第9話「五年分の練習の成果を、本番でお見せください」
フェルゼン外交館の正門に、ヴァルナウ侯爵家の紋章をつけた馬車が止まった。
コンラートが馬車を降りた時、最初に目に入ったのは門の脇の石板だった。フェルゼン語で何か刻まれている。読めなかった。五年間、婚約者がフェルゼン語を操るのを見ていたのに、自分は一文字も学ばなかった。
館の入口で、書記官に面会を申し入れた。
「リーゼル・フォン・ブラント嬢に、お目にかかりたい。ヴァルナウ侯爵家のコンラートと伝えてくれ」
書記官は丁寧に頭を下げて、奥へ消えた。
待つ間、廊下の奥から声が聞こえた。
フェルゼン語だった。女の声。流れるように自然な発音。抑揚に温かみがある。かつて晩餐会の広間で聞いた声だ。あの頃は背景の一部だった。来賓と何か話している令嬢。自分に関係のない音。
今、その声が、会議室の中から聞こえている。
コンラートは廊下を数歩進んで、開いたままの会議室の扉の前に立った。
リーゼルがいた。
長机の向こう側に座って、フェルゼン語の書類を手に、隣の男と議論している。栗色の髪を後ろに流した長身の男——ゼードルフ伯。二人の間に資料が広げてあり、リーゼルが書類の一箇所を指し示しながら、早口で何かを説明している。ゼードルフ伯がうなずき、反論し、リーゼルがさらに反論する。
対等だった。
リーゼルが意見を言い、相手が真剣にそれを聞いている。コンラートは、リーゼルのこういう顔を見たことがなかった。目が光っている。声に芯がある。五年間、書類から顔を上げずに「ああ」と答えていた自分は、この顔を一度も見なかった。
——あれが、練習?
その言葉が、頭の中で鳴った。自分の声で。ザビーネの声で。
あの五年間で、この女はこれだけのことをやっていたのだ。三ヶ国語を操り、外交の機微を読み、来賓の文化を理解して、交渉の裏にある意図を汲む。それを「練習」と呼んだ。「子爵令嬢にはこれで十分だろう」と窓のない控え室を与えた。
コンラートは廊下の壁に背を預けた。足元が冷たかった。
リーゼルが書類を閉じて立ち上がった。ゼードルフ伯が何か言い、リーゼルが笑った。見たことのない笑みだった。五年間、晩餐会で浮かべていた作り笑いとも、婚約解消の日の歪んだ笑みとも違う。力が抜けた、自然な笑い。
あんな顔をする女だったのか。
コンラートは自分が知らなかったものの大きさに、初めて気づき始めていた。知らなかった、のではない。知ろうとしなかった。書類から顔を上げれば見えたはずのものを、五年間、一度も見上げなかった。
◇
リーゼルは、コンラートが来たことを書記官から聞いた。
胸が一瞬だけ締まった。痛みではなかった。もっと古い感覚。五年間の習慣が、身体の奥に残している反射だ。コンラートの名前を聞くと、報告の手順を頭の中で組み立て始める。大使の反応、交渉の進捗、来月の予定——。
その反射を、意識して止めた。
もう、報告する相手ではない。
「応接室にお通ししてあります」
「分かりました」
ニクラスが「同席しましょうか」と聞いた。リーゼルは首を横に振った。
「一人で大丈夫です」
「分かりました」
それだけだった。心配の色を見せなかった。リーゼルの判断を信じている顔だった。
応接室に入ると、コンラートが窓際に立っていた。振り返った顔は、以前と少し違っていた。痩せた、というのとは違う。余裕がなくなった顔だ。侯爵家嫡男の堂々とした風采の下に、何かが揺らいでいる。
「リーゼル」
呼び捨てだった。婚約解消の手紙では「殿」だったのに、直接会うと昔の呼び方に戻っている。この人は、自分とリーゼルの距離がもう変わったことを理解していない。
「コンラート様。ご用件を伺います」
リーゼルは向かいの椅子に座った。立っていてもよかったが、座った方が冷静でいられる。膝の上で手を組んだ。あの応接室で婚約解消を告げた時と、同じ姿勢だった。あの時よりも、指の力は弱い。もう、爪を掌に食い込ませる必要がない。
コンラートは椅子に座らなかった。立ったまま、言った。
「あれは、本気だった」
リーゼルは黙って待った。
「練習のつもりなんてなかった。お前との婚約は、最初から本気だった。ザビーネが何を言ったかは知っているが、俺は——俺は、そう思ったことはない」
声が少し震えていた。この人が声を震わせるのを、リーゼルは初めて聞いた。
「戻ってきてほしい。侯爵家には、お前の力が必要だ」
力が必要だ。
また、それだ。
リーゼルは一つ息を吸った。静かに、穏やかに。来賓に挨拶するのと同じ温度で——いいえ、もうその温度ではない。自分の温度で。
「コンラート様。一つ、伺ってもよろしいですか」
「何だ」
「本気だったのに、ザビーネ様が"練習台"と笑った時、なぜ否定してくださらなかったのですか」
コンラートの目が泳いだ。あの夜と同じだ。婚約解消の時と同じ、言葉が出てこない顔。
「あれは——その場の流れで——」
「本気だったのに、なぜ一度も、私の接待を見にいらしてくださらなかったのですか。大使の名前すら覚えていらっしゃらなかった。私が三ヶ国語で何をしていたか、五年間、一度もご覧にならなかった」
コンラートの口が開いて、閉じた。
「本気だったのに、お手紙には『戻ってきてほしい』とだけ書いて、『申し訳なかった』とは一言もお書きくださいませんでしたね」
沈黙が落ちた。
応接室の時計が秒を刻んでいる。窓の外でフェルゼンの国旗が風に鳴っている。その音だけが、部屋を満たしていた。
コンラートは答えなかった。
三つの問いに、一つも答えられなかった。
否定しなかったのは、心のどこかでそう思っていたからだ。見に来なかったのは、見る価値がないと思っていたからだ。謝らなかったのは、謝る必要があると気づかなかったからだ。
それが、「本気」の正体だった。
リーゼルは立ち上がった。
「コンラート様。五年分の"練習"の成果を、どうぞ本番でお見せください」
声は震えなかった。
「私はもう、練習台ではありません」
コンラートの顔から、何かが落ちた。侯爵家嫡男の自信でも、婚約者を取り戻す算段でもなく、もっと根本的なもの——自分はまだ取り返せるという思い込みが、砕けた顔だった。
「リーゼル——待ってくれ」
コンラートが一歩前に出た。初めて、この人がリーゼルに向かって歩み寄った。五年間、一度もしなかったことを、失ってからようやくしている。
「俺が間違っていた。認める。だから——」
「コンラート様」
リーゼルは振り返った。穏やかな目で、元婚約者を見た。
「あなたが間違っていたことは、私はもうずっと前に知っています。あなたが今それを認めてくださったことには、感謝します」
コンラートの目に、一瞬だけ光が戻った。まだ間に合うと思った目だ。
「でも、謝罪は"取り戻す手段"ではありません。私が欲しかったのは、取り戻すための言葉ではなく、ただ——ただ、あの五年間が無駄ではなかったと、一言だけ言ってもらうことでした。今のあなたの謝罪には、それがありません。困ったから謝っているだけです」
コンラートの口が開いて、何も出ずに閉じた。図星だったのだ。
「失礼いたします」
振り返らなかった。あの日と同じだ。でも、あの時とは違う。あの時は、振り返りたい気持ちを堪えていた。今は、振り返る理由がない。
◇
コンラートが外交館を去った後、ローレンツから手紙が届いた。
短い文面だった。ローレンツらしい、必要なことだけを書いた手紙。
——兄上に関して、お伝えすべきことがあります。
ブリュール公爵家から、ザビーネ様との婚約を取り消す旨の通達があったそうです。理由は「外交力のない侯爵家に娘は渡せない」とのこと。ザビーネ様は公爵邸にお戻りになりました。
兄上は書斎に籠もっています。
最後に、私事で恐縮ですが、一つだけ。リーゼル殿のフェルゼン語の教本を、まだお借りしたままです。いつかお返しに参ります。
リーゼルは手紙を折り畳んだ。
ザビーネとの婚約も、破談になった。「外交力のない侯爵家」——その外交力が誰によって支えられていたかを、ブリュール公爵家は正確に見ていたのだろう。ザビーネの父親は、娘の行く先の価値を計算する人だ。リーゼルがいた頃の侯爵家と、いなくなった後の侯爵家は、公爵家の目には別の家に映ったに違いない。
コンラートは本命も練習台も、両方を失った。あるいは、最初からどちらも「持っていた」と思い込んでいただけなのかもしれない。人は、手の中にあるものを握っていなければ、持っているとは言えない。コンラートは五年間、リーゼルを手の中に置きながら、一度も握らなかった。
ローレンツの追伸が、胸に小さく響いた。教本を返しに来る。この人だけは、借りたものを返そうとしている。
リーゼルは窓辺に立った。フェルゼンの街並みが夕日に染まっている。赤い屋根と白い壁が、秋の光の中で柔らかく光っている。
「……終わったんだ」
声に出した。小さな声だった。五年間が、本当に終わった。練習台と呼ばれた日も、窓のない控え室も、書類から顔を上げない婚約者も、全部。
背後で、扉の外から声がした。
「終わったのではなく、始まるんです」
ニクラスの声だった。扉は閉まったままだ。入ってこない。リーゼルが泣いているかもしれないと思って、顔を見ないでいてくれている。
泣いていなかった。
でも、目の奥は少しだけ熱かった。悲しいからではない。安堵だった。長い長い冬が終わって、ようやく春が見えた時の、あの温かさ。
「……ニクラス」
初めて、敬称なしで呼んだ。
扉の向こうで、小さな沈黙があった。それから、穏やかな声。
「はい」
それだけで、リーゼルは笑った。泣き笑いではない。歪んでもいない。ただ、嬉しくて笑った。
この笑みには、練習の成果など一切含まれていなかった。




