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第10話 特訓とテスト

 翌朝。窓から差し込む眩しい朝日とともに、私の地獄の二日目が幕を開けた。


 ルミナの腕の中で一睡もできなかった私は、体中がバキバキに凝り固まり、精神的にも疲労困憊だった。彼女は「おはよう、ヒロシ。よく眠れた」と、スッキリとした笑顔で目覚めたが、私の目の下には(もし猫にもクマができるなら)真っ黒なクマが刻まれていたに違いない。


 ふらふらと談話室へ向かい、温かいミルクでも舐めて一息つこうとした私の前に、元気いっぱいの足音が近づいてきた。


「おっはよーヒロシ! 今日もいい天気っすな! さあ、外で思いっきり遊ぼうぜ!」


 ショートカットの赤毛を揺らしながら満面の笑みで現れたのは、体育会系のミーシャだった。彼女のその底抜けの明るさは普段なら眩しいほどだが、睡眠不足の私にとっては直視できない太陽光線のごとく凶悪だ。


「ミャ、ミャァ……(いや、今日はちょっと勘弁して……)」


 かすれた声で抗議するのも虚しく、私は彼女に首根っこをひょいと掴まれ、そのまま中庭へと連行されてしまった。


 +++


 中庭の芝生に放り出された私を待っていたのは、見習い聖女による情け容赦のない特訓だった。


「ほらヒロシ、追いかけろ!」


 ミーシャが手に持っていたのは、先端に巨大な羽がついた特製の猫じゃらしだ。彼女はそれを、素人とは思えない鋭いスイングでビュンビュンと振り回し始めた。その速度はもはや剣術の素振りである。


「ミャ、ミャァァ!?(速い、速すぎる!)」


 私は本能的にそれを目で追い、短い手足を必死に動かして飛びつこうとするが、空を切るばかりだ。息が上がり、心臓が口から飛び出そうになる。


「あはは、遅い遅い! 次はこれだ、取ってこい!」


 ミーシャは猫じゃらしを投げ捨てると、今度はどこから取り出したのか、革製のボールを中庭の果てに向かって全力投球した。ボールは綺麗な放物線を描き、遥か彼方の茂みへと消えていく。

 私はその場にへたり込み、ゼエゼエと肩で息をしながら彼女を睨みつけた。


「ニャー(私は犬じゃない!)」


 全力で抗議の鳴き声を上げたが、彼女には「限界です、ご主人様」という悲痛の声にしか聞こえなかったらしい。


「なんだ、もうバテたのか? ヒロシ、お前ちょっとお腹周りがタプタプだもんな。よし、ウチが責任を持ってヒロシをダイエットさせてやる!」


 ミーシャは私のぽっこりとしたお腹を容赦なく突っつき、さらにハードな運動メニューを課してきた。反復横跳びに、障害物競走。四十代の運動不足のおっさんが耐えられるはずもない。

「あはは! がんばれヒロシ、あと十周!」

 彼女の悪気ゼロの笑顔に怒ることもできず、私はただ愛という名目で揉みくちゃにされ、蹂躙される日々を送ることを悟ったのだった。


 +++


 一時間の地獄の特訓が終わり、ミーシャが「あー汗かいた! ウチ、ちょっと着替えてくる!」と爽やかに去っていった後。

 私は中庭のレンガの壁に背中を預け、おっさん座りでへたり込んで、だらしなく舌を出して「ハァ、ハァ……」と荒い息を吐いていた。完全に人間、それも休日のジョギングで死にかけているおっさんのポーズである。


「……やっぱり、ただの猫ではありませんね」


 不意に横から聞こえた冷静な声に、私はビクッと肩を震わせた。

 いつの間にか私の隣に立っていたのは、自分の体より大きな本を抱えたノノだった。大きな丸眼鏡の奥の瞳が、私の疲れ切った二本足の立ち姿を鋭く観察している。


「今の特訓を見ていました。ミーシャさんの『右へ行け』や『障害物を避けろ』という複雑な指示を、あなたは一度のミスもなく完璧に理解して動いていました。それに、その疲労の仕方。四足歩行の獣が、壁に背中を預けて肩で息を整えるなんて、生態学的にあり得ません」


 ノノの言葉に、私は全身の毛穴から冷や汗が噴き出すのを感じた。この天才オタク少女の観察眼は異常だ。


 彼女は本の下から、小さな木箱を取り出し、私の目の前の地面に置いた。

「これは、複数の幾何学的な手順を踏まないと開かない、高度な知育パズルです。人間でも、法則を理解しないと解けません」

 ノノはしゃがみ込み、私の目と鼻の先で、じっと視線を合わせてきた。


「あなたの中には、高度な知性が眠っている気がします。このパズル、あなたならできるのでは? 解いてみせてください。さぁ」


 わざとカマをかけるような発言だった。

 完全に試されている。ここで私がうっかりパズルを解こうものなら、大聖女の偽装魔法を破る手がかりを与えてしまうかもしれない。地球人のおっさんだと知られれば大変なことになる。こういうトラップは絶対に回避しなければならない。

 私は瞬時に「事なかれ主義」のスイッチを入れ、徹底的な愚鈍を演じることに決めた。


「ミャア?」


 私は首を小首に傾げ、最も頭の悪そうな間抜け声を出した。そして、目の前の複雑な仕掛け箱に向かって前足を伸ばし、爪を立てて、力任せに「ガリガリガリッ!」と引っ掻いた。

 箱の表面に無惨な傷がつき、そのまま弾き飛ばされてコロコロと芝生を転がっていく。私はその転がった箱を追って四つん這いになり、無邪気にじゃれつくふりをした。


「……ふふっ」


 ノノの小さな笑い声が聞こえ、私は動きを止めた。

「なるほど。今はまだ、そういうことにしておいてあげます。でも、いつかあなたの本当の姿を見抜いてみせますよ」


 マイペースに去っていくノノの背中を見送りながら、私は深く息を吐き出した。

 この見習い聖女寮には、純真な猛獣たちだけでなく、底知れぬ頭脳を持った少女までいる。

 大聖女アリシアの指示で「生きた証拠」として潜伏している私だが、この極楽と地獄が入り混じる日々に、私の精神がどこまで持ち堪えられるか。おっさんの過酷なサバイバルは、まだ始まったばかりだった。

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