レポート029 世界のおわり
その日の朝、王都の空は半分が「黒」に染まっていた。
森に現れた黒い球体は、ある日を境に恐ろしい速度で拡大を始め、大地を、街を、空を、削り取るように無音で飲み込んでいった。
もはや「災害」という生易しい言葉では括れない程の事態だった。
『王都東側の防衛線、消失。生存者なし』
『隣国との交易都市、無音のまま黒に沈む』
『聖騎士団、攻撃魔術、結界、すべて効果なし――』
資料編纂室のデスクには、各地のギルドから送られてくる絶望を示す報告書が、山のように積み上がっていた。だが、その報告すらも、先ほどから途絶えている。
通信を繋ぐべき「向こう側の都市」が、すでに消滅したのであろう。
窓の外を見上げれば、かつて美しい青を讃えていた空が、端の方からジワジワと消しゴムで消されるように、均一な、光をも吸い込む「漆黒」へと塗り潰されていく。
悲鳴を上げる暇すらなく、大地が、建物が、人々が、無音の黒い津波に呑み込まれて消えていった。
「ホリィさん!早く、早く逃げましょう! もう王都の目と鼻の先まであの黒い壁が来ています! ギルドの連中もみんな、南の山脈に向けて走り出しました!」
いつも軽妙だったエドが、見たこともないほど顔を真っ青にし、息を荒くして部屋に飛び込んできた。あわててホリィの腕を掴もうとする。
だが、ホリィは動かなかった。
彼女はいつも通りの冷淡な表情のまま、手際よく、しかし丁寧に淹れられた最後の珈琲を、静かに啜った。
「どこに?」
ホリィの、あまりにも低く、凪いだ声が室内に響く。
「え……? それは、少しでもあの黒から離れた場所に――」
「無駄よ、エド。どこへ行っても同じ。逃げ場所なんて、最初からこの世界のどこにも用意されていないわ」
ホリィは珈琲カップを見つめたまま、淡々と言い切った。
そのあまりに冷徹で、絶対的な諦観を宿した瞳を見て、エドの動きがピタリと止まる。彼はホリィの「眼」が、自分には視えない世界の真実を捉えていることを、痛いほどに察してしまったのだ。
窓の外から、不気味なほどの「無音」が迫る。王都の象徴だった大聖堂が、削り取られるように黒に呑まれていく。
「あちゃあ、マジですか……参ったな。こんなに早く人生が終わるなんて。まだまだやりたいこともいっぱいあったのに」
エドは項垂れ、座り込む。
「残念ね。人はいつか必ず死ぬ。それが思ったよりも早く来てしまった。どうすることもできないわ。エド、あなたは最期にやり残したことはないの?」
ホリィの問いかけに顔を起こすと、ひきつった笑みを完全に消し、どこか穏やかな、少年のようなまっすぐな目でホリィを見つめて、立ち上がった。
「じゃあ……あなたと一緒に、ここにいていいですか」
「それがやり残したこと?ええ、もちろん。あなたも飲む?エドの淹れた珈琲は、いつも最高だったわね」
ホリィが口元を緩めると、エドはふっと嬉しそうに、けれど少し躊躇うように視線を落とした。
「あの……ホリィさん。もう一つだけ、お願いがあるんです」
「なにかしら。この漆黒の調査は頼まれてもやらないわよ」
「そうじゃなくて。ホリィさんの、その眼鏡を外した顔が、ちゃんと見たいんです。最期くらい、あなたの本当の瞳を、僕に見せてくれませんか」
ホリィは一瞬だけ、その感情の読めない目を泳がせた。だが、すぐに小さく息を吐くと、細い指先を眼鏡のフレームへと掛けた。
静かに、眼鏡を外す。
世界の輪郭が、冷酷に、そして完全に崩壊していく。
彼女の視界は、計らずも、魔力の残照や世界の歪みを視るための、あの冷たい「青白い視界」へと強制的に切り替わった。
すべてが青白く塗れていく視界の中で。
迫り来る圧倒的な黒い壁を背に、エドだけが、濁りのない、驚くほど純粋な光のまま、静かに微笑んでいた。
彼は、この歪んだ異世界の中で、最後まで汚されていない存在だった。
「……あなたは、最後まで純粋だったわね、エド」
「おや。最後くらい、格好いい男に見えましたか?」
「ええ、とっても」
エドがいつもの調子で、悪戯っぽく笑う。
音もなく、壁を、窓ガラスを素通りして「漆黒」が編纂室へと押し寄せてきた。
デスクを、山積みの報告書を、淹れたての珈琲を、そしてエドの身体を、黒い壁が無音のまま均一に飲み込んでいく。
彼は最期まで、その軽妙な笑みを浮かべたまま、最初からいなかったかのように、無へと消え去った。
ホリィもまた、目の前を完全に埋め尽くした圧倒的な黒を見つめながら、静かに、ゆっくりと目を閉じた。
全身を、心地よいほどの冷たい暗闇に委ねながら。




