レポート001 転移魔法陣 ― 消失
この日、私は初めて「この世界が怖い」と思った。
日本から異世界に転移して約一年。
転移時のスキル鑑定で、治癒魔法の才能があると言われ、ヒーラーとしての道を選んだ。
冒険者として生きていくことにも、便利すぎる「魔法」のある生活にも、すっかり馴染んでいた。
月兎旅団。
右も左もわからない頃に、冒険者ギルドで声を掛けてくれたのが、リーダーのカイル。
バランスの取れた4人パーティで、順調にランクを上げてきた。
当面の目標である、郊外のダンジョン『静寂の揺り籠』の攻略もいよいよ大詰めを迎えている。
「サユリ、そろそろ準備しろよ。次、俺たちの番だぞ」
「あ、ごめん。すぐ用意するね」
カイルに声をかけられ、私は短く返答する。
何度も通ってきた、ダンジョンの入り口。
中央には地下二階へ続く大きな階段があり、その脇には、精緻な紋様が刻まれた巨大な石の円盤
――転移魔法陣が鎮座している。
利用者が多く、管理のためにギルド員が派遣されており、利用料を徴収される。
毎日、何百人もの冒険者がこの上に立ち、光と共に消えていく姿が、
駅の改札のようだと、いつも通る度に思っていた。
「えっと、二十階まで、四人分……」
腰の皮袋から銀貨を取り出そうとした、その時だった。
指先が滑り、数枚の硬貨が石畳の上にこぼれ落ちた。
「あ……」
硬貨は魔法陣の縁まで勢いよく転がり、カチャカチャと音を立てて止まった。
「ごめん、拾ってくる!」
私は列を外れ、屈んで、拾おうとした。
普段、列に並んでいては見ることのない角度で、魔法陣が目に入る。
(……っ、え?)
幾何学的な、無駄のない魔導のライン。
けれど、この角度から眺めると、重なり合った紋様がひとつの意味を結んでいた。
『死』
読めたのは、前世で見慣れた「死」の漢字そのもの。
いや、読めた、ではない。
最初からそこにあったものを、今さら理解してしまった。
石の溝に溜まったわずかな土が、まるで意図的な筆致のように、
その一字を鮮明に浮かび上がらせている。
「やだ、なに……これ……」
血の気が引く。心臓が嫌な速さで脈打ち、喉の奥がせり上がるような感覚に襲われる。
列に戻って見直せば、そこにあるのはいつもの無意味な模様だ。
足を動かせない。
考えすぎだ。そう結論づけて、私は視線を逸らそうとした。
けれど、一度「死」と認識してしまった脳は、目の前の石の円盤が、
ただの模様なのに、それにしか見えなくなった。
「おい、サユリ! 早くしろよ。」
「置いてっちゃうぞー」
「カイル、みんな、待って。これ、おかしいよ。何か変だよ!」
後ずさり、魔法陣から距離を取ろうとした。けれど……
「あ? 何言ってんだ、いつも使ってるだろ。早く乗れよ」
「嫌だ、乗りたくない! 何か変なの、絶対におかしい!」
広場に響く私たちの声に、他の冒険者たちからの、奇異の目が集まる。
「おい、後ろがつっかえてんだよ!」
「もたもたするな!」
周囲の冷ややかな野次と、苛立ちを含んだ催促。
この場において、私の行動は、ただの迷惑にしか受け取られていなかった。
「……ったく。ほら、行くぞ」
カイルが強引に私の腕を掴む。
「離して、カイル! 」
抵抗も虚しく、引きずられるようにして魔法陣の中央へ引きずられていく。
「嫌だ……離して!」
すぐそこにある。
逃げられない。
「おねがい、やめ――」
* * * * *
「……それで、ホリィさん、調査をお願いしたいんですが」
馴染みのギルド職員、エドは、書類をホリィに渡しながら、そう言った。
サユリ。Cランクパーティー「月兎旅団」のヒーラー。
転送されたはずの目的地に、彼女だけが姿を見せなかった「事故」の調査依頼。
「念のため、ダンジョンの内部も確認してきてほしくて。転移陣の使用許可は取ってあります」
「……安全なんですか?」
「大丈夫ですよ。転移陣で行方不明になったのは、今のところ彼女だけですし」
“今のところ”。その言葉が、妙に耳に残る。
「リーダーはギルドに出頭して、別部屋で待機してもらってます」
「ありがとう。まずは話を聞いてみるわ」
ホリィは、パーティーリーダーのカイルの待つ、冒険者ギルド内の応接室に向かった。
「それで、何があったの?」
「あいつ、急に狂ったみたいに暴れ出したんだ」
カイルは忌々しそうに、首を振った。
「小銭を落として、拾って戻ってきたと思ったら、突然真っ青になって……。
魔法陣を指差して『おかしい』とか『変だ』って、わけのわからないことを叫んで。
仕方ないから無理やり連れてったんだが……あいつだけいなかったんだよ」
ホリィは現場の魔法陣へ向かった。
普通に見る限り、何の異常もない。彼女は、カイルの言葉を頼りに、
サユリが見たであろう「視点」を探した。
お金を拾ったと思われる列からは少し離れた場所。屈んで、魔法陣を見る。
ある一点。
模様が歪み、重なり合い、意味を成す場所。
「……これか」
ホリィの目にも、それははっきりと「死」の形に見えた。
周囲では、冒険者たちが談笑しながら、当たり前のようにその形を踏んで消えていく。
ホリィは、靴の先で魔法陣をそっと踏んでみた。
その瞬間、石畳が――ぐにゃり、と内側に沈んだ。
硬いはずの石の床が、まるで生物の内臓のようになり、彼女の靴の底をじっとりと飲み込もうとした――
そんな錯覚を覚え、即座に足を引いた。
後ろから来た冒険者が、彼女を追い越して魔法陣の真ん中を踏み抜いていく。
光が弾け、彼は目的地へと消えていった。
魔法陣は、何事もなかったかのように元の無機質な表情をしている。
目の錯覚だったのかもしれない。
「……調査、終了」
ホリィには、一歩踏み出す勇気が無かった。
ぼそりと独り言のように呟き、その場を離れた。
(私は、このダンジョンには入れないわね)
報告書に書ける事実は、何もなかった。
ここでは何事も問題なかった。ただ、それだけ。
この世界の人間は、誰もが「魔法は便利なもの」だと信じている。
――少なくとも、それが何でできているかを考えない限りは。




