レポート014 帰還魔法 ― 遷移失敗
上級魔導師にとって、空間転移魔法は足代わりのようなものだ。
特に、ダンジョン最深部から一瞬で地上へと帰還する「リターン」は、
誰もが憧れる最高効率のショートカットだった。
「ククッ……これ一枚で、一生遊んで暮らせるぞ」
上級魔導師のレオンは、ローブの内ポケットに触れ、下卑た笑みを浮かべた。
彼が盗み出したのは、ダンジョンの最下層、古代の祭壇に嵌め込まれていた『賢者の碑石』。
それはダンジョンコアとしての機能を有し、ダンジョンが形を保つためのシステムの一部であり、
持ち出しはギルド規約以前に、この世界の理として禁忌とされているものだ。
「リターン!!」
レオンは誇らしげに帰還の呪文を唱えた。
本来、転移は一瞬だ。
視界が真っ白に染まった次の瞬間には、ギルド前の賑やかな広場に立っているはずだった。
(……長いな)
視界が白一色に塗りつぶされてからどれぐらい経ったのかわからない。
時間の感覚が極端に曖昧になる。
重力も、音も、温度もない。ただ、発光する白に包まれている。
レオンは目を見開いた。
真っ白の空間の中央に、ポツンと、一台の古びた事務机が置かれているのが見えた。
机には、首が異様に長く、顔に目鼻のない男が座っていた。
男は膨大な紙の束を、指を湿らせる仕草で一枚一枚、ゆっくりとめくっている。
「……おい、お前。ここはどこだ? 」
レオンの声が、広い空間に明瞭に響いた。
首の長い男は、めくる手を止めずに一瞥して……また作業に戻った。
「お前に聞いてるんだ。さっさと答えろ」
「ああ……順番、守ってください」
「はあ? んなもん知るか! 俺の勝手だろ、早く地上へ出せ!」
「ルールですから」
「……どうやら死にたいようだな」
レオンは、魔法の詠唱を始める。
男は初めて、首をレオンの方に伸ばし、口だけしか存在しない顔を向けた。
「ルールを、守ってください」
淡々とした声と共に、レオンの元に集まりかけた魔力が瞬時に霧散した。
男は再び、何事もなかったかのように、気の遠くなるような厚さの書類の束に視線を戻した。
レオンは、何もない空間を歩き、彷徨い続けた。
何もない。何も存在しない。
あるのは、古い事務机と、首の長い男のみ。
どれだけ待ったのか、何もわからなくなっていた。
レオンは空腹も眠気も感じなかった。
ただ、精神だけが、視界を埋め尽くす白と、紙をめくるような「サッ……サッ……」という音に
削られていく。
男はまだ、一ページ目すら読み終えていなかった。
* * * * *
ホリィは、一人の魔導師が「転移中に消失した」事件の現場となったダンジョンを調べていた。
彼女は、護衛パーティと共に、ダンジョン内のフロアを渡り歩く。所々で立ち止まっては、眼鏡を外し、じっと目を凝らして異変を探す。
ついに、ダンジョン深部のフロア中央、真っ白な世界が見えた。
目を凝らすと、絶望に顔を歪めて静止している、指先ほどの小さなレオンの姿が見える。
そしてその隣で、首の長い男が、ゆっくりと、愉悦すら感じさせる手つきで紙をめくっていた。
ホリィはすぐさま眼鏡を掛けた。
首の長い男と目が合った気がしたのだ。
「……ホリィさん、レオンの手がかりはあったのか?顔、真っ青だぜ?」
護衛パーティのリーダーが不安げに尋ねる。
「いいえ……何も。見つからないことで疲れがどっと出てきたのかもしれません。これ以上探しても無駄でしょう。捜索は打ち切ります。さぁ、帰りましょうか。」
* * * * *
ギルドの資料編纂室。
ホリィは戻るなり、デスクの上の冷え切った珈琲を一口だけ含み、レオンの書類に、機械的な動作で「処理済」の判を押した。
行方不明。遺留品、なし。
彼は今も、そしてこれからも、あの真っ白なロード画面の中で一生「自分の順番」を待ち続けているのだろう。この世界の寿命が尽きるのと、どちらが先かはわからないけれど。
「あ、ホリィさんお帰りなさい。捜索お疲れ様です。またそんな冷たいの飲んで……今、温かいの淹れますから」
部屋に顔を出したエドが、いつものように無邪気に笑う。
「ええ、ありがとう。お願いするわ」
ホリィは感情の消えた瞳で窓の外に静かに広がる夕暮れを一瞥すると、手元の新しい羊皮紙へと、再び静かに羽根ペンを走らせ始めた。




