レポート016 換金の袋 ― 不慮の事故
その男は、極限の淵に立たされていた。
今夜中に金を用意できなければ五体をバラバラにされて売り飛ばされる。
度重なる博打の失敗と不運。薄暗い路地裏の泥にまみれ、闇組織の取り立て屋に命乞いをして泣き喚く男の前に、その女はぬるりと現れた。
「あらあら、かわいそうに。お金のせいで命を落とすなんて、馬鹿げているわよねえ」
深いフードの奥から覗く、三日月のような笑み。老婆にも、若かくも見えるその女は、懐から一つ、
妙に黒ずんだ古い革製の「袋」を取り出し、男の目の前にぽつんと置いた。
「袋の口を縛って、一振するたびに、おまえの『目に見えない価値』を金貨に変えて生み出してくれる。運とか、寿命とか、そういう引き出しの中に眠っている退屈な財産さ。生きていれば、いくらでもやりくりできるだろう?」
男は迷わなかった。今死ぬくらいなら、目に見えない運や寿命など、いくらでもくれてやる。
震える指で袋の口を持つと、思いきって一振した。
――ジャラジャラジャラ!
革袋がずしりと重くなる。中を見ると、本物の金貨が数枚、闇夜にキラリと輝いていた。体調にも変化はない。
「これは……!すごい、早く譲ってくれ!」
「ヒッヒッヒッ。毎度あり。今出した金貨で譲ろうじゃないか」
男は狂喜乱舞すると、更に袋を振り続け、その金で取り立て屋の顔を叩いて一命を取り留めた。
一晩で大金を手に入れた男は、真面目に働くのが完全に馬鹿馬鹿しくなっていた。
酒、女、贅沢な調度品。欲望の赴くままに遊ぶため、男は毎日のように宿屋の個室で袋を振り続けた。
ジャラジャラと小気味よい音が響き、部屋に金貨が積み上がっていく。
金貨と引き換えに何を失っているのか、男には実感が無かった。
――因果の狂いは、じわじわと、だが確実に男の日常を侵食し始める。
最初は、些細な不運だった。街を歩けば必ず頭上から鳥の糞が落ちてくる。
買ったばかりの極上肉が腐っている。
振る回数が数十回を超えた頃から、その不運は「明確な殺意」を帯びて男に襲いかかるようになった。ただ道を歩いていただけで、並走していた馬車が突然車輪を損壊させ、男を目がけて猛スピードで突っ込んできた。
この時は、危機一髪で避けることができた。
宿屋に帰り、ベッドで息を整えていると、今度は何の予兆もなく天井の太い梁がメキメキと音を立てて折れ、男の真上に落下してきた。
「ひっ、あああ!」
床を転がり、命を繋ぐ。
しかし、不自然な事故の連続で腕の骨を折り、激痛にのたうち回ることになった。
(運が……俺の運が、全部金に換わっちまってるんだ……!)
男はようやく理解し、恐怖に震えた。だが、もう引き返せなかった。
怪異的な事故で負った大怪我の治療費のために。そして、外を歩けば死ぬからと宿屋に引きこもるための莫大な生活費のために。男は「金を出す」しかなかった。
ジャラジャラ――
運を使いはした男に、最後の夜が来た。
ついに、袋をから金貨が出なくなった。
その瞬間だった。
外から、甲高い金属音が響いた。
壊れて暴走した馬車が通りを外れ、宿屋の壁へと突っ込んできたのだ。
衝撃で、部屋の壁の一部が崩れ落ち、男に降りかかる。
一階の食堂では、火のついたランプが倒れ、宿に炎が広がり始めた。
バランスが崩れた建物が軋み始め、天井の梁が落ちてきた。
男は立ち上がる暇もなかった。
宿屋は一瞬で崩壊した。
その男だけを、寸分違わず押し潰す形で。
瓦礫の中から、無数の金貨が転がり落ちてきた。
* * * * *
数日後。ギルドの資料編纂室。
ホリィが冷えきった珈琲に口をつけていると、エドが、信じられないものを見たという顔で一枚の書類をもってきた。
「ホリィさん、これ。先日起きた、宿屋の崩壊事故なんですけど……」
「新聞で読んだわ。犠牲者は、逃げ遅れた1人だけだったのね」
「……ちょっと異常なこともありまして」
「異常?」
「ええ。亡くなった方の周辺に、大量の金貨が散乱してまして。身元を調べようと鑑定を使ったところ、運の値が、見たこともない数字に」
「運が良かったのに死んだってこと?」
「いえ、逆です」
ホリィは感情の消えた瞳で、手元に差し出された羊皮紙のステータス欄に目を走らせた。
【 運:− ∞】
マイナス、無限大。
目に見えない自分の運を切り売りして、金に換えていたとでも言うのだろうか。
「……自分の運と引き換えに手に入れたお金、か。一体、何を買いたかったのかしらね。エド、あなたはそうまでして欲しいものはある?」
ホリィの少し意地の悪い視線に、エドは困ったように肩をすくめて笑った。
「勘弁してくださいよ。僕が欲しいのは、毎日の定時退勤と、僕の淹れた珈琲をホリィさんが温かいうちに飲んでくれることくらいです」
「あら。それならあなたの運がすり減る時は一生来ないから安心ね」
「そんなぁ」
ホリィは、クスクスと笑うと、すでに半分冷めかけている珈琲を小さく啜る。
「……さて、男の身元は『不慮の事故による死亡』で処理してくれる?」
カチャン、と静かな音が編纂室に響く。
ホリィは事務的に書類を閉じると、それを深い闇の底へと仕舞い込むように、静かに棚の奥へと格納した。
世界の理を切り売りして得た、身の丈に合わない富。その代償をすべて払い終えた男の叫びは、もうどこにも残っていない。
ホリィは新しい羊皮紙を引き寄せると、窓の外の穏やかな青空には目もくれず、再び静かに、淡々と羽根ペンを走らせ始めた。




