レポート013 臆病者のマント ― 未帰還
その男、トマスは、絵に描いたような臆病な冒険者だった。
刃が肉を裂く痛みを恐れ、魔物の爪や牙を恐れ、いつも前線から逃げ出しては
仲間から「チキン」と罵られていた。
ある雨の夜。ダンジョンからの帰還し、酒の席でも散々馬鹿にされた怒りと悲しみを抱え、ひとり宿に戻る道中。
路上の片隅、暗闇から音もなく「それ」が現れた。
妖艶な美女のような、しかし、瞬きをする間に深い皺を刻んだ老婆にも見える女。
「かわいそうに。冒険者でありながら、痛いのも、怖いのも嫌なんだね」
「お、女……なんだよお前。死にたいのか!」
「虚勢まみれの人生。ああさぞ悔しいだろうね。どうだい、あんたにぴったりのモノが。『臆病者の(チキン)マント』
女が差し出したのは、泥に汚れたような灰色の古びたマントだった。
「身に付けている間は、どんな攻撃も、炎も、呪いも、おまえをすり抜けて絶対に当たらなくなる。
ただし、一つだけ絶対に守らなきゃいけない約束がある」
「や、約束……? 何でも守る、守ってやる!」
「このマントはね、『本物の恐怖心』を燃料にして世の理を歪めるもの。だから、
今後は、絶対に【強気な嘘】を吐いてはいけない。
自分が強いと錯覚して虚勢を張った瞬間、おまえを本当に『虚像』にしてしまう」
本当にそんなものがあれば、チートクラスの破格の性能だ。
「……代金は?いくらだ?」
「そうさね。これから1か月の稼ぎの半分でどうだい。その後は、あんたにくれてやるよ」
「そんなので良いのか。買った!さっさとよこせ!」
ヒッヒッヒッと下卑た笑みを浮かべる女から、男は貪るようにマントを受け取り、身にまとった。
騙されたつもりでいたが、効果は本物だった。
凶悪な魔物の爪も、全身を燃やし尽くすような魔法も、すべてが男の肉体を「幻」のように綺麗にすり抜けていった。男は涙を流し、恐怖にガタガタと震えながら、ただ敵の前を逃げ回るだけで、無傷のまま味方の盾として機能した。
――臆病でみっともないが、絶対に傷つかない無敵のタンク
ルールを守って普通に使う分には、彼の人生を変える最高のアイテムだった。
だが、人間はどこまでも愚かで、脆い。
ある夜、ダンジョンを過去最速で攻略したトマスのパーティーは、酒場で盛大な祝宴をあげていた。
酒が回り、仲間たちが男を囃し立てる。
「おいおい、今日も無傷かよ! 相変わらず情けない顔して逃げ回ってたけどな!」
「あはは! 本当にチキン野郎だな、お前は!」
いつもなら笑って流せたはずだった。今日は、近くに男が密かに想いを寄せるギルドの受付嬢も座っている。
酒の勢いと、好きな女性の前、そして「自分は無敵の力を手に入れた」という全能感が、男のちっぽけなプライドを刺激してしまった。男はマントを羽織ったまま、勢いよく机を叩いて立ち上がった。
「お、おぃ!嘘つくなよ……! 俺が逃げ回ってるのは演技だよ! 本気を出せば、
俺の防御は世界一なんだ。魔物の攻撃なんて痛くも痒くもない、俺は無敵の英雄なんだよ!」
言った。言ってしまった。
酒場がドッと沸いた。嘲笑や冷笑。馬鹿にするような声が聞こえる。
男の血の気は一瞬で引いた。
脳裏に、あの夜の女の言葉が、氷のように冷たく蘇る。
そして、男の身体から、一瞬で「質量」が消えた。
慌てて自分の口を塞ごうとした手は、自分の顔をすり抜ける。
バランスを崩し、思わず机に突いたはずの両手は、天板を透過して下へ抜けていく。
「あ、いや、今の嘘だ! 俺は臆病者だ! 怖い、助けてくれ!!」
必死で前言撤回しようと泣き叫ぶが、何もかもが手遅れだった。
ガタガタと震える男の足が、酒場の床板を突き抜けた。
「おい、どうした……!?」
仲間たちが異変に気づき、手を伸ばす。だが、誰の手も男を掴むことはできない。
まるで煙を掴むように、男の身体をすり抜けてしまう。
そのまま男は、建物の基礎をすり抜け、大地の岩盤をすり抜け、重力に引かれるまま、地球の中心へ向けて真っ逆さまに「落下」し始めた。
「嫌だ! 助けて! 誰か、誰かァ!!」
叫び声すら大気を震わせることができず、音となって地上に届くことはない。
「どうなってやがる!地面の中に消えちまった!!」
男は今も、猛烈な速度で地中のマントルを、コア(中心)を、何一つ触れることができないまま落ち続けている。熱さも痛みも感じない。息ができないが、窒息することすら許されない。
重力に引き寄せられ、コアを通り過ぎ、慣性で反対側の地殻へと向かい、また重力で引き戻される。
死ぬこともできず、何かに触れることもできず、ただ、星の内部を永遠に往復し続けるだけの、生きた肉人形になってしまったのだ。
* * * * *
翌々日。ギルドの資料編纂室。
ホリィは、、エドが淹れてくれた温かい珈琲を啜りながら、一枚の死亡報告書――便宜上、そう処理するしかない書類――に目を通していた。
氏名:トマス
状況:行方不明
(王都内の酒場にて、突如地面に沈没)
遺留品:なし
目撃したパーティーメンバーたちの証言は、どれも錯乱していた。
「自分は無敵の英雄だ、攻撃なんて痛くも痒くもないと大見栄を切ったんだ。
そうしたら突然、身体が透けて、床を突き抜けて底へ落ちていった」
「地面に手を突っ込んで助けようとしたのに、何も掴めなかった。
あいつ、まだ下へ落ち続けてるんじゃないか」
ギルドの職員たちは「新手の高度な空間転移魔法による誘拐か、あるいは精神錯乱による集団幻覚か」と頭を抱えて議論していた。
「……はあ」
ホリィは小さく、誰にも聞こえない溜息を吐いた。
都合の良い恩恵には、いつだって最悪な裏の仕様がある。
きっとその冒険者は、自分の身の丈に合わない強力な魔道具を手に入れ、
その『制約』をちっぽけなプライドのために破ってしまったのだろう。
「……ホリィさん、この件、どう処理しましょうか? 捜索隊を組織しますか?」
書類を覗き込んできたエドに、ホリィは感情の消えた瞳を向け、淡々と羽根ペンを動かした。
「追うだけ無駄よ。彼はもう、この地上のどこを探してもいないわ」
ホリィはトマスの死亡診断書に、迷いなく判を押した。
(こんなチートアイテム、聞いたことすらない)
文字通り、彼を探すなら地面を掘り進むしかない。いや、掘り進んだところで、すり抜ける彼を掴む術など世界には存在しないのだ。
「これ、いつもより少し砂糖が多めね」
「あ、バレました? これぐらいがお好みかと思って」
エドが少し照れくさそうに笑う。
どこかで誰かが、人の弱みに付け込んだ何かが暗躍している。そして歪な世界に足を踏み入れた者から、世界は静かに、完璧な嘘で覆い隠して回り続けている。
ホリィは口の中に広がる温かい甘さを感じながら、窓の外の青空を小さく見上げ、再び次の羊皮紙へと静かにペンを走らせ始めた。




