第10話「本物の言葉で」
フェルゼン王宮の大広間は、リーゼルが想像していたよりも天井が高かった。
白い石の柱が並ぶ回廊の奥に、青と銀の王家の紋章が掲げられている。窓から差し込む冬の朝の光が、磨かれた床に長い影を落としている。空気が冷たくて、背筋が自然と伸びた。
正式な外交官の任命式。
リーゼルは大広間の中央に立っていた。周囲にフェルゼン王国の外交官たちが並んでいる。その中で、リーゼルだけがフェルゼン人ではない。ドルンベルク出身の子爵令嬢が、フェルゼン王国の外交官として任命される。前例のないことだと、書記官が朝の準備の時に教えてくれた。
正面に、フェルゼン国王が座っている。白髪の、穏やかな目をした六十代の男。王冠は簡素で、装飾よりも実直さを重んじる国の気質がそのまま形になっている。
国王がフェルゼン語で語りかけた。
「リーゼル・フォン・ブラント。あなたは三つの言葉を操り、三つの国の間に橋を架けた。言葉を訳すだけではなく、文化と文化の間に立ち、信頼を育てた。あなたの三ヶ国語は、三つの国を繋ぐ橋です。本日より、あなたをフェルゼン王国の外交官として正式に任命する」
リーゼルは膝をついて、宣誓の言葉を述べた。フェルゼン語で。一語も間違えなかった。一語も震えなかった。
立ち上がった時、広間の隅に見覚えのある姿があった。
ヒルデだった。
叔母が、旅装のまま広間の端に立っている。白髪を簡素にまとめて、地味な旅の外套を羽織ったまま。周囲の華やかな正装の中で、一人だけ場違いに見えるはずなのに、ヒルデは微塵も気にしていない顔で、姪を見ていた。
泣いていない。ヒルデは泣かない人だ。でも、目が赤かった。
式が終わった後、リーゼルはヒルデのもとへ歩いた。
「叔母様。いらしてくださったのですか」
「当然でしょう。姪の晴れ舞台を見逃す叔母がどこにいるの」
「遠いのに——」
「馬車で二日よ。私の歳でも耐えられる距離だわ」
ヒルデはリーゼルの肩に手を置いた。あの夜と同じ、骨張った温かい手。
「立派だったわ」
短い言葉だった。ヒルデらしい。長い褒め言葉は要らない。この人が「立派だった」と言えば、それが全部だ。
「叔母様がいなければ、今日ここには立てませんでした」
「私は何もしていないわ。お茶を淹れて、パンを焼いて、あとは怖い方に進めと言っただけ」
「それが全部です」
ヒルデの目がまた少し赤くなった。それから、ぱっと笑った。
「泣かないわよ。あなたの涙は高すぎると言ったのは私なんだから、私の涙だって安売りはしないわ」
リーゼルは笑った。本物の笑みだった。
広間を出る時、ヒルデがリーゼルの腕に手を添えた。
「ところで、あのゼードルフ伯とやら」
「はい?」
「悪い顔じゃないわね。目がいい。人の話を聞く目をしている」
「叔母様——」
「何も言っていないわよ。目がいいと言っただけ」
ヒルデはすまして歩いていった。リーゼルは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。叔母にはすべて見えているのだろう。最初からずっと。
◇
式典の後、外交館に戻った。
夕暮れ時だった。廊下に人の気配はなく、窓から差し込むオレンジの光が石壁を暖色に変えている。リーゼルは執務室に向かう途中で、バルコニーへの扉が開いているのに気づいた。
ニクラスがそこにいた。
手すりに腕を預けて、街並みを眺めている。上着の襟元が少し崩れている。式典の緊張が解けた後の姿だった。リーゼルの足音に気づいて振り返った。
「おめでとうございます、外交官殿」
「からかわないでください」
「からかっていません。本心です」
リーゼルはバルコニーに出て、ニクラスの隣に立った。街の灯りが一つ、二つと点き始めている。秋に初めてここに立った時は、知らない街並みだった。今は、どの通りがどこに続くか分かる。パン屋の煙突、書店の看板、港へ下る坂道。知らない場所が、自分の場所になった。
「リーゼル嬢」
「はい」
「ずっと言いたかったことがあります」
ニクラスの声が、いつもと少し違った。落ち着いてはいる。でも、言葉を選んでいる慎重さではなく、選び終えた言葉を差し出す覚悟がある声だった。
「外交官としてではなく、一人の人間として。——あなたの隣にいたいのです」
風が止まった。街の音が遠くなった。ニクラスの声だけが、夕暮れのバルコニーに残った。
「"練習"でも、"予行演習"でもない。最初から、本物の気持ちです」
リーゼルは息を吸った。胸の奥が熱い。涙ではない。もっと明るいもの。朝日が窓から入ってくるような、穏やかで確かな熱。
「あの秋に、紅葉を贈ってくれた時の意味を、まだ教えてもらっていません」
「好きな人に贈る場合は、"一緒に冬を越えたい"という意味です」
「教本には書いていないと言っていましたね」
「ええ。書いていません。私の家に、祖母から伝わっている言い伝えです」
リーゼルは笑った。この人らしい。大げさな告白ではなく、あの日の紅葉の続きとして、静かに気持ちを差し出している。
「あなたの言葉は、通訳しなくても伝わります」
ニクラスの目が少しだけ見開かれた。自分が前に言った言葉を、返された。
「私も、同じ気持ちです」
リーゼルは自分の声を聞いた。震えていない。小さくもない。自分の言葉で、自分の気持ちを、自分の温度で伝えている。
「今度は、自分の言葉で言えます。——あなたの隣にいたいです。ニクラス」
ニクラスの手が伸びて、リーゼルの手を包んだ。あの秋の日より少しだけ強く。でも、決して締めつけない。握っている、と分かる強さで。
街の灯りが増えていく。二人の影がバルコニーの床に重なって、一つの影になった。
五年間、リーゼルは誰かのために言葉を選び続けた。大使のために、来賓のために、侯爵家のために。自分の気持ちを言葉にすることは、贅沢だと思っていた。子爵令嬢の感情は、外交の場には不要だと。
今、自分のために言葉を選んでいる。自分の気持ちを、自分が信じる人に、自分の声で伝えている。
これが、本物の言葉だ。
◇
——数ヶ月後。
三国間友好条約の調印式は、フェルゼン王宮の大広間で催された。
ドルンベルク、フェルゼン、アルテシア。三国の代表が署名を終えた後、リーゼルは壇上に立った。
三ヶ国語で挨拶を述べた。
ドルンベルク語で、条約の意義を語った。母国の言葉で、三国が対等に向き合う未来の形を示した。フェルゼン語で、この国が自分を受け入れてくれたことへの感謝を述べた。声に少しだけ個人的な温度を込めた。外交の場にはふさわしくないかもしれない。でも、これが自分の言葉だ。アルテシア語で、フォルティーニ卿の目を見ながら、三国の未来に希望を託した。卿は口元だけで笑った。「庭師」の比喩を使わなかった。それが、この人なりの敬意の示し方だった。
三つの言葉が、一つの大広間を満たした。
かつて、同じことをしていた。ヴァルナウ侯爵家の晩餐会で、来賓に三ヶ国語で応対し、席次を組み、献立を調整し、誰にも気づかれないように場を整えていた。同じ三つの言葉を使っていた。
違うのは、名前だ。
あの頃は「ヴァルナウ家の晩餐はいつも評判がいいから」と、家の名前で消費された。今は、リーゼル・フォン・ブラントという名前で、壇上に立っている。
客席の中に、ローレンツの姿があった。
ドルンベルク側の席に座っている。兄に代わって外交を学び直したのだろう、背筋の伸ばし方が以前より板についている。手元にはフェルゼン語の教本——リーゼルが貸したままのあの教本を、まだ持っているらしい。
目が合った。
ローレンツが小さく頭を下げた。深い敬意と、少しの寂しさと、それから安堵が混じった礼だった。この人は最初から知っていた。リーゼルが何をしていたかを。それを止められなかった自分を、ずっと悔いていたのだろう。
リーゼルもまた、小さくうなずいた。
恨みはない。恨む理由もない。ローレンツは次男として、自分にできる精一杯のことをしていた。教本を借り、料理長に指示を伝え、兄に進言しようとして口を閉じた。あの家の中で、リーゼルの仕事を見ていた唯一の人だった。
ただ、もう戻らない。それは悲しいことではなかった。川は海に向かって流れる。源流に戻ることはない。戻らないことは、前に進んでいるということだ。
教本は、返してもらわなくていい。ローレンツがあの教本でフェルゼン語を学び続けるなら、それがリーゼルにとっての一番良い返し方だ。
調印式が終わって、大広間に歓談の空気が広がった。各国の外交官が入り混じって、三つの言語が飛び交っている。その中を、リーゼルは歩いた。
ニクラスが少し離れた場所に立って、フェルゼンの外交官と話している。リーゼルの視線に気づいて、目元だけで笑った。いつもの、声を出さない笑み。
リーゼルは今日も三つの言語を話す。ドルンベルク語で故郷を想い、フェルゼン語で仕事を語り、アルテシア語で交渉の橋を架ける。
だが、最も大切な言葉は一つだけだ。
隣にいる人の名前を呼ぶこと。
それだけは、誰にも訳せない。




