第2話「練習は終了です」
朝の光が寝室に差し込んでいた。
リーゼルは鏡台の前に座ったまま、自分の顔を見ていた。夜会の化粧は落としたけれど、目の下に薄い隈が残っている。眠れなかった。眠れるわけがなかった。
——練習台。
あの三文字が、一晩中頭の中で鳴っていた。ザビーネの笑い声と一緒に。
でも、泣かなかった。泣かないと決めたのだから、泣かなかった。その代わり、天井の染みを数えて夜を明かした。染みは十三個あった。
身支度を済ませて居間に下りると、叔母ヒルデがすでにテーブルについていた。朝食の皿の隣に、茶が二人分。焼きたてのパンの匂いがする。
「おはよう。座りなさい」
リーゼルは向かいの椅子に腰を下ろした。パンをちぎったけれど、口に運ぶ気にはなれない。指先で千切った欠片が皿の上に散らばっていく。
ヒルデはしばらく黙って茶を飲んでいた。急かさない。この人はいつもそうだ。
「……叔母様」
「ええ」
「昨夜、夜会で聞いてしまったことがあります」
リーゼルは、テラスで耳にした会話を、そのまま伝えた。ザビーネの言葉。コンラートの沈黙。「練習台」という言葉。
話しながら、声が震えそうになった。抑えた。パンの欠片を指で押し潰しながら、最後まで話した。
ヒルデの茶碗が、かちりと音を立てて皿に置かれた。
叔母の目が細くなっている。怒っているのだ。唇が引き結ばれて、こめかみに薄く筋が浮いている。この人が本気で怒った顔を、リーゼルは数えるほどしか見たことがない。
「——そう」
低い声だった。
「それで、あなたはどうしたいの」
問いかけだった。命令でも、助言でもなく。どうするべきか、ではなく、どうしたいか。
リーゼルは皿の上のパンの残骸を見つめた。粉々になった白い欠片。元の形にはもう戻らない。
「……終わりにしたいです」
声に出した瞬間、胸の中で何かがすとんと落ちた。昨夜からずっと喉に詰まっていたものが、言葉になって出ていった。
ヒルデはうなずいた。立ち上がって姪の隣に来ると、その肩に手を置いた。昨夜と同じ、骨張った温かい手。
「この家はいつでもあなたの場所よ。出て行く必要も、急ぐ必要もない」
「ありがとうございます、叔母様」
「それと——」
ヒルデは窓の外に目を向けた。
「あの子に婚約解消を伝えるとき、泣くんじゃないわよ。あなたの涙は、あんな男に使うには高すぎる」
リーゼルは、少しだけ笑った。今朝初めての笑みだった。
「泣きません」
「よろしい」
ヒルデは茶碗を持ち上げて、一口飲んだ。それから、少しだけ声を落とした。
「私もね、若い頃に似たようなことがあったの。自分がいなくなったら困るだろうと思って、ずっと我慢した。でも、いなくなっても、あの人は困らなかった。困ったのは私だけだった」
リーゼルは叔母の横顔を見た。窓の光がヒルデの白髪交じりの髪を照らしている。この人にも、そういう時期があったのだ。
「あなたの場合は、違うわ。あなたがいなくなれば、あの家は必ず困る。でもね、だからといって留まる理由にはならないの。困らせるためではなく、自分のために離れなさい」
「はい」
「お茶のおかわりは?」
「いただきます」
ヒルデが茶を注ぐ音を聞きながら、リーゼルは背筋を伸ばした。パンを一切れ、ちゃんと食べた。
今日、終わらせる。
◇
午後、リーゼルはヴァルナウ侯爵邸を訪れた。
馬車を降りた時、空は高く晴れていた。庭の薔薇が昼の光の中で咲いている。昨夜、甘ったるく感じたあの香りが、今日は何も感じない。不思議なものだった。
使用人に案内されて応接室に通される。昨夜は裏口から出た屋敷に、今日は正面から入る。これが最後だ。
応接室には見覚えのある調度品が並んでいる。五年間、何十回と通された部屋。壁にかかった風景画の額が少し傾いているのに気づいて、直そうとして——手を止めた。もう、自分が直すことではない。
応接室の扉が開いて、コンラートが入ってきた。
「急にどうした。今日は来る予定ではなかっただろう」
不機嫌そうな声。書斎から呼び出されたのだろう、手にまだインクの匂いがする書類を持っている。リーゼルの顔をろくに見ていない。五年間ずっと、この人は自分の顔をまともに見なかった。
リーゼルは立ったまま、一つ息を吸った。
「コンラート様。本日は、一つお伝えしたいことがあり参りました」
「何だ。来月の通商会議のことなら、任せると——」
「婚約の解消をお願いに上がりました」
コンラートの手が止まった。書類の端が微かに揺れている。
「……何だと?」
「この婚約は"練習"だと伺いました」
コンラートの顔から血の気が引くのが分かった。視線が泳ぐ。誰から聞いたのか、いつ知ったのかを計算している目だった。
「それは、誰が——」
「どなたから聞いたかは、重要ではございません」
リーゼルは声を落とさなかった。上げもしなかった。いつも通りの声で、来賓に挨拶するのと同じ温度で、言った。
「でしたら、練習は終了です。五年間、十分に学ばれたことと存じます。どうぞ、本番の方とお幸せに」
静かな部屋に、その言葉だけが残った。
コンラートが口を開きかけた。閉じた。また開いた。
「待て。あれは——その、そういう意味では——」
「どういう意味でしたか?」
リーゼルは穏やかに聞き返した。穏やかに、けれど一切の逃げ道を塞ぐ問いだった。
コンラートは答えなかった。答えられなかった。「練習のつもりではなかった」と言えば、ザビーネの言葉を否定しなかった事実と矛盾する。「練習のつもりだった」と認めれば、婚約者を五年間騙していたことになる。
どちらの言葉も、出てこなかった。
リーゼルはその沈黙を十分に待って、それから静かに頭を下げた。
「五年間、お世話になりました。婚約解消の書状は、本日中にブラント家の名代より侯爵家にお届けいたします」
「リーゼル——」
「失礼いたします」
振り返らなかった。
応接室の扉を開けた時、廊下にローレンツが立っていた。コンラートの弟。二十二歳の、兄よりいくらか穏やかな目をした青年が、リーゼルの顔を見て、何かを言おうとした。
リーゼルは小さく微笑んだ。
「ローレンツ様。お元気で」
それだけ言って、通り過ぎた。
◇
ローレンツは、義姉——いや、もう義姉ではなくなるリーゼルの背中を見送った。
背筋が真っ直ぐだった。足取りに迷いはなかった。ただ、廊下を曲がる直前、ほんの一瞬だけ、歩く速度が落ちた。振り返りたかったのか、振り返るまいと堪えたのか。ローレンツには分からなかった。
分かったのは、あの人の横顔に五年分の疲れが全部載っていたということだけだ。
応接室に入ると、兄が窓際に立っていた。書類はテーブルの上に放り出されている。
「兄上」
「……何だ」
「リーゼル殿が、婚約解消を?」
コンラートは窓の外を見たまま答えた。
「あいつが勝手に言い出したことだ。放っておけ。頭を冷やせば戻ってくる」
ローレンツは黙った。戻ってこないだろう、とは言えなかった。兄に向かって、この家で何が正しいかを語れる立場にない。次男とはそういうものだ。
代わりに、別のことを聞いた。
「兄上。来週のフェルゼン大使の歓迎晩餐会ですが」
「それがどうした」
「来賓の接待は、どなたが?」
コンラートは肩をすくめた。
「ザビーネが来ている。あいつに任せればいい。公爵令嬢だぞ、社交くらいこなせるだろう」
ローレンツは口を閉じた。
兄は知らないのだ。
あの晩餐会の席次をリーゼルが三日かけて組んでいたことを。献立をフェルゼンの食文化に合わせて毎回調整していたことを。大使が白葡萄酒を好む時間帯を把握していたことを。フェルゼン語での挨拶と、決して触れてはいけない話題と、左手でグラスを持たせないための給仕への根回しと。
そのすべてが、来週、この屋敷からなくなる。
「……兄上」
「何だ」
「いえ。——何でもありません」
廊下に出ると、ザビーネが侯爵邸の奥から姿を現した。すでにここに出入りしている。婚約解消を待つまでもなく、もうこの家を自分のものだと思っているのだろう。
「あら、ローレンツ。さっき、あの子爵令嬢が来ていたわよね。何の用だったの?」
「……婚約解消の申し出です」
ザビーネは一瞬だけ目を見開いて、それから扇の奥で笑った。
「あら。意外と早かったわね」
早かった。ローレンツはその言葉を噛みしめた。この人にとっては、予定通りの出来事だったのだ。
「ザビーネ様。来週、フェルゼン大使の歓迎晩餐会がございます」
「ええ、聞いているわ。私がいれば十分でしょう? 通訳は雇えばいいのだし」
ローレンツは口を閉じた。
兄もザビーネも、知らないのだ。
あの晩餐会の席次をリーゼルが三日かけて組んでいたことを。献立をフェルゼンの食文化に合わせて毎回調整していたことを。大使が白葡萄酒を好む時間帯を把握していたことを。フェルゼン語での挨拶、決して触れてはいけない話題、左手でグラスを持たせないための給仕への根回し。
そのすべてが、来週、この屋敷からなくなる。
「通訳を雇えばいい」と二人は言う。たぶん雇うだろう。雇って、それで足りると思うだろう。足りないと気づいた時には、大使はもう帰っている。
ローレンツは自室に戻った。机の上にフェルゼン語の教本が一冊ある。リーゼルが以前、「ローレンツ様も少しだけ覚えておかれると、きっと役に立ちますよ」と貸してくれたものだ。
返す相手は、もういない。
来週の晩餐会まで、あと七日。この屋敷で、その七日がどういう意味を持つか分かっている人間は、もうローレンツだけだった。




