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第11話 名ばかり管理職

 美少女たちによる溺愛という名の過酷な蹂躙から逃れるため、私は見習い聖女寮の静かな廊下を散歩と称して徘徊していた。


 ミーシャの果てしない体力勝負の特訓や、エルザの潔癖すぎる強制お風呂タイム、さらにはルミナの拘束添い寝……。おっさんにとっては夢のような極楽であると同時に、命を削られるような地獄の毎日だ。一歩間違えれば大聖女の魔法で灰にされるかもしれないというプレッシャーもあり、心身の疲労は限界に近い。ほんの少しでも、猫の演技を忘れて一人の時間が欲しかったのだ。


 誰もいない静まり返った廊下を四つん這いで進んでいくと、ふと重厚なマホガニー製の木の扉が少しだけ開いているのが目に入った。隙間から漏れるオレンジ色の明かりと、カリカリと苛立たしげに羽ペンを走らせる音、そして深いため息。

 見上げると、扉の横には『大聖女執務室』という豪奢な金張りのプレートが掲げられていた。

 私は周りに誰もいないことを念入りに確認してから、ゆっくりと二本足で立ち上がった。そして、服の皺を軽く手で伸ばし、「失礼します」と小さく呟いて執務室の中へ足を踏み入れた。


「……誰? 今は一人にしておいてと言ったはず……あら、ヒロシじゃない」


 山のように積まれた分厚い書類の向こう側から顔を上げたのは、大聖女アリシアだった。彼女のその美しい顔には、表向きの慈愛に満ちた完璧な聖女の表情は欠片もなく、明らかな苛立ちと深い疲労が色濃く浮かんでいた。


「お疲れのようですね、アリシアさん」

「ええ、もう最悪よ。頭がおかしくなりそう」


 大聖女の偽装魔法は、彼女と私、つまり当事者同士の間では何の意味もなさない。彼女の目には、クレアが縫ってくれたフリフリの服を着て薄毛を気にする小太りの中年男性に映っているし、私の声も「ニャー」という可愛らしい鳴き声ではなく、くたびれたおっさんの低い声としてしっかりと届いている。だからこうして二人の時は、ごく普通の人間同士として、対等に会話をすることができるのだ。


「どうしたんですか? そんなに険しい顔をして。また例のおっさん愛護団体の件ですか?」

 私がデスクの前に立ち、気遣うように声をかけると、アリシアは忌々しそうに羽ペンをインク壺に投げ入れた。


「その通りよ。代表のダングロウドが多額の補助金を国や教会から引っ張るために、保護した迷い人に対する架空の重病手術費用や、法外なワクチン代なんかを計上した申請書と実施報告書。あれはすでに、教会本部の地下書庫に保管されていることが分かったの」

「それは朗報じゃないですか。その書類を押さえて実際の私たちの健康状態と照らし合わせれば、決定的な証拠になりますよね」

「……それが、そう簡単にはいかないのよ」


 アリシアは眉間を指で強く揉み解しながら、机の上の書類の束をバンッと力任せに叩いた。

「私が教会の正規ルートで閲覧申請を出したのに、なぜか本部から許可が下りないの。『現在精査中である』だの『手続きに不備がある』だの、適当な理由をつけられてはぐらかされてばかり。まるで、上層部の誰かが意図的にその書類を私から遠ざけようとしているみたいにね」


 私はその言葉に強い違和感を覚えた。

「おかしいですね。アリシアさんは『大聖女』……つまり、教会のトップ、企業の社長や代表取締役にあたる立場でしょう? 社長が自社の関連事業の書類を見られないなんて、そんな馬鹿な話がありますか」


 私の素朴な疑問に、アリシアは自嘲気味な笑みを浮かべた。その表情には、彼女が普段隠している深い諦めと、煮えたぎるような怒りが入り混じっていた。

「トップと言っても、名ばかりよ。私はね、ヒロシ。最初からこんな表に立ってキラキラした聖女だったわけじゃないの。元々はスラム上がりの、一介の孤児だったの」


 彼女の口から語られた過去は、想像以上に泥臭く、過酷なものだった。

 生きるために泥水をすすり、「使えないゴミ」として買い叩かれていたスラムでの少女時代。そこに類まれな聖属性の才能があったため、教会に「便利で強力な道具」として拾われ、死に物狂いで実力をつけて大聖女というトップの座にまで上り詰めたのだという。


「教会の上層部……実権を握っている『元老院』と呼ばれる枢機卿すうききょうたちにとって、私はただのクリーンなイメージ戦略のための便利な道具、お飾りの神輿みこしに過ぎないのよ。大聖女という華々しい肩書を与えられていても、私には予算の決裁権も、人事権もない。彼らにとって都合の悪いこと、つまり利権の温床には、一切口出しできないようにシステムが作られているってわけ」


 その告白を聞いた瞬間、私の胸の奥に、熱く重いものが込み上げてきた。

 ああ、なんだ。この世界で一番偉くて、誰よりも輝いているように見えた彼女も、私と同じだったのか。


 日本の会社で身を粉にして働いていた頃の自分を思い出す。

「課長」という立派な役職を与えられながらも、実際の権限は何一つなかった。上層部の理不尽な命令や売上至上主義には逆らえず、現場の部下たちからは不満をぶつけられる。責任だけを押し付けられ、会社にとって都合の良い「クッション材」として消費されるだけの、無力な中間管理職。

 上と下に挟まれ、権限もなく責任だけを負わされている彼女の今の境遇は、かつての私そのものだったのだ。

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