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第20話 トカゲの尻尾切り

 翌日の午後。

 クレアの背脂チャーシュー丼による強烈な胃もたれを抱えつつも、私は大聖女の執務室へと向かった。


 昨夜のキッチンでのクレアの告白が、私の胸の奥でまだくすぶっている。親に売られそうになった過酷な過去を持ちながら、誰かに無償の愛を与え、喜んでもらうことでしか自分を救えない彼女の不器用な優しさ。

 その優しさを、そして彼女たちが心から安心できる唯一の居場所を守りたい。私はそう静かに決意を固めていた。


 ダングロウドの摘発を成功させ、見習い聖女たちの平穏な生活は続くはずだった。しかし、執務室の重厚な扉をくぐると、そこには頭を抱え、忌々しげに書類を睨みつけるアリシアの姿があった。


「アリシアさん、どうしたんです? そんな険しい顔をして」

 偽装魔法が機能しない彼女の前で、私は二本足で立ち上がり、よれたスーツのポケットに手を入れて尋ねた。


「……ヒロシ。やられたわ。完全に、一杯食わされた」

 アリシアの声には、深い疲労と苛立ちが滲んでいた。


「やられたって、どういうことです? ダングロウドは近衛騎士に連行されたはずじゃ……」

「ええ、彼は捕まったわ。でも、それだけよ。あのおっさん愛護団体の不正は、すべてダングロウド個人の暴走ということになったの」


 アリシアが机に叩きつけた報告書には、教会上層部からの通達が記されていた。そこには、今回の補助金横領事件に関して、教会本部は『被害者』であり、ダングロウドに騙されていたという体裁が整えられていたのだ。


「私は彼を捕まえたことによって芋づる式に教会や王国の膿を出してくれることに期待をしていたんだけど、根本的な解決にはならなかった。今回の保護おっさん譲渡会の摘発は、連中にとって単なる『トカゲの尻尾切り』に過ぎなかったの」


 私は眉をひそめた。

「トカゲの尻尾切り……。つまり、ダングロウドの背後にいる教会上層部や、彼に便宜を図っていた悪徳官僚たちは無傷だと?」

「その通り。彼らは都合の悪くなったダングロウドをあっさりと切り捨て、すべての罪を被せた。そして、ほとぼりが冷めれば、また別の隠れ蓑を作って、同じように補助金を掠め取るシステムを再構築するはずよ」


 ギリッと、アリシアが奥歯を噛み締める音が聞こえた。

「私は大聖女として、何千人もの前であんなにも切実に不正を告発したのに。結局、末端の実行犯を一人排除しただけで、教会の腐敗した本質には指一本触れられなかった!」


 その叫びには、自身の無力さに対する深い絶望が込められていた。

 私は、かつて彼女が語っていた教会の実態を思い出していた。

 大聖女という煌びやかな肩書を持ちながらも、彼女には予算の決裁権も人事権もない。教会の実権は、裏で糸を引く「元老院(枢機卿団)」と呼ばれる老人たちに完全に握られているのだ。


「アリシアさん……あなたは、教会のトップでありながら……」

「ええ、そうよ。大聖女なんて、ただの綺麗で都合のいいお飾り。実権なんて何一つない、ただの『名ばかり管理職』よ」

 自嘲気味に笑う彼女の姿が、かつての日本の会社で、上層部の理不尽な命令に逆らえず、部下を守りきれなかった自分自身と重なった。


 名ばかり管理職。


 その言葉の重みと苦しさは、四十二年間の人生を社会の歯車として生きてきた私には、痛いほどよく分かった。

 現場で泥水をすすりながら必死に足掻く者たちを、涼しい顔をした上層部が数字と体裁だけで切り捨てる。ダングロウドのような悪党ですら、彼らにとっては使い捨ての駒に過ぎないのだ。彼ら「元老院」の老人たちは、現場を知らず、数字と利益しか見ない自己愛の強い役員たちと同じだ。


「……ふざけるな」


 私の口から、低く、しかしはっきりとした怒りの声が漏れた。

 大聖女アリシアは、実権を裏の「元老院(枢機卿団)」に握られているだけの「名ばかり管理職」である。その抗えない事実に、私はこれまでにない激しい憤りを感じていた。

 アリシアが驚いたようにこちらを見上げる。


「ヒロシ……?」

「私は事なかれ主義で生きてきました。波風を立てず、理不尽には頭を下げてやり過ごすのが一番賢い生き方だと思っていました。……ですが」


 私はギュッと拳を握りしめた。

「クレアたちの無償の優しさを。そして、現場で必死に戦っているあなたの覚悟を、安全な場所から見下ろして踏みにじる連中のやり方は……元の世界であなたと同じような立場にいた者として、到底見過ごすことはできません」

 トカゲの尻尾を切って逃げるというのなら、その胴体を、いや、頭そのものをすげ替えるしかない。それが最も確実な、究極の「事なかれ」へと至る道だ。


「アリシアさん。このまま泣き寝入りするつもりはありませんよね?」

 私が静かに問うと、アリシアの瞳に再び強い光が宿った。


「当たり前よ。あのお高くとまった古狸どもを引きずり下ろすまで、私は絶対に諦めないわ」

「ええ、その意気です。連中が尻尾切りで逃げたというなら、次は逃げ道を完全に塞いでから本体を叩き潰しましょう。……私に、出来ることは何でもおっしゃってください」


 私はよれたスーツのネクタイを締め直し、大聖女に向けて不敵な笑みを浮かべた。

 事なかれ主義だったおっさんの、理不尽な上層部に対する静かで巨大な反逆が、今度こそ本格的に幕を開けようとしていた。

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