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第26話 深夜の赤提灯

 見習い聖女寮での生活は、紛れもなく極楽だ。だが、同時に命を削る地獄でもある。


 昼間はミーシャの容赦ない水泳特訓に付き合わされ、エルザのきれい好きで何度も風呂へ入らされた。夕食にはクレアが愛情をたっぷり込めた、致死量のカロリーを誇る背徳飯を笑顔で完食を強要され、胃袋が破裂寸前になった。

 そして夜になれば、ルミナの拘束添い寝が待っている。

 若い美少女たちから向けられる無償の愛と、十代特有の有り余るエネルギー。四十二歳、運動不足でメタボ気味の中年男性の肉体には、あまりにも負荷が大きすぎた。


 深夜。私は何とかルミナの腕から抜け出し、冷たい夜風を求めて寮をこっそりと抜け出した。

 大聖女アリシアの偽装魔法によって、私の姿は周囲には「愛嬌たっぷりの小太り猫」にしか見えない。誰かに見咎みとがめられても、ただの野良猫が散歩しているとしか思われないのが唯一の救いだった。


 石畳の裏路地を、四つん這いでとぼとぼと歩く。

 息抜きをしようと明確な目的があって外に出たわけではない。ただ、疲労困憊の心と体が、無意識のうちに安らぎを求めていたのだ。

 ふと、路地の奥から漏れる暖かなオレンジ色の光が目に留まった。

 風に揺れる古びた看板と、中から漂ってくる出汁と醤油が焦げたような匂い。それは、かつての世界で働いていた頃、上司と部下の板挟みになって胃を痛めた帰りに、毎晩のように吸い寄せられていた赤提灯の居酒屋そのものだった。


 異世界にもこんな場所があるのか。

 心が疲れた時ほど呑みたくなる悲しきサラリーマンの習性が、私の足を引き寄せる。私は吸い込まれるように、その寂れた居酒屋の暖簾をくぐっていた。


 +++


「いらっしゃい……おや、なんだ。猫ちゃんか」


 薄暗い店内は、数人のくたびれた客が静かに酒を飲んでいるだけで、活気とは無縁だった。カウンターの奥でグラスを拭いていた店主が、迷い込んできた私を見て目を丸くする。

 魔法で猫に見えているとはいえ、大柄な小太り猫など珍しいだろう。

 私は空いているカウンターの隅の席にひょいと飛び乗り、行儀良くお座りをした。


 そこへ、背後の引き戸がガラリと開いた。


「親父、開いてるか?」

 入ってきたのは、私と同年代くらいの、強面の男だった。禍々しいほどの威圧感を放っているが、なぜかその肩はひどく落ち込んでおり、まとっている空気は連日の残業で生気を吸い取られたサラリーマンそのものだった。

 男は店内をぐるりと見渡すと、なぜか私の隣の席にどっかりと腰を下ろした。


「さて、と……」

 男が深いため息を吐き出すのを聞きながら、私は店主に向かって声をかけた。


「ミャー、ミャンミャ(熱燗と、モツ煮をお願いします)」


 しかし、私の声は店主の耳には可愛らしい猫の鳴き声にしか届かない。

「……おいおい、腹でも空かせてるのか? 悪いが、ここは猫ちゃんにやるような餌は置いてないぞ」

 店主が困惑して頭を掻く。

 大聖女の偽装魔法がかかっている以上、仕方がない。身振り手振りで伝えるべきかと思案していると、隣に座っていた男が低い声で言った。


「親父、こいつは熱燗とモツ煮が食いたいそうだ。俺にも同じものを頼む」

「は……? いや、お客さん、この子は猫で……」

「いいから、出してやってくれ」


 店主は怪訝な顔をしながらも、奥の厨房へと引っ込んでいった。

 私は驚愕して、隣の男を見上げた。


「ミャ!?(えっ、私の言葉が分かるんですか!?)」


 すると男は、ニヤリと口角を上げて私を見下ろした。

「ああ、分かるぜ。あんた、誰にかけられたか知らねえが、とんでもなく高度な偽装魔法をかけられてるな。だが、俺の目はごまかせねえよ」

 男は自分の目をトントンと指差した。

「俺の目には、あんたの本当の姿がバッチリ見えてるぜ」


 私は言葉を失った。

 大聖女アリシアの、教会のトップが施した最高位の魔法をいとも簡単に見破るなんて。この男、相手の真実の姿を看破する特殊な力でも持っているのだろうか。間違いなく、アリシアと同等かそれ以上の高位の魔法使いか何かに違いない。


 だが、そんなことよりも。

 この異世界に来てからずっと、「無能なゴミ」か「売れ残りの哀れな迷い人」、あるいは「可愛い小太り猫」としてしか扱われてこなかった私を。

 この男は、初めて私を「対等な一人の男」として見て、話しかけてくれているのだ。

 その事実が、ささくれ立っていた私の心に深く沁み渡った。


「……ありがとうございます。まさか、私を普通の人間として扱ってくれる方に出会えるとは思いませんでした」

 私が深々と頭を下げると、男は「気にするな」と無骨に笑った。


 運ばれてきた熱燗の猪口ちょこを前足で器用に持ち上げ、男の猪口と軽くぶつける。

「お疲れ様です」

「ああ、あんたもお疲れさん」


 クイッと酒をあおる。五臓六腑に染み渡るアルコールの熱さに、私は思わず「くぅ〜っ」と低く唸った。

 傍から見れば、どう見ても異常な光景だろう。

 くたびれた男が、カウンターで小太りの野良猫と真顔で乾杯し、酒を酌み交わしているのだから。店主や他の客たちが、時折こちらをチラチラと見てはドン引きしている気配を感じるが、今の私にはどうでもよかった。

 仮面を脱ぎ捨て、ただの中年男性として酒を飲めるこの時間が、たまらなく愛おしかったのだ。

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