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第34話 アリシアの理想

 深夜二時を回った頃。少女たちは作業の合間に、絨毯の上で身を寄せ合うようにして短い仮眠を取り始めた。規則正しい寝息が静かに響く中、アリシアだけは窓辺に立ち、冷たい月明かりを見上げていた。


 私は彼女の足元へ歩み寄り、ポンと前足を彼女のドレスの裾に乗せた。

「……ありがとう、ヒロシ。少し休めたわ」

 アリシアは私の側に寄り、窓枠に腰を下ろした。彼女の横顔には、昼間の凛とした威厳とは違う、等身大の女性としての儚さと、燃えるような強い決意が同居していた。


「この企画書が通って、魔王軍との戦争が終われば……あの子たちの未来は大きく変わるわ」

 アリシアは眠る少女たちへ愛おしそうな視線を向けた。

「スラムで泥水をすすっていた頃、私は大人たちに使い潰されるだけの便利な道具だった。でも、このまま終わるつもりはなかった。だから私、教会上層部のジジイたちに徹底的に愛想笑いを振りまいたのよ。媚びを売り、従順なふりをして彼らの懐に入り込んだ。そして裏では、血を吐くような思いで魔法と教義を猛勉強したわ。実力で、誰にも文句を言わせない『大聖女』の座をもぎ取るためにね」


 彼女の語る言葉の重みに、私は息を呑んだ。

 屈辱に耐え、泥を被りながらも、確固たる目的のために上へ這い上がる。それは並大抵の精神力で成し遂げられることではない。


「すべては、この寮を作るためだった。でも、ここだけじゃまだ足りないの」

 アリシアは夜空を見つめ、自身の思い描く未来を語り始めた。

「今のこの寮は、たった五人の居場所。でも、教会の腐敗を一掃して予算を正常化できれば、もっと規模を拡大できる。魔族との無意味な争いで親を失った孤児たちや、理不尽に虐げられている女性たち、それに……ダングロウドのような悪党に搾取されている哀れな迷い人の人たちも。すべてを受け入れ、守り、自立を支援できるような巨大な保護組織を作りたいの。搾取されるだけの弱者を、この世界から無くすために」


 それは、実権を持たないお飾りなどではない、真の指導者としてのスケールの大きな思想だった。

 かつて事なかれ主義で保身に走り、部下を一人守り切れなかった私には、彼女のその強さと志が、とてつもなく眩しく、そして尊いものに感じられた。


「ミャオン……(あなたなら、絶対に成し遂げられますよ。そのために、私が完璧な企画書を仕上げてみせます)」

 私は彼女の手を力強く握った。アリシアはふっと微笑んで「ありがとう」と私の手を握り返してくれた。


 +++


 窓の外がうっすらと白み始めた頃。

「……出ました」

 丸眼鏡を押し上げ、ノノが静かに、しかし確信に満ちた声で告げた。


「先生の仮説通りです。元老院は、魔王軍に支払うべき報酬である希少資源などの『八割』を中抜きし、私腹を肥やしていました。これが動かぬ証拠です」

 完璧に裏付けられた数字のデータが、机の上に並べられた。


「よし。これで第一段階はクリアね」

 ノノの横を通って、私は二本足で立ち上がり、集まったデータを見渡した。


「ニャーニャニャーニャーニャー(ですが、これだけでは合理主義の魔王様を完全に納得させることはできません。『報酬が少ないなら、人間界を滅ぼして直接奪う』と言い出しかねない。彼らをビジネスパートナーとして引き入れるための、圧倒的な『メリット』を提示する必要があります)」


 アリシアが私の意図を汲み取り、彼女自身の意見かのように皆に向けて通訳してくれた。


 私はノノが作成した別の資料、魔王軍の『経費帳簿』を前足で叩いた。

「ニャーニャニャーニャーニャーニャー(ここに、人間界への無駄な侵攻……つまりマッチポンプにかかる『兵站へいたんコスト』が記載されています。兵士の移動、食料、武器の消耗。これらを合わせると、魔王軍は受け取っている報酬の何倍もの赤字を垂れ流していることになります)」

 その事実を数字で明確に証明した瞬間、通訳したアリシアも息を呑んだ。


「つまり、戦いをやめて正式な国交を結び、観光や資源貿易に切り替える方が、魔王軍にとって圧倒的に利益になるということですね!」

 エルザが興奮気味に声を上げた。


「ニャー(その通りです。魔王ルシフェルは利益至上主義の社長。ならば、感情論ではなく、明確な『事業計画』として提案すれば必ず乗ってきます。エルザさん、タイピングをお願いします。タイトルは……『魔王軍・事業転換企画書』)」

 私はこれまでの営業経験と企画立案のスキルをすべて注ぎ込んだ。


 そこからは怒涛の作業だった。

 私がロジックを組み立てて鳴き声を上げ、アリシアが通訳し、エルザが猛烈なスピードで文字に起こしていく。ノノが的確な数字の裏付けを各項目に差し込み、ルミナとミーシャが資料の整理をサポートし、クレアが夜食で胃袋を支える。

「現在の不毛なマッチポンプ事業からの撤退」によるコスト削減効果。「正式な国交樹立に伴う、人間界への観光事業および希少資源の正規貿易」による利益予測。

 無駄を一切省き、メリットだけを論理的に訴えかける、完璧なビジネス文書だ。


「ニャーニャニャーニャーニャーニャー」

「ヒロシちゃん。ちょっと黙って! 集中したいの」


 私が指示を出しているとはつゆほども知らないエルザ。

 仕方なく私はアリシアの耳元で小さく囁くこととした。


 朝日が完全に昇りきり、執務室に眩しい光が差し込んだ時。

「……完成、しました」

 エルザがタイプライターから最後の一枚を引き抜き、綺麗に製本された分厚い企画書を机の上に置いた。


【魔王軍・事業転換企画書】


 それは、徹夜で書き上げられた、元老院の悪事を暴き、魔界と人間界の歴史を根底から覆すための究極のプレゼン資料だった。


「やった……! みんな、本当にお疲れ様!」

 アリシアが涙ぐみながら少女たちを労い、執務室は達成感に包まれた。

 私も香箱座りになり、ふぅと深い溜息をついた。これほど充実した企画書を書き上げたのは、日本の会社員時代を含めても初めてかもしれない。


 これで、魔王軍側の説得材料は完璧に揃った。

 次は、あの腐りきった元老院を国内から完全に包囲するための、王国側の協力者探しだ。私の中間管理職としての「根回し」の真骨頂は、ここから始まるのだ。

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