第43話 祝杯
ある夜。
私はアリシアに頼み込み、一時的に偽装魔法を解いてもらって「よれたスーツの中年男性」の姿に戻り、聖都の裏路地にあるあの赤提灯の居酒屋を訪れていた。
暖簾をくぐると、すでにカウンターの奥で熱燗の徳利を傾けている男の背中があった。
「お疲れ様です、ザルグさん」
私が声をかけると、当時はくたびれたスーツ姿だったが、今はパリッとした新品のオーダースーツを着こなした魔王軍の前線営業部長、ザルグがニカッと笑って振り返った。
「おお、来たか同志!さあ、座ってくれ。今日は俺のおごりだ!」
彼は人間界との事業提携をまとめるため、魔王軍の特命担当として聖都へ出張してきているのだ。
私の前にお猪口が置かれ、熱い酒が注がれる。私たちはそれを軽く合わせ、クイッと呷った。
「くぅ〜っ、五臓六腑に染み渡りますね」
「全くだ。……いやぁ、同志のおかげで、我が魔王軍は最高のホワイト企業に生まれ変わったぜ」
ザルグは目尻を下げ、上機嫌でモツ煮をつまんだ。
「残業ゼロ、完全週休二日制。おまけに有給休暇まで自由に取れるようになった。現場の部下たちも、無駄な襲撃タスクで命をすり減らすことがなくなって、皆イキイキと働いてるよ。ルシフェル社長も、貿易の利益が過去最高を叩き出したって大層ご満悦だ」
「それは何よりです。こちらの教会も、腐った経営陣を一掃したおかげで風通しが良くなりました。おっさんたちの再就職支援も軌道に乗りましたしね」
「ははは!あのお高くとまった元老院のジジイどもを完全に包囲したあの手際、思い出すだけで酒が美味いぜ」
私たちは、自分たちが成し遂げた完璧な一大事業転換の成功を称え合い、何度も杯を交わした。
敵味方の垣根を越え、理不尽な上層部に苦しめられてきた中間管理職同士が、共に手を組んで世界を変えた。これ以上ないほどの、最高のプロジェクトだった。
「……で、同志はどうするんだ?」
ふと、ザルグが真顔になって私を見た。
「お前が企画した人材派遣センターは大成功だ。もうあの聖女寮で、猫のふりをして隠れ住む必要もなくなったわけだろ? うちの魔王軍に来ないか? お前の企画力と調整力があれば、すぐにでも役員待遇で迎え入れるぜ」
ザルグの魅力的な誘いに、私は小さく笑って首を振った。
「お誘いはありがたいですが、遠慮しておきます。私はただの事なかれ主義の男です。波風の立たない、平穏で目立たない日常に戻れれば、それで十分なんですよ」
「そうか。お前らしいな」
ザルグは少し残念そうに笑ったが、無理に引き止めることはしなかった。
「なら、お前の新しい『平穏な門出』に乾杯だ」
「ええ。お互いの、ホワイトな未来に」
+++
ザルグと固い握手を交わして別れた帰り道。
夜風に吹かれながら、私はよれたスーツのポケットを探り、一枚の白い封筒を取り出した。
中に入っているのは、私がしたためた「辞表」である。
すべての事後処理が片付き、世界に平和が戻った。保護おっさんたちの就職先も確保できた。自分の就職先も何とかなりそうだ。私が大聖女の施しによって猫の姿で匿われる理由は、もうどこにもないのだ。
「……さて。明日、アリシアさんにこれを提出して、私も人間の姿に戻って、どこかの企業で平穏に働かせてもらいましょう」
私は月明かりの下で、新しい生活に思いを馳せながら、清々しい足取りで見習い聖女寮への帰路についた。
+++
翌朝。
私は大聖女――いや、今や名実ともに教会のトップである「教皇」となったアリシアの執務室を訪れていた。
相変わらずクレア特製のフリフリ洋服を着た小太り猫の姿だが、気分はこれ以上ないほど晴れやかだった。私は事なかれ主義のサラリーマンらしく、前足で器用に白い封筒を机の上に押し出した。
「これは?」
書類仕事の手を止めたアリシアが、不思議そうに封筒を見つめる。
「ニャオン(辞表です)」
私は胸を張り、晴れやかな声で告げた。
「ニャーニャニャー(すべての事後処理が片付き、保護おっさんたちの就職先も決まり私もどうにかなりそうです。ダングロウドも元老院もいない今、私がこちらで猫の姿で匿われる理由はありません。これで私も人間の姿に戻って、どこかの企業で平穏に働けます)」
私の堂々とした態度に、アリシアは少しだけ目を丸くした。
そして、ふっと口角を上げ、どこか悪戯っぽい、あのクーデターを企てていた時のような表情を浮かべた。
「……そう。あなたはここを出て、人間として今後を生きていくのね」
「ミャ(はい。お世話になりました)」
私が深く頭を下げた、まさにその時だった。
コンコン、とノックの音が響き、執務室の重厚な扉が開かれた。
「先生!ヒロシちゃんへの特製おやつ、持ってきましたー!」
元気な声と共に、見習い聖女の五人――クレア、ミーシャ、ルミナ、エルザ、ノノが、大きなお盆を抱えて部屋に入ってきた。
アリシアは私から視線を外し、彼女たちに向かって、これ以上ないほど透き通った慈愛の笑みを向けた。
「みなさん。ヒロシちゃんがここを去りたいそうです」




