第1話「夜会の片隅で、練習という言葉を聞きました」
フェルゼン大使の杯が傾くのを、リーゼルは視界の隅で捉えていた。
会話を途切れさせないまま、背後の給仕に指先で合図する。赤ではなく白。フェルゼンの宴席では、日が落ちてからは白葡萄酒に替えるのが正式な作法だ。知らない給仕が赤を継ぎ足せば、大使は眉ひとつ動かさないまま、その夜の印象を静かに書き換える。
そうさせないのが、リーゼルの仕事だった。
「リーゼル嬢、今宵もお気遣いに感謝いたします」
大使がフェルゼン語で微笑んだ。リーゼルも同じ言葉で返す。
「お楽しみいただけているなら、それに勝る喜びはございません」
五年間、繰り返してきたやり取りだ。言語だけではない。フェルゼンでは左手でグラスを持つのが無作法とされる。鹿肉に柑橘の汁をかけるのは侮辱に近い。先代国王の治世を話題に出してはならない。来賓が不快を覚える前に、その芽を一つずつ摘んでいく。献立の差し替え、席次の調整、通訳では伝わらない言い回しの橋渡し。
リーゼル・フォン・ブラント——ヴァルナウ侯爵家嫡男の婚約者としての五年間は、そういう五年間だった。
大使の隣にいた随行官が、不意にドルンベルク語で口を開いた。
「しかし侯爵家は素晴らしいですな。異国の客人にここまで配慮できる家は、王都でも稀だ」
リーゼルは一瞬だけ迷った。この言葉を訳せば、大使は「侯爵家の手柄」として受け取る。訳さなければ、随行官の礼を無視することになる。
「ありがとうございます。侯爵家は来賓のお国の文化を尊重することを、何よりの誇りとしております」
フェルゼン語に訳したその一文は、随行官の言葉を活かしつつ、功績の主語をぼかしてある。大使がうなずく。随行官も満足そうだ。
誰も気づかない。この一文を組み立てるのに、どれだけの判断が要るかを。
広間の向こうに、婚約者の姿が見える。
コンラート・フォン・ヴァルナウ。背が高く、侯爵家の嫡男としては申し分のない風采をしている。社交の場が苦手な彼は、いつものように取り巻きの貴族たちと壁際で低い声を交わしていた。こちらを見ていない。
五年間、ずっとそうだ。
見てほしい——とまでは思わない。ただ、一度でいい。「今夜もよくやってくれた」と、それだけ言ってもらえたなら。
リーゼルはその考えを飲み込んで、大使の話に意識を戻した。
「来月の通商会議でも、ぜひお力添えいただきたい」
「もちろんでございます」
笑みを作る。作り慣れた笑み。肩が重い。足の裏がじんじんしている。踵の高い靴の中で、足の指がとうに縮まっていた。
来月も、その先も、この役目に終わりはない。
——でも、いつか。この献身が、あの人の目に映る日が来る。
まだ信じていた。
◇
大使一行を正面玄関まで送り出して、リーゼルはようやく息をついた。
肩から首にかけてが鈍く痛む。フェルゼン語とドルンベルク語を三時間切り替え続けた後は、いつもこうなる。口の中が乾いて、喉の奥がざらついている。水が飲みたいけれど、給仕を呼び止めるのも億劫だった。
広間への廊下を歩いていると、二人連れの令嬢とすれ違った。
「——今夜のフェルゼン大使、ご機嫌よろしかったわね」
「ヴァルナウ家の晩餐はいつも評判がいいから」
ヴァルナウ家の、晩餐。リーゼルは足を止めなかった。献立を決めたのも、来賓の禁忌を調べたのも、席次を三日かけて組み直したのも自分だ。けれど、それは「ヴァルナウ家の実力」として消費される。
いつものことだった。気にしても仕方がない。
広間に戻ればコンラートに報告できる。大使が通商会議に前向きだったこと。条件面の話がすでに出始めていること。来月までに確認しておくべき関税の件。
——聞き流されるのは分かっている。書類から顔を上げずに「ああ」と言われるか、「任せる」の一言で片付けられるか。それでも報告しなければ、婚約者としての務めを果たしたことにならない。
でも、もう少しだけ。もう少しだけ、一人でいたかった。
テラスへ出ると、夜気が汗ばんだ項を冷やした。庭の薔薇はとうに闇に沈んでいて、甘い残り香だけが漂っている。手すりに腰を預けて、靴の中でこっそり足の指を動かした。骨が鳴る。
——帰りたい。
髪を下ろして、この窮屈なドレスを脱いで、寝台に倒れ込みたい。でもその前に報告。報告の前に笑顔を整えて、報告の後にはコンラートの反応に傷つかない心の準備をして。
手順が多い。婚約者に会うだけなのに。
そう思った瞬間、広間に面した大窓の奥から笑い声がこぼれた。
高く澄んだ、よく通る声。
ザビーネ・フォン・ブリュールの声だった。
「ねえ、コンラート」
足が止まる。
花壇の陰にいるリーゼルからは、大窓の内側が見えた。ザビーネが扇を揺らしながら、コンラートの腕にそっと手を添えている。二人の距離が近い。婚約者がいる男との距離では、ない。
「あの子との婚約って、いつまで続けるの?」
ザビーネの声は笑いを含んでいた。隠す気のない、余裕のある笑み。
「練習はもう十分でしょう?」
——練習。
その一語が、夜の庭に落ちた。
「……まあ、もう少しだけ」
コンラートの声。低く、聞き慣れた声。否定の言葉は、なかった。
リーゼルは動けなかった。
ザビーネが続ける。
「だって本当に、あの子って——」
笑い含みの声。扇の向こうの唇が弧を描く。
「——練習台よ。本命のお相手と結ばれる前の、ね」
コンラートは何か答えたようだった。でも、もう聞こえなかった。
手すりを掴んだ。指先が冷たい。夏の夜なのに、足元から冷えたものが昇ってくる。心臓がうるさい。自分の鼓動が耳の中で鳴っている。
——練習台。
あの五年間が。
リーゼルは動かないまま、記憶を一つずつ手に取った。
婚約の翌年。初めてのフェルゼン大使の晩餐会。緊張で声が震えた夜、コンラートは「任せた」とだけ言って広間の隅にいた。大使の名前すら覚えていなかった。
三年目の冬。アルテシア語を独学で覚えた。半年、毎晩文法書と格闘して、舌が痛くなるまで発音を練習した。報告した時、コンラートは書類から顔を上げずに「ああ」と答えた。
去年の秋。熱を押してフェルゼンの特使を接待した。汗が額を伝うのを、前髪で隠しながら三時間笑った。翌日届いたのは見舞いではなく、次の晩餐の日程表だった。
今年の春の園遊会。アルテシア公国の使節が突然訪れて、リーゼルが急遽アルテシア語で応対した。使節は「見事な対応だ」と感心した。その夜、コンラートは使節が来たこと自体を知らなかった。
控え室の鍵を渡された日のこと。侯爵邸の奥にある、窓のない小部屋。「子爵令嬢にはこれで十分だろう」。
——全部、辻褄が合ってしまう。
感謝がなかったのではない。感謝する対象ではなかったのだ。本命が来るまでの仮の女。靴を履き替えるまでの、古い上履き。
あの窓のない控え室が、自分の本当の扱いだった。
夜風が頬を撫でる。薔薇の香りが、急にひどく甘ったるくなった。
リーゼルは手すりから手を離した。白い石に、指の跡が残っている。
広間には戻らなかった。
報告はもうしない。コンラートが気づくかどうかは知らない。たぶん気づかないだろう。今夜も、今までと同じように。
庭を回り、使用人の通路を抜けて、馬車の待つ裏口へ向かう。五年も通えば、この屋敷の裏道は目を瞑っていても歩ける。台所の横を通って、乾いた薪の匂いがする廊下を曲がって、裏庭の石段を三段下りる。
——おかしな話。
裏道まで知り尽くしているのに、自分がどう扱われていたかだけは知らなかった。
泣きそうになる。喉の奥が熱い。目の縁が滲む。
でも、ここでは泣かない。この屋敷の空気を吸いながら泣くのだけは、嫌だった。五年間ずっと笑ってきた場所で、最後に泣くのは、あまりに惨めだ。
馬車の扉を閉めて、御者に行き先を告げる。声は震えなかった。
リーゼルは暗い馬車の中で、一つだけ決めた。
泣くのは、全部終わらせてからにする。
◇
ブラント子爵家の別邸に着いたのは、日付が変わる少し前だった。
叔母ヒルデの居間にはまだ灯りがあった。読みかけの本と、冷めかけた茶と、細い煙を上げる蝋燭。この人はいつも遅くまで起きている。
リーゼルは扉を叩いた。
「叔母様」
「あら、今夜は早いのね。いつもはもう少し——」
「叔母様」
声が震えていたのだと思う。ヒルデの表情が変わった。本を閉じ、眼鏡を外し、姪の顔をじっと見た。
何も聞かなかった。
「明日、お時間をいただけますか。大切な、お話があります」
長い間があった。ヒルデは立ち上がり、姪の肩にそっと手を置いた。骨張った、でも温かい手だった。
「朝食の後でいいかしら」
「はい」
「お茶を淹れるから、ゆっくり話しましょう」
リーゼルはうなずいた。
寝室の扉を閉めて、ようやく一人になる。
鏡台の前に座ると、夜会用の化粧がまだ完璧に残っている自分が映っていた。目元の紅も、唇の色も、一筋の乱れもない。五年かけて身につけた笑顔は、こういう夜でも崩れないようにできている。
——練習の成果、ですものね。
唇の端が歪んだ。泣き顔とも笑みともつかない、今まで一度も浮かべたことのない表情だった。
明日、叔母に全部話す。そして——終わりにする。
鏡の中のリーゼルは、もう笑っていなかった。




