第5話「通訳がいない交渉の席で」
アルテシア公国の通商使節が到着したのは、午前十時だった。
ローレンツは会議室の隅で、壁に背を預けるように立っていた。次男に用意された席はない。ただ、兄に頼まれて記録係として同席している。頼まれた、というより、「お前でいい」と言われた。
会議室の長机の向こうに、アルテシアの使節が三人座っている。中央の壮年の男がフォルティーニ卿——アルテシア公国の通商担当官だ。痩せた顔に深い皺が刻まれているが、目だけが異様に若い。値踏みするような、隙を探すような目。
リーゼルがいた頃は、この男が来る前に必ず資料を揃えていた。フォルティーニ卿の交渉癖、過去の合意内容、アルテシア側の国内事情。「この方は比喩で本音を包みます。額面で受け取らないでください」と、リーゼルはコンラートに耳打ちしていた。
今日、コンラートの隣にいるのは、昨日雇われたばかりの通訳だった。四十代の男で、アルテシア語の読み書きには問題がないらしい。だが、椅子に座った姿勢がぎこちない。外交の場に慣れていない人間の背中だった。
フォルティーニ卿が口を開いた。
「では、関税の改定について。我がアルテシアとしては、友好の果実を両手で受け取るつもりでまいりました」
アルテシア語だった。ローレンツには細かい意味は取れないが、声の調子で分かることがある。友好的に聞こえる。聞こえるだけだ。
通訳が訳した。
「アルテシア側は、友好の成果を全面的に受け入れる用意があるとのことです」
コンラートがうなずいた。「結構だ。では、こちらの条件を——」
ローレンツは口を開きかけて、閉じた。
「友好の果実を両手で受け取る」はアルテシアの慣用表現だ。リーゼルの献立帳の余白に、外交用語の走り書きがあったのを覚えている。「両手で受け取る」は「相応の対価を要求する」という意味だと書いてあった。歓迎ではない。要求だ。
しかし通訳は額面通りに訳した。コンラートは好意的な態度だと受け取って、こちらの条件提示に進んでいる。
交渉が進むにつれて、ずれは広がった。
フォルティーニ卿が「この条件では、船は港を出る前に沈むでしょうな」と言った時、通訳は困った顔で「この条件では、船舶の運航に支障が出る可能性があるとのことです」と訳した。
比喩を事実に変換してしまっている。フォルティーニ卿の真意——この条件は話にならない——が、「検討の余地がある」という程度に丸められた。
コンラートは「では、船舶の件は別途協議しよう」と応じた。フォルティーニ卿の目が一瞬だけ細くなった。この男、何も分かっていない——と値踏みし直した目だった。
ローレンツは爪を掌に食い込ませた。止められない。次男が兄の交渉に口を挟む権限はない。
結果として、妥結した条件はドルンベルク側に著しく不利だった。関税の引き下げ幅はアルテシアの要求通り。穀物の輸出枠は従来の七割に制限された。フォルティーニ卿は満足げに書面に署名し、「ドルンベルクの寛大さに感謝いたします」と言った。その「感謝」に棘が含まれていることに、コンラートは気づかなかった。
使節を見送った後、ローレンツは兄に言った。
「兄上。あの条件は、かなり——」
「通訳の問題だ」
コンラートは窓の外を見たまま答えた。
「次はもっと良い通訳を雇えばいい。アルテシア語の専門家を探せ」
ローレンツは口を閉じた。
通訳の問題ではない。アルテシア語を正確に訳せる人間を百人集めても、フォルティーニ卿の比喩の裏にある要求を読み、コンラートに耳打ちし、交渉の流れを制御できる人間は、一人しかいなかった。
その一人を、兄は「練習台」と呼んだのだ。
◇
社交界の噂は、ローレンツが思っていたよりも早く広がった。
週末の茶会に顔を出した時、もう空気が違っていた。
「——ヴァルナウ家の晩餐で、フェルゼン大使が途中でお帰りになったんですって」
「今度はアルテシアの通商交渉でも、随分不利な条件を呑まされたらしいわよ」
壁際を通るだけで、断片が耳に入ってくる。ローレンツは歩調を変えずに歩いた。聞こえていないふりをする技術は、次男として身につけた数少ない特技の一つだ。
「結局、あの家の外交はリーゼル嬢が全部やっていたのよ」
「練習台ですって? あの方の仕事が練習だったなら、本番は何なのかしら」
その言い回しに、ローレンツは足を止めそうになった。練習台。あの夜の言葉が、もう社交界に漏れている。どこから漏れたのかは分からない。使用人か、夜会にいた誰かの耳に入ったのか。
広間の奥に、ザビーネがいた。扇を揺らしながら、取り巻きの令嬢たちに囲まれている。紫の絹のドレス。笑い声が高い。
「外交なんて、通訳を雇えばいいのよ。言葉が分かる人間を連れてくれば済む話じゃない」
令嬢の一人が曖昧に笑った。同意ではない。どう反応していいか分からない顔だ。
ザビーネは気づいていない。周囲の笑みが、二週間前とは質が変わっていることに。以前は公爵令嬢への敬意と迎合があった。今は、観察と距離がある。この人がどこまで落ちるのかを見ている目だ。
ローレンツは茶会を早々に辞した。
馬車の中で、天井を見上げた。
——リーゼル殿は、今どうしているのだろう。
ブラント子爵家の別邸にいるとは聞いている。だが、その先は知らない。婚約解消の後、一度も会っていない。最後に見たのは、あの廊下を歩いていく真っ直ぐな背中だけだ。
◇
フェルゼン外交館の会議室は、小さいが窓が大きかった。
午後の光が机の上に広げた地図を照らしている。ドルンベルク、フェルゼン、アルテシア。三国の国境と主要な交易路が描かれた地図の上に、リーゼルは書き込みを加えていた。
赤い線がフェルゼンの要求。青い線がアルテシアの要求。黒い線がドルンベルクの現行条件。三つの線が交差する点を、リーゼルは指で押さえた。
「ここです」
向かいに座ったニクラスが、地図を覗き込んだ。
「穀物の輸出枠と関税率の交差点か。確かに、ここが三国の利害が重なる急所だ」
「フェルゼンは港湾使用料の引き下げを求めていますが、アルテシアは逆に港の管理権を主張しています。この二つを同時に議題に載せると、フェルゼンとアルテシアが対立して、ドルンベルクが漁夫の利を得る構図になります」
「なるほど。だが、それをドルンベルクが意図的にやったと見られれば、両国の不信を買う」
「はい。ですから、議題の順序が重要です。港湾の件を先に出して——」
リーゼルは言いかけて、口を閉じた。
意見を述べている。分析を示して、戦略を提案して、反論を受けて、また考えている。
五年間、こういう時間はなかった。コンラートに報告する時、求められたのは結果だけだった。「大使は好意的でした」「交渉は前向きです」。なぜ好意的なのか、何がそうさせたのか、聞かれたことはない。
「リーゼル嬢?」
「——失礼しました。議題の順序ですが、港湾の件を先に出して、関税の議論に入る前にフェルゼンとアルテシアの間で小さな合意を作っておくのがよいかと思います。対立の前に協調の実績を置く」
ニクラスが少し考えて、うなずいた。
「いい。だが、小さな合意の中身は何にする?」
「度量衡の統一基準です。実務的で、どちらも損をしない。しかも三国共通の利益になる」
「——それは思いつかなかった」
ニクラスの声に、飾りがなかった。思いつかなかったことを、そのまま認める声。コンラートなら「ああ」と言って流した場面だ。ザビーネなら「難しいことは分からないわ」と扇を振った場面だ。
この人は、違う。
「では、度量衡の統一案を先に詰めましょう。リーゼル嬢、アルテシア側の現行基準をまとめてもらえますか。私はフェルゼン側の資料を用意します」
「はい」
対等だった。指示ではなく、分担。命令ではなく、協働。リーゼルが資料を作り、ニクラスが資料を作り、それを突き合わせて、二人で会議の骨格を組み上げていく。
書庫から戻って机に資料を広げた時、ニクラスがふと言った。
「あなたの意見はいつも具体的だ。抽象論ではなく、実務に根ざしている。五年間の経験が、ちゃんと力になっている」
リーゼルは手を止めた。
五年間。あの五年間が、力になっている。練習台と呼ばれた五年間が、無駄ではなかった。そう言われている。
「……ありがとうございます」
今度は声が小さくならなかった。前回よりは、少しだけ上手に受け取れた。
窓の外の光が傾き始めていた。地図の上の三本の線が、夕日で同じ色に染まっている。三国の利害が一つの色に溶けていく。まだ地図の上だけの話だけれど、来月にはこれを現実にする。
怖い。でも、怖さの中に、確かな手応えがあった。
◇
その夜、ローレンツの自室に、従僕が一つの噂を持ってきた。
「ローレンツ様。お耳に入れておいた方がよいかと」
「何だ」
「リーゼル・フォン・ブラント嬢が、フェルゼン外交館でお働きになっているそうです。ゼードルフ伯の補佐として」
ローレンツは椅子の肘掛けを掴んだ。
フェルゼン外交館。ゼードルフ伯。来月の三国間通商会議。
——繋がった。
リーゼルは消えたのではなかった。別の場所で、自分の力を正当に使える場所を見つけたのだ。
「……兄上は、知っているか」
「いえ。まだご存知ないかと」
ローレンツは窓の外を見た。夜の王都に、フェルゼン外交館の方角がある。見えはしない。でも、あの石造りの建物の中で、リーゼルが地図を広げて仕事をしている。
来月の通商会議で、兄はリーゼルと顔を合わせることになる。練習台と呼んだ相手が、対等な外交官として交渉の席に座っている。
その時、兄は何を思うのだろう。
ローレンツには、それが楽しみなのか怖いのか、まだ分からなかった。




