第8話 大浴場
クレアが焼いてくれた高級クッキーの甘い余韻が口の中に残る中、私は談話室の絨毯の上でふぅと一息ついていた。
だが、安息の時間は長くは続かない。
「次はウチが遊んであげる番! ほらヒロシ、高い高いしてやる!」
「ちょっとミーシャ、食後すぐにそんな激しい運動をさせたら吐いちゃうわ。ここはあたいが優しくブラッシングをしてあげるにゃー」
「……ルミナが、抱き上げてゲップさせてあげる」
ミーシャ、クレア、ルミナの三人が、私の前で火花を散らし始めた。誰が私のお世話の主導権を握るかという、可愛らしくも恐ろしい権力闘争である。
ここで誰か一人に肩入れすれば、間違いなく角が立つ。中間管理職として数々の部署間の対立を調停してきた私の防衛本能が、瞬時に最適解を弾き出した。
私はおもむろに立ち上がり、「ミャァ(まあまあ、落ち着いて)」と声を上げながら、まずはミーシャの足元にすり寄って軽く尻尾を振る。彼女が喜んだ隙に、クレアの膝に頭を擦りつけて「ミャオン(ブラッシングも捨てがたいですが)」と甘え、最後にルミナの服の裾を前足でちょいちょいと引っ張って「ニャ(あなたの優しさに感謝します)」と見上げる。
平等な愛嬌の配分。波風を立てず、全員に自分が特別だと思わせる「事なかれ」の接待スキルだ。
「もう、ヒロシちゃんったらみんなのことが大好きなのね!」
「しゃーないなー、じゃあ順番こにしようぜ!」
三人は見事に矛を収め、和やかな空気が戻る。私の人間説得スキル……いや、猫説得スキルも捨てたものではない。
「……ヒロシさんは、まるで人間の言葉を完全に理解して、空気を読んでいるみたいですね」
ふいに、丸眼鏡を押し上げながらノノが近づいてきた。彼女の手には、複雑な形をした木製の知育パズルが握られている。
「普通の猫なら、こんなもの解けないですが、少し試させてもらってもいいですか?」
ノノはカチャリとパズルを私の前に置いた。私の背筋に冷たい汗が伝う。
このマイペースな天才オタク少女は、私の些細な仕草から確実に何かを勘付いている。ここでパズルを解いてしまえば、中身がおっさんであることがバレてしまうかもしれない。
私はあえてパズルには目もくれず、コロンと仰向けになって「ニャー」と間抜けな声を出した。ただの猫を全力で演じるしかない。
「……ふふっ。しっぽを出さないつもりですか」
ノノが意味深に微笑んだその時、凛とした声が談話室に響き渡った。
「皆さん、遊ぶのはそこまでです。ヒロシさん、聖女寮の猫たるもの、常に清潔であるべきです! 外から来たばかりでダニやノミがいては不衛生極まりない。今すぐお風呂に入りましょう!」
腕組みをして仁王立ちしているのは、風紀委員のようなキリッとした顔つきのエルザだ。
お風呂。その言葉の響きに、私は四十数年の人生で最大の危機を感じた。
男子禁制の見習い聖女寮の大浴場。そこへ、十代の美少女たちと一緒に入る?
アリシアの「手を出したら死より苦しい思いをさせるわよ」というドスの効いた警告が脳裏に蘇る。手を出さなくても、目を開けているだけでアウトなのではないか。
私は全力で後ずさりし、逃げ出そうとした。
「ミャ、ミャァァァー!!(丁重にお断りします!)」
「あらあら、お風呂が怖いの? 大丈夫よ、綺麗にしてあげるからね」
「猫ちゃんはお風呂が嫌いっていいますからね。さあ逃がしませんよ、行きますよ!」
必死の抵抗も虚しく、エルザとクレアに両脇を抱えられ、私は大浴場へと強制連行された。
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湯気が立ち込める大浴場は、石造りの立派な作りだった。
脱衣所で「では、私たちも脱ぎましょうか」という言葉が聞こえた瞬間、私はギュッと固く目を閉じた。視界を遮断しなければ、大聖女の神罰が下る。
だが、視界を塞いでも、嗅覚と触覚は容赦なく私を責め立ててきた。甘い石鹸の香り、温かいお湯の音。そして何より――。
「まずは全身をしっかり洗いましょう。みんな、手伝って!」
エルザの号令とともに、私の体に無数の手が伸びてきた。
五人の美少女、合計十本の手が、泡立てた石鹸とともに私の体を洗い始めたのだ。
「きゃはは、ヒロシのお腹、ぷにぷにしてる!」
「耳の後ろも念入りに洗いましょう。猫はここが気持ちいいはずよ」
「手のひらも……肉キュウ肉キュウ……」
背中、お腹、足の先まで、柔らかく滑らかな手が絶え間なく触れてくる。
おっさんとして生きてきて、女性に体を洗ってもらうなど、絶対にあり得ない事態だ。しかも相手は十代の聖女見習いたち。
羞恥心と緊張で心臓が破裂しそうだったが、それ以上に、十本の手が一斉に這い回る感触は、致命的にくすぐったかった。
脇腹や首元をわしゃわしゃと洗われ、私はついに耐えきれず、仰向けにお腹を丸出しにする「ヘソ天」のポーズになって身悶えした。
「ゴロニャー(うふっおふぅおふぉっ)」
笑いを堪えきれず、奇妙な鳴き声が漏れる。
「あはは! ヒロシちゃん、くすぐったいのね。ごめんごめん」
クレアが笑いながら私の頬を撫でる。極楽と地獄が同時に押し寄せる、狂気のようなバスタイムだった。
泡を綺麗に洗い流され、私はそのまま温かい湯船にドボンと入れられた。
「ふぅ……」
お湯の心地よさに、思わずおっさん臭い溜息が漏れてしまう。
「猫ってお風呂嫌いだって聞いてたけど、この子は本当に気持ちよさそうね」
ミーシャが不思議そうに首を傾げながら、私のおでこにお湯をかける。私は目を細めたまま、ただされるがままになっていた。
「本当に。大人しくて良い子ですね」
エルザが私の隣に浸かり、そっと背中を撫でた。彼女の声には、普段のツンとした厳しさはなく、どこかホッとしたような響きがあった。
「……私、男の人が苦手なんです」
湯気に紛れて、エルザがぽつりと呟いた。
「不潔で、醜悪で、欲望のままに動く生き物。思い出すだけで吐き気がする。だから、ヒロシがオスだと知って、少し怖かったの。でも……」
彼女の指が、私の首筋を優しく掻く。
「ヒロシは、全然嫌じゃない。温かくて、安心する」
その言葉の裏にある、彼女の過酷な過去のトラウマ。その時の恐怖が、どれほどのものだったのか。
私は自分がその「不潔で醜悪な」大人の男であることに強い罪悪感を抱いた。彼女が心から安心できるこの聖域を、私は騙して享受しているのだ。
だが、今はただ、彼女の震える指先の温もりを受け止めるしかない。
私は彼女を慰めるように、「ミャオン(私はあなたを悲しませるようなことはしませんよ)」と短く鳴いて、エルザの手のひらに頬をすり寄せた。
「ありがとう、ヒロシ」
エルザがふわりと微笑んだ気配がした。
絶対に目を開けてはいけない。そう強く心に誓いながら、私は十代の少女たちの柔らかな肌の感触と甘い香りに包まれ、理性の限界と戦い続ける地獄の極楽湯を堪能、いや、耐え忍んでいた。




