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第19話 超高カロリー夜食

 平和な見習い聖女寮での日々は、私のおっさんとしての尊厳を削りながらも、確かな安息を与えてくれていた。しかし、この男子禁制の楽園には、物理的な暴力とは別の、甘く恐ろしい脅威が存在する。


 それが「カロリー」だ。


「ヒロシちゃん、お待たせ! あたいの自信作、ついに完成したわよ!」

 談話室で香箱座りをし、うとうととしていた私の前に、寮のお母さん的存在であるクレアが満面の笑みで現れた。彼女の手には、私の顔よりも大きいのではないかという巨大な丼が握られている。

 そこから立ち上る匂いに、私は思わず毛を逆立てた。

 獣の肉をトロトロになるまで煮込んだであろう分厚いチャーシュー。その上に、雪山のようにこんもりと盛られた白い物体。それは大根おろしなどという健康的なものではない。固形の背脂せあぶらと、高級なバター、そしてとろけるチーズの凶悪な混合物だった。



「新作の、背脂チャーシュー丼・大盛りよ! 高級なバターとチーズをマシマシにしちゃった! 育ち盛りのヒロシちゃんのために、カロリーも愛情もたっぷり詰め込んであげたわ!」


「ミャ、ミャァ……(いや、育ち盛りじゃなくて、ただのメタボ中年なんですが……)」

 私は自身のメタボ化を気にしつつ後ずさりしようとしたが、クレアにふわりと抱きしめられ、逃げ道を塞がれてしまった。



「さあ、冷めないうちに食べてね。はい、あーん」


 クレアは木製のスプーンで、肉と脂と炭水化物の暴力的な塊をすくい上げ、私の口元へと運んでくる。彼女の優しげなタレ目が、期待にキラキラと輝いている。

 私は四十二歳のおっさんだ。健康診断の数値には常に怯えているし、これ以上腹の肉を育てるわけにはいかない。ここは断固として拒否し、健康管理を主張すべきだ。


 しかし……。

(ここで断れば、彼女のこの無邪気な笑顔を曇らせてしまう。せっかく時間と手間をかけて作ってくれたのに、場の空気が悪くなるのは避けたい……)

 長年、上司と部下の板挟みになり、理不尽な要求でも笑顔で飲み込んできた中間管理職特有の「断りきれない弱さ」が、ここでも完全に発動してしまった。


「……ニャ、ニャオン(いただきます)」

 私は観念して口を開き、その塊をパクリと飲み込んだ。

 美味い。信じられないほど美味い。脳髄を直接殴られるような強烈な旨味と脂の甘さが口いっぱいに広がる。

「ふふっ、美味しい? よかったぁ。ほら、次もあーんして?」

「ミャァ(あーん)」


 わんこそばの如く、次々とスプーンが口に運ばれてくる。クレアの慈愛に満ちた笑顔と、圧倒的な旨味の前に、私の理性は溶け去った。胃袋の限界を超えて膨らむ悲鳴を聞きなかったことにして、私はひたすらにその凶悪な背徳丼を食べ続けてしまったのだった。


 +++


 深夜。

 私は限界を超えて風船のように膨れ上がった腹を引きずりながら、薄暗い廊下を這うように歩いていた。あまりの満腹感に横になることもできず、水を求めて厨房へと向かったのだ。

 厨房に近づくと、微かに水音が聞こえてきた。そっと中を覗き込むと、月明かりに照らされながら、クレアが一人で鍋を磨いていた。


「……あら、ヒロシちゃん。どうしたの? あれだけ食べたのにもうお腹すいちゃったの?」

 私の足音に気づいたクレアが、優しく微笑みかけてくる。

「ミャァ……(逆逆! 食べすぎなのであります!)」

 私がたじろぐように短く鳴くと、彼女はしゃがみ込み、私の苦しそうな丸いお腹をそっと撫でてくれた。

「あっ、食べ過ぎって事ね。ごめんね、あたい、つい作りすぎちゃって。でも、ヒロシちゃんが美味しそうに全部食べてくれたから、すごく嬉しかったわ」

 彼女の手のひらは温かく、ぽっこり出たお腹の張りを和らげてくれるようだった。クレアはそのまま、厨房でぽつりぽつりと独り言のように自身の過去を語り始めた。


「あたいね、昔は下級貴族の娘だったの。でも家が借金まみれになっちゃって……両親は、あたいを裕福な悪徳商人の『愛人』として売ろうとしたわ」


 私は息を呑んだ。いつも明るく、みんなのお母さんとして振る舞っている彼女の口から、親に売られそうになったというあまりにも生々しく過酷な過去が飛び出したからだ。


「あのまま売られていたら、あたいはただの『物』として、心を殺して生きていくしかなかった。でも、街を視察していたアリシア先生が、間一髪であたいを保護してくれたのよ。あたいを、一人の人間として扱ってくれたの」


 クレアの指が、私の頭の毛を愛おしそうにく。

「……だからね、あたいも、誰かに無償の愛を与えたいの。見返りなんていらない。あたいが作ったもので誰かが喜んでくれること。それが、今のあたいにとって何よりの救いになっているのよ」


 彼女の優しいタレ目が、月明かりの中で潤んでいるように見えた。

 私に無理やりフリフリの服を着せたり、限界を超えて食べ物を食べさせたりする彼女の行動は、単なるペットへの溺愛ではなかったのだ。それは、「誰かに無償の愛を与え、喜んでもらうこと」でしか、自身の心の平穏を保てないという、彼女なりの切実な救済だったのだ。


 それを知った瞬間、私の腹の苦しさは消え失せ、代わりに胸の奥がギュッと締め付けられた。

「ミャオン……(あなたの愛は、しっかりと受け取っていますよ)」

 私は二本足で立ち上がり、ぽんと前足を彼女の膝に乗せた。そして、彼女の温かい手に自分の頬を擦り付けた。

「ふふっ……ありがとう、ヒロシちゃん」

 私は誓った。

 彼女は自分の痛みを、他者への果てしない優しさに変えて生きている。傷ついた彼女たちの優しさを、唯一の安全な居場所であるこの寮を、大人の理不尽な都合で踏みにじるような奴がいれば、私が絶対に許さない。

 事なかれ主義で逃げ続けてきた私の心に、静かだが決して消えない怒りの炎が灯った瞬間だった。

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