞こえないほど、小さな声で。
僕は、笑った。
……ああ。
この世界。
とても、気に入った。




