第7話「届かなかった手紙の理由」
ヴァルナウ侯爵邸の書斎は、以前より散らかっていた。
ローレンツが扉を開けた時、まず目に入ったのは机の上に積まれた書類の山だった。未処理の外交書簡、通商条件の修正案、各国大使館からの招待状。以前はリーゼルが整理して、優先度の高い順に兄の机に並べていた。今はすべてが時系列のまま、到着した順番で積み上がっている。
コンラートは窓際に立っていた。腕を組んで、庭を見ている。苛立っているのか考えているのか、ローレンツには区別がつかなかった。この兄は、どちらも同じ顔をする。
「兄上。フェルゼンとの同盟更新交渉の件ですが」
「分かっている」
「来月の期限までに、条件を詰めなければなりません。先方の外交官——ゼードルフ伯は、かなり精緻な交渉をされる方だと聞いています」
コンラートが舌打ちした。小さな音だったが、ローレンツの耳には届いた。この兄が舌打ちをするのは珍しい。追い詰められている時だけだ。
「ザビーネはどうしている」
「ザビーネ様は——」
ローレンツは言葉を選んだ。正直に言うべきか、柔らかく伝えるべきか。
「先日の茶会で、外交の話を振られた際に、『外交は私の仕事ではないわ。私は公爵令嬢であって、外交官ではありませんもの』と仰っていました」
コンラートの眉が動いた。怒りではなかった。もっと厄介なものだった。困惑だ。ザビーネが外交を担わないなら、誰がやるのか。雇った通訳はアルテシアとの交渉で不利な条件を呑ませられた。フェルゼン大使は晩餐会で途中退席した。社交界の評判は下がり続けている。
「ザビーネ様には、社交の場に出ること自体を避けたがっている様子もあります。噂が、かなり——」
「何の噂だ」
「……練習台、の件です」
コンラートの顔が強張った。
「誰が広めた」
「分かりません。ですが、社交界ではもうかなりの方がご存知です。『ヴァルナウ家はリーゼル嬢に支えられていた』『あの方を練習台と呼んで追い出した』と」
コンラートは黙った。窓の外を見たまま、長い沈黙が続いた。
やがて、兄が口を開いた。
「リーゼルに、手紙を書いた」
ローレンツは息を止めた。
「……何と」
「戻ってきてほしい、と。侯爵家には、あいつの力が必要だと」
ローレンツの胸の底で、何かが冷たく凝った。必要だと。今さら、必要だと。五年間、一度も言わなかった言葉を、困った時だけ使うのか。
「兄上」
「何だ」
「リーゼル殿は、フェルゼン外交館で正式な職に就いています。ゼードルフ伯の補佐として」
コンラートが振り返った。
ローレンツは、兄のこの顔を初めて見た。
驚き。それから、信じられないという表情。そして最後に、足元が崩れるような——理解。
「あいつが……外交官?」
「はい。先日の三国間通商会議でも、フェルゼン側の外交補佐として出席されたそうです。三ヶ国語を操り、三国の合意を取りまとめたと」
コンラートの口が開いて、閉じた。また開いて、言葉が出なかった。
ローレンツは静かに続けた。
「リーゼル殿が五年間やっていたことは、まさにそれです。三ヶ国語を使って外交の橋渡しをし、来賓の文化を理解して接待を組み立て、交渉の裏にある意図を読んで報告する。外交官の仕事そのものでした」
「……」
「兄上は、ご覧になっていなかっただけです」
その一言が、書斎の空気を変えた。
コンラートは窓枠に手をついた。支えが必要な動作だった。この兄が、物理的に何かに寄りかかる姿を、ローレンツは見たことがなかった。
「俺は——」
兄が何かを言いかけて、止めた。「俺は知っていた」と言いたいのか、「俺は知らなかった」と認めたいのか。どちらも喉から出てこないのだと、ローレンツには分かった。
「兄上。手紙の返事は、おそらく来ないと思います」
「なぜ分かる」
「『戻ってきてほしい』では、あの方は動きません。リーゼル殿が求めていたのは、仕事の依頼ではなく——」
ローレンツは言いかけて、やめた。弟が言うべきことではない。兄が自分で気づくべきことだ。
「……何でもありません。失礼します」
書斎の扉を閉めた。廊下に出ると、壁にかかった風景画の額が、まだ傾いていた。リーゼルが直そうとして手を止めた、あの額だ。
誰も、直していない。
廊下の奥から、ザビーネの声が聞こえた。侍女と話しているらしい。
「今週の夜会には出ないわ。体調が優れないの」
体調ではない。ローレンツには分かっていた。社交の場に出れば、周囲の視線が以前と違う。公爵令嬢としての扱いは変わらないが、会話の隙間に棘が混じるようになった。「ヴァルナウ家の外交はいかがですか」という何気ない問いかけが、ザビーネには針のように感じるのだろう。
自分が刺した針が、回り回って自分に返ってきている。ザビーネはまだそれに気づいていないのか、気づいていて認めたくないのか。
ローレンツは額縁には触れずに、廊下を歩いていった。
◇
フェルゼン外交館の執務室で、リーゼルはコンラートの手紙を開いた。
封蝋を割って、便箋を広げる。見覚えのある筆跡。太くて硬い文字。インクの染みが一箇所ある。急いで書いたのだろう。
——リーゼル殿。
「殿」だった。婚約中は「リーゼル」と呼び捨てだったのに。距離を置いた呼び方に変わっている。礼を尽くそうとしたのか、あるいは単に、今さら名前を呼ぶのが気まずかったのか。
文面を目で追った。
——侯爵家の外交に関わる業務において、貴殿の経験と能力が不可欠であることを痛感している。現状の体制では来月の同盟更新交渉に支障をきたす恐れがあり、貴殿に再び力を借りたく——
リーゼルは便箋を机に置いた。
最後まで読んだ。二度、読んだ。
「申し訳ない」は、なかった。
「あなたを傷つけた」も、なかった。
「練習台と呼んでしまった」も、「本当はそう思っていなかった」も。あるいは「そう思っていた、すまない」も。何も、なかった。
あるのは、困っているという現状報告と、戻ってきてほしいという要請だけだった。
リーゼルという人間への言葉ではない。穴を埋めるための部品への発注書だった。
五年間と、同じだ。
結局、この人には見えていないのだ。リーゼルが何を感じ、何に傷つき、何を求めていたのか。手紙の文面には、リーゼルの五年間の貢献は書かれている。でも、リーゼル自身のことは、一行も書かれていない。
不思議なことに、もう痛くなかった。テラスで聞いたあの夜のような、胸を刺す痛みはない。ただ、確認だった。自分の判断が正しかったという、静かな確認。
「リーゼル嬢。お手紙は——」
執務室の入口にニクラスが立っていた。手紙のことを聞こうとして、リーゼルの表情を見て、言葉を途中で止めた。
「読みました」
リーゼルは便箋を畳んで、封筒に戻した。
「返事は書きません」
ニクラスは何も聞かなかった。なぜかとも、本当にいいのかとも。
「あなたの判断を尊重します」
それだけだった。それだけで、十分だった。
リーゼルは手紙を机の引き出しにしまった。捨てはしなかった。捨てる必要もない。もう、この手紙に心を動かされることはないから。
窓の外では、フェルゼンの国旗が秋風に揺れていた。この場所に来て、もう一月が経つ。毎朝、門の石板に刻まれたフェルゼン語の「ようこそ」を読んでから館に入る。最初の日に指でなぞった文字を、もう指でなぞる必要はなくなった。
ここが、自分の場所になりつつある。
◇
その夜、ローレンツは自室の机に向かっていた。
リーゼルから借りたままのフェルゼン語の教本を開いている。返す相手は外交館にいる。返しに行けば会える。でも、今の自分にその資格があるのか分からなかった。
従僕が寝酒を運んできた。
「ローレンツ様。リーゼル嬢からのお返事はございませんでしたが」
「ああ。来ないだろうな」
「左様でございますか」
従僕が去った後、ローレンツは教本を閉じて、天井を見上げた。
手紙の内容を、兄から聞いた。「戻ってきてほしい」「侯爵家には力が必要だ」。
——違う。
手紙に「戻ってきてほしい」ではなく「申し訳なかった」と書いていれば、まだ違ったかもしれない。
いや——それでもリーゼルは戻らなかっただろう。でも少なくとも、返事は書いたかもしれない。封も切らずにテーブルに置くようなことは、しなかったかもしれない。
だが兄は、最後まで間違える人だ。
何を失ったのかではなく、何が足りなくなったかしか見えない。人がいなくなったのではなく、機能がなくなったとしか考えられない。リーゼルが人間として傷ついたことと、侯爵家が外交官を失ったことは、兄の中では同じ問題として処理されている。
ローレンツは教本をもう一度開いた。フェルゼン語の挨拶の頁。リーゼルの丁寧な書き込みが欄外に残っている。
——「この挨拶は、初対面ではなく再会の時に使います」
再会。
来月の同盟更新交渉で、リーゼルはフェルゼン側の席にいる。兄はドルンベルク側の席にいる。
テーブルの向こう側とこちら側で、二人は再会する。
その時、兄の顔にどんな色が浮かぶのか。ローレンツは想像して、それから想像するのをやめた。考えても仕方のないことだ。兄がどう感じるかは、兄の問題だ。
でも、一つだけ確かなことがある。
リーゼルは、もう振り返らない。




