第8話「あなたの言葉は、通訳しなくても伝わります」
秋が深くなっていた。
フェルゼン外交館の窓から見える街路樹が色づいて、朝の光が赤と金で会議室を染めている。リーゼルはその光の中で、机に広げた書類を指で追っていた。
「この条件では、フェルゼン側の穀物商に不利益が生じます」
向かいに座ったニクラスが、書類の一行を指で示した。
「港湾の使用料引き下げで浮いた分を穀物の輸出補助に回す案ですが、補助の対象が大口商人に限定されています。小規模な商人が排除される」
「排除はされません。大口商人を経由して取引に参加できます」
「経由、というのは事実上の従属ではありませんか」
リーゼルは口を閉じた。反論を組み立て直す。ニクラスの指摘は正しい。経由取引は名目上の参加であって、実質的な利益は大口商人に集中する。
「……おっしゃる通りです。では、補助の対象を売上高ではなく取引回数で区切るのはどうでしょう。小規模商人は単価が低くても取引頻度が高い。回数基準なら、彼らも直接補助を受けられます」
ニクラスが書類から顔を上げた。考えている目だった。否定でも肯定でもなく、可能性を量っている目。
「取引回数の基準だと、不正な分割取引で回数を水増しする恐れがある」
「ですから、一定額以下の取引は合算して一件とする下限を設けます」
「なるほど。その下限をいくらに設定する?」
「フェルゼンの穀物市場の平均取引単価から算出します。データは書庫にあります。午後までに試算をまとめます」
ニクラスがうなずいた。
「お願いします。良い案だと思います」
良い案だと思います。その一言を、リーゼルは心の中で反芻した。
五年間、こういう時間はなかった。提案をして、反論を受けて、反論し返して、相手がまた反論して——その往復の中から、最初よりも良い答えが生まれる。コンラートとの間では、この往復が一度もなかった。「任せた」で始まり、「ああ」で終わる。その間にあるはずの議論が、すべて省略されていた。
省略されていたのではない。必要だと思われていなかったのだ。リーゼルの判断は、検討に値するものではなかった。ただ実行すればいい、と。
一度だけ、意見を言おうとしたことがある。三年前の秋、フェルゼンとの穀物取引の条件を見直す時期だった。リーゼルは大使から聞いたフェルゼン国内の不作情報を基に、「今年は売り手市場です。条件を上げられます」と進言した。コンラートは書類に目を落としたまま言った。「子爵令嬢に交渉の判断は求めていない。言葉を訳せばいい」。
あの日から、意見を言うのをやめた。求められていないのだと学んだ。自分の判断は判断ではなく、越権だと。
今、目の前にいる人は、リーゼルの判断を検討している。間違いを指摘し、良い点を認め、共に考えている。反論されることすら嬉しい。反論するということは、中身を読んでいるということだから。
その当たり前のことが、こんなにも温かい。
◇
午後、リーゼルは書庫で資料を調べた後、外交館の庭に出た。
小さな庭だった。石畳の小道の両脇に、手入れされた低木が並んでいる。奥にベンチが一つ。リーゼルはそこに座って、試算の結果を書き込んだ紙を膝の上で見直していた。
足音がした。
ニクラスが庭に出てきた。上着を脱いで、袖を少しまくっている。執務の合間の休憩らしい。手に茶碗を一つ持っている。
「リーゼル嬢」
「あ、試算はもう少しで——」
「仕事の話ではありません」
ニクラスはベンチの端に腰を下ろした。間に一人分の距離を置いて。リーゼルは紙を膝の上に伏せた。
しばらく、二人とも黙っていた。庭の木々が風に揺れて、葉擦れの音がする。外交館の中から、書記官が書類を整理する物音が微かに聞こえる。
「あなたは三ヶ国語を話せますね」
「はい」
「ドルンベルク語、フェルゼン語、アルテシア語。どの言葉も正確で、どの言葉にも温度がある」
「……恐れ入ります」
「でも、一番大切な言葉を、まだ言っていない」
リーゼルはニクラスを見た。この人の目は穏やかだけれど、今は少しだけ真剣な色を帯びている。
「何のことですか」
「自分のための言葉です」
風が止んだ。葉擦れが途切れて、ニクラスの声だけが庭に残った。
「あなたはいつも、誰かの言葉を訳しています。大使の言葉、使節の言葉、交渉相手の言葉。それを正確に、温かく、適切な形に整えて届ける。それは素晴らしい能力です。でも——」
ニクラスは茶碗を膝の上に置いた。
「あなた自身の気持ちを、あなた自身の言葉で聞いたことがない。仕事の提案はいつも的確です。でも、あなたが何を感じているか、何を望んでいるか、何が嬉しくて何が悲しいか——それを話す時だけ、声が小さくなる」
リーゼルは息を呑んだ。
見られている。自分でも気づかないふりをしてきた部分を、この人は見ている。
五年間、自分の感情を口にする機会はなかった。コンラートに「今夜もよくやってくれた」と言ってほしかった——そう思ったことは一度もなかったか。いいえ、何度もあった。でも口にしなかった。口にすれば、それが叶わない現実と向き合わなければならなかったから。
だから封じた。自分の気持ちを、自分の中にしまい込んで、来賓の言葉を訳すことに集中した。他人の言葉を訳している間は、自分の言葉を考えなくて済んだ。
「……そうかもしれません」
声が小さくなった。また、小さくなっている。
「練習台だと知っても、すぐに離れられなかった自分が、怖かったんです」
言葉が出てきた。自分でも驚くほど、自然に。
「あの夜、テラスで聞いてしまった時——すぐに婚約を解消するべきだったのかもしれません。でも、一晩かかりました。叔母に話すのにも、覚悟が要りました。五年も費やした場所を離れるのが怖かったのか、それとも、離れても誰も引き留めないと分かっていたから怖かったのか。たぶん、両方です」
ニクラスは黙って聞いていた。口を挟まなかった。急かさなかった。
「でも今は、ここにいることが正しいと思えます」
リーゼルは手元の紙を見た。穀物取引の試算が書いてある。自分が考えて、自分が提案して、対等に議論してもらえる仕事。
「あなたの隣にいると、自分の言葉で話せる気がします。訳さなくていい言葉で」
言ってしまった。仕事の相手に言う言葉ではない。でも、もう取り消す気はなかった。
ニクラスが微かに笑った。目元だけの、いつものあの笑み。
「あなたの言葉は、通訳しなくても伝わります」
リーゼルの目の奥が熱くなった。泣かないと決めたのに。全部終わらせてからだと決めたのに。
でもこれは、悲しい涙ではなかった。
ニクラスの手が、ベンチの上でリーゼルの手のすぐ近くまで来て——止まった。触れなかった。リーゼルが自分から手を伸ばすまで、この人は待つ。いつも、待つ。
リーゼルは、自分から手を伸ばした。
指先が触れた。温かかった。秋の午後の、穏やかな温かさ。誰かのために淹れた茶ではなく、自分に差し出された手の温かさ。
それだけで、十分だった。
庭の木が風に揺れて、赤い葉が一枚、二人の手の上に落ちた。ニクラスがそれを拾って、リーゼルの手に載せた。
「フェルゼンでは、秋の最初の紅葉を贈るのは、幸運を願う意味があります」
「存じています。外交官の教本に書いてありました」
「教本には書いていないこともあります」
「例えば?」
「好きな人に贈る場合は、意味が変わります」
リーゼルは紅葉を見つめた。赤い葉脈が、手のひらの上で夕日のように光っている。
「……どういう意味に?」
「それは、もう少し先にお伝えします」
ニクラスが立ち上がった。リーゼルの手を、そっと離した。
「待ちます、とは言いません。今度は私が、自分の言葉を探す番です」
◇
翌日の朝、外交館に一通の書簡が届いた。
封蝋はヴァルナウ侯爵家のものだったが、差出人はコンラートではなかった。ヴァルナウ侯爵——コンラートの父、当主からの正式な外交文書だった。
ニクラスが封を開けて、目を通した。表情を変えずに、リーゼルに書面を渡した。
「読んでください」
リーゼルは書面を受け取った。
——ヴァルナウ侯爵家は、リーゼル・フォン・ブラント嬢の帰国を打診する。侯爵家の外交業務を補佐する役職を正式に用意する用意がある。
帰国。侯爵家の外交補佐。正式な役職。
コンラートの手紙よりも、はるかに具体的だった。条件も提示されている。報酬、立場、権限。五年間は与えられなかったすべてが、今さら並べられている。
「これは、あなたが決めることです」
ニクラスの声には、何の感情も乗せていなかった。引き留めもしない。判断を誘導もしない。ただ、リーゼルの選択を待っている。
リーゼルは書面をテーブルに置いた。昨日と同じテーブル。コンラートの手紙を置いたのと同じ場所。
「ええ。もう決めてあります」
声は震えなかった。小さくもならなかった。
自分の言葉で、自分のために、答えた。




