レポート028 黒い球体 ― 接触厳禁
その物体は、ある朝、王都のすぐ近くにある緑豊かな深い森の真ん中に、突如として現れた。
直径五メートルほどの、完全な、光すらも反射しない「漆黒の黒い球体」。
それは音も立てず、ただ地面から数十センチほど浮いた状態で静止している。
魔力も発しておらず、陽光を浴びてもハイライト一つ作らない。
鑑定スキルをいくら走らせても、脳内に表示されるのは『不詳』という無機質な文字だけ。
まるで世界の背景に、そこだけ墨汁を落としたかのような、絶対的な「黒」だった。
その性質はあまりにも最悪だった。
落ち葉が触れれば、無音のまま、奥へ吸い込まれて消える。風に吹かれた小枝が触れても二度と戻らない。
冒険者ギルドが慌てて周囲に木製の侵入禁止の柵を設け、警告の羊皮紙を貼り付けたが、その制止を鼻で笑う男がいた。
ユニークスキル『金剛不壊』を持ち、あらゆる攻撃を無傷で弾く「絶対無敵の盾」として、王都で調子に乗っていた中堅冒険者、ガロンだった。
「おいおい、ギルドの連中も大袈裟だな。触れること厳禁? どんな強力な魔法だろうが、俺のこの不壊の盾なら耐えられない道理がねえだろ。おい、お前ら、よく見てろ。ちょっとした見世物だ」
ガロンは周囲に集まった野次馬の冒険者たちにいい格好をしようと、下品な笑みを浮かべて柵を乗り越え、球体に近づいた。
彼の背中には、数々の魔物の爪を弾いてきた自慢の巨大な鉄盾が背負われている。
ガロンは盾を両手でしっかりと構え、その漆黒の表面へと自信満々に押し当てた。
――カツン、という金属音すら、鳴らなかった。
不壊の盾は、まるでそこに何も存在しないかのように、何の抵抗もなくスッと黒の中へ沈んでいった。
彼の腕ごと。
「あ……?」
ガロンが間抜けな声をあげた時には、すでに手遅れだった。爪が、指関節が、手首が、腕から先が、無音のまま消失した。
断面から血が吹き出すことすらない。ただ「そこから先が存在しなくなった」のだ。
ガロンの顔面が恐怖で土気色に染まる。必死に身体を引き剥がそうとするが、彼の肉体は、まるで見えない底なし沼に引きずり込まれるように、肩、胸、そして頭部へと、静かに、確実に飲み込まれて消えていく。
ゴクリ、と野次馬の一人が息を呑む音が、静まり返った森にやけに大きく響いた。
わずか数秒の後。
そこには、持ち主を失って地面に転がった数本の弓矢と、完全に凍りついた冒険者たちの静寂だけが残されていた。
* * *
「不壊の盾ごと、無音の消滅ですか。過信からの自業自得とはいえ、犠牲者が出ましたね……」
資料編纂室。
エドが報告書を整理し、手際よく二つのカップに珈琲を淹れる。
ホリィはいつも通りの淡々とした筆跡で、『不可抗力の事故による死亡』と書き込み、死亡届の判を押した。
「ホリィさんはあの森の黒い球体、何だと思います? ギルドの偉い人たちは、未知の古代魔法の暴走じゃないかって大騒ぎしてますけど」
先日の、ギルドの調査に同行した彼女の「眼」でも、何も映らない漆黒であることしかわからなかった。まるで、そこだけ世界が『消去』され、剥き出しの虚無が凝固しているかのような状態だった。
ホリィは、エドから差し出された温かいカップを受け取る。
「わからない。私にもわからないわ。ただ、関わってはいけないものには間違いないわね。何事もなければいいのだけれど」
「珍しく不吉なことを言いますね。ホリィさんでも弱気になることがあるんですね」
「私のこと、わかってないのね。臆病なぐらいで丁度良いの」
ホリィは珈琲を静かに口に運びながら、胸騒ぎを押さえられずにいた。




