表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
30/31

レポート029 世界のおわり

 その日の朝、王都の空は半分が「黒」に染まっていた。

 森に現れた黒い球体は、ある日を境に恐ろしい速度で拡大を始め、大地を、街を、空を、削り取るように無音で飲み込んでいった。 


 もはや「災害」という生易しい言葉では括れない程の事態だった。


 『王都東側の防衛線、消失。生存者なし』

 『隣国との交易都市、無音のまま黒に沈む』

 『聖騎士団、攻撃魔術、結界、すべて効果なし――』


 資料編纂室のデスクには、各地のギルドから送られてくる絶望を示す報告書が、山のように積み上がっていた。だが、その報告すらも、先ほどから途絶えている。

 通信を繋ぐべき「向こう側の都市」が、すでに消滅したのであろう。


 窓の外を見上げれば、かつて美しい青を讃えていた空が、端の方からジワジワと消しゴムで消されるように、均一な、光をも吸い込む「漆黒」へと塗り潰されていく。

 悲鳴を上げる暇すらなく、大地が、建物が、人々が、無音の黒い津波に呑み込まれて消えていった。


「ホリィさん!早く、早く逃げましょう! もう王都の目と鼻の先まであの黒い壁が来ています! ギルドの連中もみんな、南の山脈に向けて走り出しました!」


 いつも軽妙だったエドが、見たこともないほど顔を真っ青にし、息を荒くして部屋に飛び込んできた。あわててホリィの腕を掴もうとする。


 だが、ホリィは動かなかった。

 彼女はいつも通りの冷淡な表情のまま、手際よく、しかし丁寧に淹れられた最後の珈琲を、静かに啜った。



「どこに?」



 ホリィの、あまりにも低く、凪いだ声が室内に響く。


「え……? それは、少しでもあの黒から離れた場所に――」

「無駄よ、エド。どこへ行っても同じ。逃げ場所なんて、最初からこの世界のどこにも用意されていないわ」


 ホリィは珈琲カップを見つめたまま、淡々と言い切った。

 そのあまりに冷徹で、絶対的な諦観を宿した瞳を見て、エドの動きがピタリと止まる。彼はホリィの「眼」が、自分には視えない世界の真実を捉えていることを、痛いほどに察してしまったのだ。


 窓の外から、不気味なほどの「無音」が迫る。王都の象徴だった大聖堂が、削り取られるように黒に呑まれていく。


「あちゃあ、マジですか……参ったな。こんなに早く人生が終わるなんて。まだまだやりたいこともいっぱいあったのに」

 エドは項垂れ、座り込む。


「残念ね。人はいつか必ず死ぬ。それが思ったよりも早く来てしまった。どうすることもできないわ。エド、あなたは最期にやり残したことはないの?」


 ホリィの問いかけに顔を起こすと、ひきつった笑みを完全に消し、どこか穏やかな、少年のようなまっすぐな目でホリィを見つめて、立ち上がった。


「じゃあ……あなたと一緒に、ここにいていいですか」

「それがやり残したこと?ええ、もちろん。あなたも飲む?エドの淹れた珈琲は、いつも最高だったわね」


 ホリィが口元を緩めると、エドはふっと嬉しそうに、けれど少し躊躇うように視線を落とした。


「あの……ホリィさん。もう一つだけ、お願いがあるんです」

「なにかしら。この漆黒の調査は頼まれてもやらないわよ」

「そうじゃなくて。ホリィさんの、その眼鏡を外した顔が、ちゃんと見たいんです。最期くらい、あなたの本当の瞳を、僕に見せてくれませんか」


 ホリィは一瞬だけ、その感情の読めない目を泳がせた。だが、すぐに小さく息を吐くと、細い指先を眼鏡のフレームへと掛けた。


 静かに、眼鏡を外す。

 世界の輪郭が、冷酷に、そして完全に崩壊していく。


 彼女の視界は、計らずも、魔力の残照や世界の歪みを視るための、あの冷たい「青白い視界」へと強制的に切り替わった。


 すべてが青白く塗れていく視界の中で。

 迫り来る圧倒的な黒い壁を背に、エドだけが、濁りのない、驚くほど純粋な光のまま、静かに微笑んでいた。

 彼は、この歪んだ異世界の中で、最後まで汚されていない存在だった。



「……あなたは、最後まで純粋だったわね、エド」

「おや。最後くらい、格好いい男に見えましたか?」

「ええ、とっても」


 エドがいつもの調子で、悪戯っぽく笑う。

 音もなく、壁を、窓ガラスを素通りして「漆黒」が編纂室へと押し寄せてきた。


 デスクを、山積みの報告書を、淹れたての珈琲を、そしてエドの身体を、黒い壁が無音のまま均一に飲み込んでいく。

 彼は最期まで、その軽妙な笑みを浮かべたまま、最初からいなかったかのように、無へと消え去った。


ホリィもまた、目の前を完全に埋め尽くした圧倒的な黒を見つめながら、静かに、ゆっくりと目を閉じた。

 全身を、心地よいほどの冷たい暗闇に委ねながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ