レポート018 過去視 ― 自殺
ローレンスは、若くしてギルドで頭角を現した気鋭の探索者だった。
いかなる迷宮の隠し扉も、狡猾な暗殺者が仕掛けた毒罠も、すべて事前に見破ることができる。
ユニークスキル『過去視』があったからだ。
その場所に残された数時間前、あるいは数日前の「光景の残像」を、
現在の視界に重ね合わせて視る力。
その便利な力を駆使して数々の危機を切り抜け、あっという間にAランクまで駆け上がってきたのだ。
彼に、異変が起きたのは、王都の地下水道に潜む連続殺人鬼を追っていたときだ。
現場の路地裏で『過去視』を使い、数時間前の犯行の様子を巻き戻して覗き込んでいた。
(……ん?)
白黒の映写機のように再生される、過去の風景。
その視界の、一番右端。暗い排水溝の影に、何か「黒いもの」が混ざっているのに気づいた。
人の形に泥を捏ね上げたような不気味な輪郭をしており、陽炎のように不自然に景色が歪んでいる。
殺人鬼でも被害者でもない。ただ排水溝の闇の中にうずくまり、じっと動かない。
男が力を解き、現在に視線を戻すと、そんな影はどこにもいなかった。
最初は見間違いかと思った。
だが、それからだった。
ローレンスがスキルで過去の残像を視るたび、そいつは必ず、視界の「端」に映り込んだ。
そして、能力を使うたびに、位置が「近く」なっている。
最初は、二十メートル先の通路の角。次は、十メートル先の柱の陰。
その次は、すぐ隣の部屋の、開いた扉の隙間。
彼は本能的な恐怖を覚えた。
(何かが近づいている。もう使うのはやめよう)
そう決意した。あの泥のような塊が、自分と同じ場所に到達したとき、
何が起きるか想像もしたくなかったからだ。
だが、人間はどこまでも脆い。
数日後。ローレンスのパーティーは、凶悪な未踏破ダンジョンの最深部にいた。
目の前には、触れた者を一瞬で即死させる呪いの魔方陣。
「よし、いつものように任せた。 お前の力で安全な踏み場を調べてくれ!」
仲間たちの叫び。ここで過去を視なければ、全員が全滅する。
恐怖、責任感、そして「一度くらい大丈夫だろう」というちっぽけな油断が、男の理性を狂わせた。
男は、再び過去を覗き込んだ。
安全な踏み場は分かった。だが、男の全身の毛穴が恐怖で一時に開いた。
そいつは、もう部屋の隅にも、柱の陰にもいなかった。
――男の「真横」にいた。
ジジ、ジジジ……と、耳の奥を直接虫の羽で引っ掻くような、不快な音が響く。
真横に立つそいつの、異常に引き伸ばされた黒い指先が、男の右目のすぐ横を
じっと指差しているのが見えた。
「ひっ……あああ!!」
ローレンスは叫んで力を切った。
ハァハァと激しい息を吐きながら、現在に戻る。誰もいない。だが、確信した。
あと一回だ。
あと一回でもあの力を使えば、そいつは視界の端から、自分の「正面」へ回り込んでくる。
それからローレンスは宿屋に引きこもり、絶対に過去を視なかった。
目を開けることすら怖くなり、暗闇の中でガタガタと震えて過ごした。
* * * * *
深夜。宿屋の個室。
彼はベッドの上で膝を抱えていた。力を使っていない。だから安全なはずだった。
だが。
ジジジ……と耳の中で虫が羽ばたくような深いな音とともに、閉じた瞼の裏側へ、
強制的に『過去視』の光景が流れ込んできた。
白黒の視界が広がる。
それは、ほんの少し前の、この宿屋の部屋の光景だった。
ベッドの上で怯えている「自分自身」の姿が、部屋の天井から見下ろすような形で
はっきりと映し出されている。
そして。
その怯える自分の「正面」に。
天井から蜘蛛のように逆さにぶら下がった、あの泥のような塊が、ゆっくりと顔を近づけていく様子が再生された。
――見ぃつけた
* * * * *
翌々日。王都の宿舎の一室。
ホリィは、エドを伴って凄惨な事件現場へと足を運んでいた。
手元には、届いたばかりの調書がある。
氏名:ローレンス(Aランク探索者)
状況:宿舎にて死亡。死因は精神錯乱による自傷行為。
特記事項:自らの指で両目を限界までくり抜き、その指は脳の奥にまで達していた。
「……はぁ」
ホリィは短く溜息を吐くと、凄惨な血溜まりが残るベッドの前に立ち、静かに眼鏡を外した。
世界の輪郭が揺れる。
彼女の「眼」は捉えていた。ローレンスが自らの目を突き刺して絶命したこの部屋の天井に、今もなお陽炎のように不自然に景色を歪め、じっと部屋を見下ろしている「泥のような不気味な塊」を。
ホリィは即座に眼鏡を掛け直し、世界の輪郭を閉じた。
「……何か分かりました? 状況的に呪術的な暗殺の可能性もありますが……」
「報告書通り、ただの精神疾患によるパニックね。これ以上調べる必要もないわ。……さあ、さっさと帰るわよ」
同行しているエドの問いかけに、ホリィは感情の消えた瞳を向け、足早に部屋の出口へと歩き出した。
「ホリィさん、帰り、屋台で何か買って帰りません?」
「あなた、この状況見て、ほんとに呑気ね……」
(この世界は、あまりにも命が軽すぎる……)
* * * * *
ギルドの資料編纂室。
戻るなり、ホリィはローレンスの書類に、機械的な動作で『自殺』として判を押した。
便利すぎる過去視のスキル。過去を覗き込んでいるつもりで、その実、何かに覗かれ、引き寄せていただけ。
「ホリィさん、お疲れ様でした。すぐ温かいの淹れますね。それに合わせて、たまには紅茶にします?」
「あら、気が利くわね。そうしてくれるかしら」
手元にある、屋台で買った焼き菓子の袋。
エドの背中を見送りながら、一つ摘まんで口に放り込む。
「エド、まだかしら?パサパサして――喉が詰まりそうなの」
「ちょっと、何で先に食べてるんですか!」
口の中に広がる甘みを感じながら、彼女は窓の外の穏やかな青空を一瞥もすることなく、新しい羊皮紙を引き寄せ、再び静かに羽根ペンを走らせ始めた。
関わらなければ、気づかれなければ。この世界では何も問題はないのだ。




