第4話「本物と呼ばれた日」
ニクラス・ゼードルフという人を、リーゼルは覚えていた。
フェルゼンの通商担当の外交官。ゼードルフ伯爵家の当主。二年前の晩餐会で初めて会った時、この人だけがリーゼルのフェルゼン語に具体的な感想を言った。
——あなたの発音には、教本にはない温度がある。
外交官らしい褒め方だと思った。裏があるのかもしれないとも思った。でも、その一言をなぜか忘れられなかった。五年間で、自分の仕事の中身に触れてくれた人は両手で足りたから。
叔母ヒルデのサロンの扉を開けると、窓際の椅子に長身の男性が座っていた。栗色の髪を後ろに流した、二十七歳の穏やかな顔。ヒルデの向かいで茶を飲みながら、何か話していたらしい。
「——あ」
ニクラスが立ち上がった。リーゼルに向けた目は、驚きと、それからほっとしたような色を含んでいた。
「リーゼル嬢。お会いできて嬉しいです」
フェルゼン語だった。リーゼルは一瞬だけ戸惑って、それから同じ言葉で返した。
「お久しぶりでございます、ゼードルフ伯」
「どうぞ、ニクラスと。今日は公務ではありませんので」
ヒルデが「私はお茶を淹れ直してくるわ」と言って席を外した。気を遣ってくれたのだ。叔母の足音が廊下に消えていく。
二人きりになると、サロンが急に広く感じた。リーゼルは向かいの椅子に座って、膝の上で手を組んだ。少し緊張している自分が分かった。
「以前、ヴァルナウ家の晩餐会で大変お世話になりました」
ニクラスが口を開いた。
「あの晩餐会のこと、ずっとお伝えしたかったことがあります」
「何でしょう」
「あなたのフェルゼン語は、私の知る誰よりも正確で温かかった。通訳としての正確さだけではなく、私たちの文化に敬意を払ってくださっているのが、言葉の一つひとつから伝わりました」
リーゼルは瞬きした。
褒められている。具体的に。自分の仕事の中身を見て、言葉にして。
喉の奥が、少し熱くなった。
「——ありがとうございます」
声が小さくなった。自分でも驚くほど小さくなった。こういう言葉を受け取り慣れていないのだと、今さらのように気づく。
コンラートの「ああ」と、「任せた」と、「子爵令嬢にはこれで十分だろう」。あの五年間で受け取ったのは、そういう言葉ばかりだった。だから「温かかった」と言われただけで、喉が詰まる。
情けない。
「恐れ入ります。私は、ただ——」
「ただ、当然のことをしていた?」
ニクラスが静かに言い当てた。リーゼルは口を閉じた。
「当然のことではないのです。三ヶ国語を操り、各国の食文化と外交慣習を把握し、来賓に不快な思いをさせない接待を五年間続ける——それは、当然ではありません。稀有な能力です」
稀有。
その言葉が、胸に刺さった。痛いのではなく、ずっと空っぽだった場所に何かが入ってくる感覚だった。
「あなたがヴァルナウ家を離れたと聞いた時、正直に申し上げれば、驚きはしませんでした」
「……驚かなかったのですか」
「以前から疑問に思っていたのです。なぜ侯爵家は、あれほどの人材を正当に処遇しないのかと」
リーゼルは膝の上の手をきつく組んだ。正当に処遇されていなかった。外から見ても、そう見えていたのか。自分だけが、それに気づいていなかった。
◇
ヒルデが茶を持って戻り、三人で少し世間話をした後、ニクラスが本題を切り出した。
「先日のフェルゼン大使の晩餐会の件は、ご存知ですか」
「……はい」
「大使は大変残念がっておられました。率直に申し上げれば、フェルゼン側はドルンベルクとの関係維持に不安を感じ始めています」
リーゼルは黙った。胸が痛む。あの大使が困っている姿は、想像するだけで辛かった。
「フェルゼン王国として、ドルンベルクとの外交関係を立て直す必要があります。そのためには、両国の文化を理解し、実務的な橋渡しができる人材が不可欠です」
ニクラスはリーゼルの目をまっすぐに見た。
「リーゼル嬢。フェルゼン外交館で、私の補佐として働いていただけませんか。正式な職としてお迎えしたい」
リーゼルは息を呑んだ。
「私、を?」
「あなたの三ヶ国語の能力、外交実務の経験、来賓対応の判断力。必要なのは、まさにあなたが五年間積み上げてきた力です」
ニクラスの声は落ち着いていた。煽るでもなく、頼み込むでもなく、事実を述べている声だった。
「あなたは"練習"などではありません。あなたが五年間やっていたことは、最初から本物の外交でした」
——本物。
練習台と呼ばれた自分が、本物と呼ばれている。
目の奥が熱くなった。泣かないと決めたのに。泣くのは全部終わらせてからだと決めたのに。
リーゼルは一つ息を吸って、熱を押し戻した。
「……すぐにはお返事できません。一晩、考えさせてください」
「もちろんです。あなたの決断を待ちます」
ニクラスは急かさなかった。その態度が、コンラートとは何もかも違った。コンラートは「任せた」と言って結果だけを求めた。ニクラスは「待ちます」と言って、こちらの判断を尊重した。
ニクラスが帰った後、リーゼルはサロンの椅子に座ったまま動かなかった。
「どう思う?」
ヒルデが隣に座った。
「叔母様は、どう思われますか」
「私がどう思うかは関係ないわ。あなたがどう思うかよ」
リーゼルは窓の外を見た。午後の光が庭の木々を照らしている。
「……怖いです」
正直にそう言った。
「新しい場所で、うまくやれるか分からない。侯爵家に戻るか、新しい道を歩むかという話ではないのです。私の力を正当に使える場所がどこかという話で——」
そこまで言って、リーゼルは自分の言葉に気づいた。
「——それは、もうヴァルナウ家ではないのですね」
「最初から分かっていたんじゃないの」
「……はい。でも、口に出すのは別です」
ヒルデは姪の頭をぽんと撫でた。子ども扱いされるのは好きではないけれど、今だけは、その手が心地よかった。
「怖くていいのよ。怖い方に進んだ方が、だいたい正解なの。私の経験上」
◇
翌朝、リーゼルは早くに目が覚めた。
鏡台の前に座る。婚約解消の翌日、ここに座って「練習の成果、ですものね」と歪んだ笑みを浮かべた日からまだ十日ほどしか経っていない。
今朝の自分は、笑ってはいない。でも、歪んでもいない。
身支度を整えて、ヒルデに「行ってきます」と告げた。叔母は「朝ごはんは食べたの?」とだけ聞いた。食べた。今朝は食べられた。
フェルゼン外交館は、王都の東側にある石造りの建物だった。ヴァルナウ侯爵邸のような華美さはないけれど、手入れの行き届いた庭と、磨かれた石畳がある。初めて来る場所なのに、門をくぐる足取りに迷いはなかった。
正門の脇に、フェルゼン語で「ようこそ」と刻まれた石板があった。リーゼルはその文字を指でなぞった。読める。この国の言葉が読める。それだけで、少し心が軽くなった。
ニクラスが入口で待っていた。
「決めました」
リーゼルはドルンベルク語で言った。
「お受けします」
ニクラスが微かに笑った。大きく喜ぶのではなく、静かにうなずく笑み。この人はそういう人なのだと思った。
「ありがとうございます。では、少しご案内しましょう」
外交館の中を歩きながら、ニクラスが仕事の概要を説明してくれた。執務室、書庫、会議室。フェルゼンの紋章が壁にかかっている。見慣れないはずの紋章が、不思議と落ち着いた気持ちにさせた。
書庫の前を通りかかった時、棚にフェルゼン語とアルテシア語の辞書が並んでいるのが見えた。背表紙が日焼けしている。よく使われている本だ。
「この書庫は自由に使ってください。外交文書の過去の記録もあります」
リーゼルは思わず足を止めた。ヴァルナウ家では、外交に関する文書を見せてもらったことは一度もなかった。「子爵令嬢に見せるものではない」と言われて。
「来月、三国間の通商会議があります」
ニクラスが廊下の窓の前で足を止めた。
「ドルンベルク、フェルゼン、アルテシア。三国の利害を調整する会議で、三ヶ国語が必要になります。リーゼル嬢——あなたの力が必要です」
必要。
その言葉を、リーゼルは噛みしめた。
五年間、必要とされていると信じていた。でも本当は、必要とされていなかった。代わりがいると思われていた。
今、初めて「必要です」と言われている。自分の名前を呼ばれて、自分の能力を指して、必要だと。
「——はい」
声が少し震えた。嬉しかったからだ。ただ、嬉しかった。
「全力を尽くします」
窓の外には、知らない街並みが広がっていた。フェルゼンの国旗が風に揺れている。
新しい場所だ。新しい言葉で、新しい仕事をする場所。
怖い。でも、叔母が言った通り、怖い方がたぶん正解だ。




