第29話 タスクの中止
恐怖で足は震え、心臓は早鐘のように打っている。クレアが作ってくれたフリフリの洋服を着た、ただの小太り猫の姿だ。傍から見れば、滑稽極まりないだろう。
「ヒ、ヒロシちゃん!? だめ、隠れてて!」
クレアの悲痛な叫びを背に受けながら、私はアリシアの真横にピタリと並び立った。
そして、二本足でスッと立ち上がり、二十体以上の魔王軍に向かって、ちっぽけな前足を広げて立ちはだかった。
「オニャァァー!!(私の大切な人たちに、指一本触れさせはしないぞ!)」
威嚇のつもりで放った声は、ただの愛嬌のある猫の鳴き声として響き渡った。
しかし、私は一歩も退かない。事なかれ主義をかなぐり捨てた元中間管理職の、これが命を懸けた最後の意地だ。
私の悲壮な決意を込めた鳴き声が、張り詰めた談話室に響き渡った。
しかし、大悪魔のリーダーは私を虫ケラのように踏み潰す……ことはなく、なぜかその場にピタリと硬直した。彼から放たれていた圧倒的な殺気が、風船がしぼむようにスゥッと消えていく。漆黒の兜の奥にある鋭い眼光が、限界まで見開かれていた。
彼は、私の着ているクレア特製のフリフリ洋服と、メタボな腹、そして何より私の「顔」をマジマジと見つめ、眉間にしわを寄せ始めた。
「お、お前……っ!」
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大悪魔が低くしゃがれた声を上げた瞬間、彼の全身を包んでいた禍々しい瘴気がパチンと弾け飛んだ。
その直後、驚くべき現象が起きた。見上げるほど巨大だった悪魔の肉体がシュルシュルと縮み、見覚えのある「くたびれたスーツ姿の中年男性」へと変貌したのだ。
それは間違いなく、昨夜の赤提灯の居酒屋で、互いの仕事の愚痴をこぼし合い、涙ぐみながらモツ煮と熱燗を酌み交わした「強面の同志」だった。
「俺だよ俺! 昨日ほら! カウンターで一緒に飲んでた!」
男が必死に自分を指差して叫ぶ。
「ミャ、ミャー!?(えー!! あなたでしたか! 昨日はごちそうさまです!)」
私も驚愕のあまり、二本足で立ったまま前足をバタバタと振って応えた。
「あんた、こんなところで何してんだよ! ていうか、ここがあんたの言ってた『今の職場』か!?」
「ミャオン(ええ、まあ、居候の身ですが! そちらこそ、今朝の無茶振りタスクってこれのことだったんですか!)」
言葉の壁を超え(彼には私の言葉が分かっているが)、私と男――魔王軍の襲撃指揮者は、駆け寄って固く熱いハグを交わした。四十路のくたびれた男と、フリフリの服を着た小太り猫の、涙の再会である。
「な、なによこれ……」
悲壮な覚悟を決めていたアリシアが、杖を構えたまま完全にポカンと口を開けていた。背後の見習い聖女たちも、目の前で繰り広げられるあまりにもシュールな光景に、恐怖を通り越して全員がフリーズしている。
彼は私とのハグを終えると、忌々しげに舌打ちをした。
「全く、上の連中は本当に現場の状況を分かっちゃいねえ! こんな心優しい同志の居場所をぶっ壊せだなんて、クソジジイどもの言いなりになってられるか!」
彼は背後に控える魔族の部下たちに向かって、声高らかに叫んだ。
「野郎ども、聞け! クライアントの無茶振りにはこれ以上付き合いきれん! 本日の襲撃タスクは中止だ! 直ちに撤収し、本日は全員『有給消化』とする!」
その瞬間、禍々しいオーラを放っていた魔族たちが一斉に顔を輝かせた。
「えっ、マジっすか部長!?」
「やったー! 三ヶ月ぶりの有給だ!」
「よっしゃ、帰って家族サービスします! 部長、一生ついていきます!」
魔族たちは大喜びで次々と窓から飛び立ち、嵐のように撤収していった。
魔王軍がまさかの超ホワイト企業だったとは。中間管理職の鑑のような彼の決断に、私は心の中で静かに拍手を送った。
そして彼は部下たちだけを魔族領へ帰し、自身はくたびれたスーツ姿の中年男性の姿のまま、談話室にポツリと残った。
談話室に残されたのは、粉々になった窓ガラスの破片と、呆然と立ち尽くす私たちだけである。
「……え? ええっと……?」
悲壮な覚悟を決めていたアリシアが、完全に処理能力を超えた脳をフル回転させようと目を白黒させている。
その静寂を破ったのは、見習い聖女たちの歓声だった。
「ヒロシちゃん! すごい! すごいわ!」
クレアが真っ先に飛びついてきて、私をぎゅっと抱きしめた。
「ヒロシが鳴いたら、あの怖い魔族たちが急に撤退してったぞ! お前、猫が魔族を追い払うなんてすっげーな!」
ミーシャが大喜びで私の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
「ヒロシ……守ってくれて、ありがとう……」
「聖女寮の猫たるもの、悪魔をも退ける神聖な力があるのですね。見直しましたよ」
ルミナとエルザも、キラキラと尊敬の眼差しを向けてくる。どうやら彼女たちの目には、「勇敢な猫が鳴き声一つで魔王軍を追い払った」という、とんでもない勘違いの英雄譚として映っているらしい。
「ミャ、ミャァ……(いや、ただの飲み仲間だっただけなんですが……)」
私が苦笑いしながら揉みくちゃにされていると、部屋の中央に残っていた彼が、コホンとわざとらしく咳払いをした。
「ええと……嬢ちゃんたち。驚かせて悪かったな。俺は魔王軍・前線営業部長のザルグだ。……昨日はそこの同志に、ずいぶんと愚痴を聞いてもらって世話になって、意気投合しちゃってな」
彼は頭をポリポリと掻きながら、改めて大聖女と見習い聖女たちに向けて自己紹介をした。魔族の幹部とは思えないほど、腰の低い、くたびれたサラリーマンの風貌である。
そして、彼は足元のガラスの破片に目を落とし、バツが悪そうに肩をすくめた。
「派手に窓を壊してすまねぇな。修理費は俺のポケットマネーからちゃんと出すからよ」
「あ、いえ……修理費って……」
見習い聖女たちは、先ほどまで「寮を破壊する」と豪語していた魔王軍の幹部が、人間の姿でペコペコと謝罪し、窓の弁償まで申し出ているシュールな状況に戸惑いを隠せない。
さらに言えば、その魔王軍の幹部と、自分たちが溺愛している小太り猫が「同志」として謎の友情で結ばれているのだ。混乱するのも無理はない。
「……みんな。怪我がなくて本当によかったわ」
ようやく我に返ったアリシアが、パンパンと手を叩いて場を仕切り直した。
「クレア、みんなでここの掃除をお願い。……ザルグ殿と言いましたね。詳しいお話は、一旦私の執務室で伺いましょうか」
アリシアはそう言って、私とザルグに視線を送った。
その目は、慈愛の聖女でも、決死の覚悟を決めた上司でもなく、完全に自分だけが何も知らないのが癪といった感じのような鋭いジト目だった。




