第27話 熱い酒盛り
湯気を立てるモツ煮込みが目の前に置かれた。ネギがたっぷりと乗せられ、大根やこんにゃくが飴色に染まっている。見た目も匂いも、私の記憶にある日本の赤提灯のものとほぼ変わらない。
私は大聖女の魔法によって猫の姿に偽装されているため、はたから見れば器用に箸を使ってつまみを頬張る曲芸猫にでも見えているだろう。
「ハフハフ……美味い」
濃いめの味噌の味と、トロトロに煮込まれたモツの旨味が、疲労困憊の五臓六腑に染み渡っていく。見習い聖女のクレアが作ってくれる料理も確かに素晴らしいが、今の私にはこのチープで下町臭い味が何よりもありがたかった。
隣に座った強面の男は、出された熱燗をグイッと一息に煽ると、ふうっと地の底から響くような深いため息をついた。その横顔には、歴戦の戦士のような凄みがあるにもかかわらず、どこか「哀愁」という言葉がよく似合っている。
「……聞いてくれよ」
ふいに、男がぽつりとこぼした。カウンターを見つめたまま、誰にともなく吐き出すような声だった。
「大口の顧客がさぁ、急に仕様変更だの納期前倒しだのって、無茶を言ってきたんだよ。『明日までに依頼を遂行しろ』ってな」
「明日までに、ですか」
「ああ。てなことで明日は朝イチで部下を緊急招集かけて仕事だよ。無茶振りすぎるよ。現場のシフト調整、全然間に合ってないっつーの!」
男はガシガシと頭を掻きむしり、溜まりに溜まった愚痴を爆発させた。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、かつて日本のオフィスで味わったあの胃の痛みが鮮明に蘇った。
「あー……分かります。痛いほどよく分かりますよ」
私は手元の猪口を置き、深く頷いた。
「上の『明日までにやれ』っていう軽い一言は、現場にとっては死を意味しますよね。上が思いつきで決めたイベントや納期のせいで、現場の人間がどれだけ徹夜して泥水をすする羽目になるか。うちの元上司もそうでした。現場の状況なんて一切見ずに言いたいこと言って、こっちはそれに振り回されてばかりで……」
私がしみじみと語ると、男は弾かれたように顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「お前……分かってくれるか!」
「ええ。顧客と現場の板挟み。上層部は、現場で立ち回っている私たちのことを何だと思ってるんだって話ですよね。都合のいい駒じゃないんだぞ、と」
「そう! その通りだ! 全く、あのふんぞり返ったお偉いさんどもは、現場の苦労をちっとも分かっちゃいねえ! 指示を出すだけで自分たちは安全な場所にいやがる!」
男の鋭い瞳に、うっすらと光るものが浮かんでいるように見えた。
彼もまた、組織という巨大な理不尽の中で戦う「中間管理職」のようだ。彼がどこの組織のどんな職業なのかは全く分からない。だが、背負っているものの重さと、板挟みの苦しみは、世界を超えて痛いほど伝わってきた。
「お互い、キツいけど頑張ろうな……」
男が私の肩(はたから見れば猫の背中)に大きな手を置き、労うようにポンポンと叩く。
私も「ええ、負けずに生き抜きましょう」と前足を伸ばし、彼の分厚い腕をポンポンと叩き返した。
素性も知らない男と男の間に、熱いねぎらいの絆が生まれた瞬間だった。
ふと強い視線を感じて顔を向けると、厨房の奥で店主が信じられないものを見るような目でこちらを凝視し、口をぽかんと開けて固まっていた。
無理もない。店主の目には、今の私たちは「いかついサラリーマン風の男が、カウンターの席でお座りしている酒を煽る小太りの野良猫に向かって仕事の愚痴を熱く語り、涙ぐみながらお互いの肩を叩き合っている」という、狂気じみたシュールな光景にしか映っていないのだから。
だが、男も私もそんな他人の目など気にならなかった。私たちはただ、互いの苦労を分かち合える「同志」に出会えた喜びに浸っていたのだ。
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気づけば、男の前に置かれた徳利はすっかり空になっていた。
「おい、親父! もう一本だ! いや、もう一軒行こうぜあんた! 金ならある。ここも次もおごるからよ」
すっかり意気投合し、上機嫌になった男が私の肩を抱き寄せて誘ってきた。酒も入り、彼の顔には先ほどの鬱屈とした表情はもうない。すっかり憑き物が落ちたような、良い笑顔だった。
私も久しぶりの「人間同士」の飲み会が楽しくて、つい誘いに乗りそうになった。
だが、大人の社会人として、そしてかつて部下を持っていた身として、ここで彼をこれ以上深酒させるわけにはいかない。
「お気持ちはとても嬉しいですが……明日は必ずやって来ます。あなたの大事なお仕事に支障が出ますよ」
私は男のグラスをそっと前足で押しとどめ、ピシャリと諭すように言った。
「明日は朝イチで部下の方々を緊急招集されるのでしょう? 上が疲れた顔をしていては、ただでさえ無茶振りで駆り出される現場の士気に関わります。無理なさらないでください。ね、今日はこのへんにしましょう」
私の言葉に、男は少し目を丸くした後、ハハハと天井を見上げて豪快に笑った。
「違いない! いやぁ、耳が痛いぜ。全くだ、明日のタスクをこなすためにも、今日はしっかり休まねえとな。上の人間が二日酔いじゃ、部下たちに示しがつかねえ」
男はカウンターに硬貨を数枚置き、立ち上がった。どうやら私の分も支払ってくれたようだ。そして、改めて私の方に向き直り、ニカッと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「あんたはなんて優しい奴だ。あんたみたいな理解者がいてくれて、今日は本当に救われたよ。おかげで、明日のクソみたいな仕事もなんとか乗り切れそうだ」
「お互い様ですよ。私も、久しぶりに普通の男として、美味しいお酒が飲めました」
「またこの店で会おうぜ、同志よ」
「ぜひ。それから、今日はごちそうさまでした」
男は私に軽く手を挙げると、背筋を伸ばし、清々しい足取りで暖簾をくぐって夜の街へと消えていった。
残された私は、彼が奢ってくれたモツ煮の最後の一口を名残惜しく平らげながら、じんわりと温かくなった胸の奥を感じていた。
「明日、か」
私も、あの見習い聖女寮に帰れば、再び「小太り猫」としての極楽と地獄が入り混じる激務が待っている。
男に偉そうなことを言った手前、私がへばっているわけにはいかない。私には、あの純真な少女たちの笑顔と居場所を守るという、大事な「使命」があるのだから。
私はぽっこりと膨らんだ腹の肉を揺らしながら店を出て、月明かりに照らされた石畳を歩き、寮への帰路についた。




