第3話「来賓の椅子が、一つ空きました」
晩餐会の三時間前、ローレンツは厨房で料理長と向き合っていた。
「ローレンツ様、本日の献立でございますが」
料理長が広げた紙を、ローレンツは食い入るように見た。リーゼルが以前に使っていた献立帳の控えを、書庫から引っ張り出してきたのだ。走り書きの文字で、来賓の出身地ごとに避けるべき食材が細かく記されている。
——鹿肉に柑橘系の果汁は不可。フェルゼンでは侮辱と同義。
ローレンツは料理長に伝えた。「今夜の鹿肉には、柑橘の添えものは外してください」
「かしこまりました。リーゼル様にも同じことを仰せつかっておりました」
リーゼル様にも。料理長の声に、少しだけ寂しさが混じった気がした。
厨房を出て広間に向かう途中、ザビーネとすれ違った。淡い紫のドレスに身を包み、髪を高く結い上げている。公爵令嬢としての身なりは完璧だ。問題は、身なりの先にあるすべてだった。
「ザビーネ様。今夜の件で、一つだけ」
「何かしら」
「フェルゼンでは、左手でグラスを持つのは無作法とされています。給仕にもその旨を伝えてありますが、ご本人もお気をつけいただければ」
ザビーネは扇を開いて、ふわりと笑った。
「ローレンツ、あなたは優しいけれど心配性ね。公爵家の娘が外国の田舎作法にいちいち合わせる必要はないわ。相手が合わせるべきでしょう?」
「しかし、外交上の慣習として——」
「大丈夫よ。社交なんて、笑顔と家格があれば何とかなるものよ」
ザビーネは手を振って去っていった。ローレンツは廊下に取り残された。
リーゼルならば、この時間帯には給仕全員に個別の指示を終えていた。席次表を三回は見直して、大使の隣に座る人物の話題まで想定していた。厨房との最終確認は二時間前に済んでいた。
そのすべてが、今夜はない。
◇
晩餐会が始まった。
広間には燭台の光が揺れ、磨き上げられた銀食器が並んでいる。見た目だけなら、以前と変わらない。ローレンツは壁際の席から、広間の全体を見渡していた。
フェルゼン大使が到着した。白髪交じりの壮年の紳士で、穏やかな物腰の奥に鋭い目を持つ人物だ。リーゼルがいた頃は、入口で流暢なフェルゼン語の挨拶に迎えられ、柔らかい笑みを見せていた。
今夜、大使を迎えたのはザビーネだった。
「ようこそおいでくださいました、大使閣下」
ドルンベルク語だった。
大使の目が、ほんの一瞬だけ広間を探した。いつもの令嬢を探したのだ。いないと分かると、表情を微かに曇らせて——しかし外交官として、何も言わずに微笑んだ。
「お招きに感謝いたします」
ローレンツはその一瞬を見逃さなかった。以前の晩餐会では、リーゼルがフェルゼン語で大使の故郷の挨拶を添えて迎えていた。大使はいつも嬉しそうに目を細めていた。あの温度は、もうこの広間にはない。
席についた。
最初の異変は、食前酒だった。給仕がフェルゼンの随行官に左側からグラスを差し出した。随行官は左手で受け取り——その瞬間、大使の視線がちらりと動いた。ローレンツは急いで給仕に目配せしたが、遅かった。
二つ目は、スープの後だった。
ザビーネが大使に話しかけた。社交の常套として、相手国の歴史に触れるのは悪くない。だが選んだ話題が、よりにもよって先代フェルゼン国王の治世だった。
「フェルゼンの先王陛下の御代は、大変な繁栄でいらしたと伺っていますわ」
大使のナイフが止まった。
先代国王の治世は、フェルゼン国内では評価が割れている。現国王は父王の政策を大きく転換しており、公の場で先代を称えることは、現政権への暗黙の批判と受け取られかねない。リーゼルはそれを知っていたから、一度もその話題を出さなかった。
「……左様でございますか」
大使の声が、一段低くなった。笑みが社交の仮面に変わった瞬間を、ローレンツは見た。
三つ目は、鹿肉だった。
料理長はローレンツの指示通り柑橘を外してくれた。だがザビーネが「この鹿肉、少し味が薄いわね」と自分の皿に卓上の柑橘酢をかけ、大使にも勧めたのだ。
「大使閣下もいかがですか? 柑橘を添えると風味が——」
「結構です」
大使の声は穏やかだった。穏やかだったが、皿にはもう手をつけなかった。
ローレンツは自分の爪が掌に食い込んでいるのに気づいた。止められない。自分の立場では、兄の婚約者になろうとしている公爵令嬢を、衆人の前で制止することはできない。
通訳として雇われた男が、大使と随行官の会話を訳している。言葉の意味は合っている。だが、外交のニュアンスが抜け落ちていた。大使が遠回しに「次の会議の条件を見直したい」と述べた一言を、通訳は額面通りに訳した。それが実質的な不満の表明であることに、コンラートは気づかなかった。
リーゼルならば、その一言の裏にある意図を汲んで、コンラートに耳打ちしていただろう。
予定では三時間の晩餐会だった。
大使が席を立ったのは、二時間が過ぎた頃だった。
「本日はありがとうございました。少々疲れが出たようです」
外交的な退席の言い訳だった。大使は上着を受け取りながら、ローレンツの近くを通りかかった。
そして、小声でこう言った。
「以前のあの素晴らしい令嬢には、お元気でとお伝えください」
フェルゼン語だった。この場で、その言葉を理解できるのはローレンツだけだった。リーゼルから借りた教本で、少しだけ覚えた言葉。全部は聞き取れなかった。でも、「あの令嬢」と「元気で」だけは分かった。
大使の馬車が門を出ていくのを、ローレンツは窓から見送った。
振り返ると、コンラートが眉をひそめていた。
「随分と早い退席だな。体調でも悪かったのか」
——体調じゃない。
ローレンツは唇を噛んだ。
ザビーネが扇をぱたぱたと動かしながら言った。「外国の方って気難しいのね。あれだけおもてなしをしたのに」
おもてなし。ローレンツはその言葉を飲み込んだ。おもてなしが何であるか、この人は何も分かっていない。分かっていないことすら、分かっていない。
◇
ブラント子爵家の別邸には、夜会の喧騒とは無縁の静けさがあった。
リーゼルは居間の窓辺に座って、叔母が貸してくれたフェルゼンの紀行文を読んでいた。頁をめくる指先は穏やかだったけれど、目は文字を追っていなかった。
今夜がフェルゼン大使の歓迎晩餐会だということは、分かっていた。自分が去年も、一昨年も、その前も準備してきた晩餐会。席次を組み、献立を決め、給仕に指示を出し、大使に故郷の言葉で挨拶をした晩餐会。
今夜、それを誰がやっているのかも、分かっている。
「リーゼル」
ヒルデが居間に入ってきた。手に茶の盆を持っている。
「今夜の晩餐会のこと、気になる?」
「……少しだけ」
「正直でよろしい」
ヒルデは茶を注いで、姪の隣に座った。
「夕方、知り合いの伯爵夫人から手紙が来たわ。今夜のヴァルナウ家の晩餐会、フェルゼン大使が予定より早くお帰りになったそうよ」
リーゼルの手が止まった。紀行文の頁を押さえたまま、動かない。
胸が痛んだ。大使の顔が浮かぶ。いつも穏やかに笑って、リーゼルのフェルゼン語を褒めてくれた人。不快な思いをしただろうか。あの方に何の落ち度もないのに。
「あなたが悪いのではないわ」
ヒルデの声は静かだった。
「ええ……分かっています」
リーゼルは紀行文を閉じた。
「でも、あの人たちにはまだ分からないでしょうね。何が起きたのか。何を失ったのか。たぶん、通訳のせいにして、次はもっと良い通訳を雇えばいいと思っている」
「そうでしょうね」
「通訳を百人雇っても、同じことですのに」
それだけ言って、リーゼルは茶碗を手に取った。温かい。この温かさは、自分のために淹れてもらった茶の温かさだ。五年間、侯爵邸で自分のために淹れられた茶はなかった。いつも来賓のために手配する側だった。
「ところで」
ヒルデが何気ない口調で言った。
「フェルゼンの外交官——ゼードルフ伯が、あなたに会いたがっているそうよ」
リーゼルは顔を上げた。
「ゼードルフ伯……ニクラス・ゼードルフ様ですか?」
「知っているの?」
「ええ。以前、晩餐会で何度か。フェルゼンの通商担当の……」
穏やかで、言葉を丁寧に選ぶ方だった。リーゼルのフェルゼン語に「正確で温かい」と言ってくれた、数少ない人。
「何のご用でしょう」
「さあ。でも、会ってみたら? 断るのはいつでもできるわ」
リーゼルはしばらく考えて、うなずいた。
「……お会いしてみます」
窓の外は、もう暗くなっていた。ヴァルナウ侯爵邸の方角に、まだ灯りがあるだろうか。リーゼルはそちらを見なかった。
代わりに、手元の紀行文を開き直した。フェルゼンの港町の風景が描かれた頁。まだ見たことのない、知らない場所。
知らない場所には、知らない可能性がある。
そう思ったのは、この一週間で初めてだった。




