外伝 終話
店内の空気は、依然として張り詰めたまま、誰も次の言葉を発することができなかった。ただ、金属の匂いだけが、やけに濃く感じられた。そんな中、アリシャは、まるで守護者のように、しっかりと盾を構えて立っていた。それは、誰かを守るためでも、あるいは誰かを威嚇するためでもない。ただ、「自分はここにいる」「この取引を諦めない」という、静かな意思表示だった。腕はわずかに震えていたが、彼女の膝は決して曲がらず、逃げ出すことも、一歩も後ろに下がることもなかった。
その、言葉なき姿勢だけで、十分だった。
店員はしばらく黙り込み、少女のようにも見えるが、決して譲らない客であるアリシャと、落ち着き払った貴族の少年とを、交互に見比べた。どちらも、一歩も引く気配はなかった。その二人から発せられる無言の圧力に、店員はついに折れた。
「……わかった」
と、短く息を吐いた店員が、諦めたように言った。
「ならば、二枚で銀貨二十五枚だ。それ以上は、どうやっても無理だ」
アリシャの胸の奥で、喜びの鐘が、きゅっと鳴った。
「……通った……」
心の底から湧き上がる喜びを、顔に出すまいと、アリシャは必死に感情を抑え込んだ。ここで、嬉しさのあまり弱みを見せれば、この苦労して得た勝利が、まるで最初から負けていたかのように感じられる気がしたからだ。
「本当に、ありがとうっス…」
彼女の声は、わずかに柔らかさを帯びていた。店員は、不機嫌そうにしながらも、小さくうなずき、手早く装備を整えてアリシャの前に差し出した。
「次からは、最初からその知識を披露しろ。ちゃんと見るからな」
店員の言葉は、以前のような侮蔑を含まず、むしろ、アリシャの知識を認めるような、どこかぶっきらぼうな助言のように聞こえた。「はい」と、アリシャは短く応じた。
胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされていく。ようやく取引は終わった。そして、何よりも、これは正当な、ちゃんとした取引だったのだ。彼女の心は、深い満足感と安堵に包まれた。
アリシャは、革袋から銀貨を二十五枚数えて取り出し、店員へ渡すと、ようやく手に入れた装備をしっかりと受け取った。それだけで十分満足すべきだったはずなのに、ふと、あの貴族の少年が気になった。彼は、もうすでに別の装備へと手を伸ばしており、先ほどの激しいやり取りなど、まるで何もなかったかのように、淡々と自分の用事を済ませているようだった。
「……なんだったんっス……」
直接的に「助けられた」という感覚は薄い。だが、「自分自身が正しく見られた」という、その揺るぎない事実だけが、アリシャの胸に深く刻み込まれていた。
彼女は、店の外へと一足先に足を踏み出した。外の新鮮な空気が、凍えていた肺腑に一気に流れ込み、帝都の喧騒が、再び耳に飛び込んでくる。人々の話し声や足音、馬車の蹄の音、街全体の振動。しかし、それらは以前とは全く違う響きを持っていた。世界が、ほんの少しだけ、明るく鮮やかに見えたのだ。彼女の心に、これまでになかった希望の光が灯ったようだった。
「……借りは、作らないっス」
それが、アリシャが幼い頃から、どんなに苦しい時も守り続けてきた、自身の揺るぎない流儀だった。だから彼女は、店の入り口のすぐ横、通行人の邪魔にならぬような場所に立ち、手にした装備をしっかりと抱え直し、じっと少年が現れるのを待った。
しばらくして、少年が店の扉をくぐり、外へと出てきた。アリシャは深く息を吸い込み、少しだけ緊張しながらも、彼に声をかけた。
「さっきは」
少年は、アリシャの声に足を止め、こちらに視線を向けた。近くで見ると、やはり彼女と同じくらいの年齢に見えるが、その佇まいは、妙に大人びていて、落ち着き払っていた。どこか超越したような雰囲気があった。
「ちゃんと買えて嬉しかったっス。」
アリシャは、努めて落ち着いた声でそう言い、深々と頭を下げた。
「お礼は言うっス。でも、借しは作りたくないっス。」
少年は、アリシャの言葉を聞いて、しばらくの沈黙を置いた後、
「借りではない」
と、やはり感情のこもらない淡々とした声で答えた。
「俺の、都合だ」
その言葉は、アリシャを少しばかり戸惑わせた。それは、見返りを求めるような善意や、あるいはただの親切心といった感情的なものではなく、あくまでも彼自身の合理的な判断に基づいた行動だというのだ。だからこそ、そこには変な同情や、ねっとりとした好意といった、彼女が最も嫌うものが一切含まれていなかった。
「それでも、ジブン学園の試験を受けたっス。すぐは、無理でも、ちゃんと稼げるようになったら、お返しするっス。」
「不要だ。」
少年の即答には、一切の迷いや揺れがなかった。アリシャは少し困った顔になった。このような相手に対して、どう返答すれば良いのか、全く分からなかった。彼女の人生の中で、このような徹底した合理主義者と出会うのは、初めての経験だった。
少し考えた後、アリシャは新たな提案をした。
「じゃあ、せめて名前だけ教えてほしいっス。」
少年は、アリシャの言葉に、わずかに眉を動かした。それは、困惑というよりも、どこか面白がるような表情に見えた。
「ザイン。俺も学園は受験している。学園で会った時にでも、役に立ってくれればいい。」
その予想外の返答に、アリシャは思わず軽く笑ってしまった。
「ジブン、顔と名前を覚えるのは得意っス。ザインさん。覚えたっス。」
少年は、一瞬だけ考えてから、静かにうなずいた。短いやり取りの中に、最低限の情報だけが交わされた。それで、彼らにとっては十分だった。
「いずれ、また会うこともあるだろう」
そう言い残し、少年は再び歩き出した。そして、一度も振り返ることなく、帝都の雑踏の中へと消えていった。
彼女はその背中を、ずっと見送っていた。胸の奥が、何だかくすぐったくなるような、不思議な感覚に包まれた。
「……変な人だったっス。でも、悪人じゃなさそうっス。」
帝都に来て以来、ずっと感じていた、見た目や年齢だけで判断される不快感。しかし、彼は初めて、アリシャをその外見や年齢でなく、彼女の立ち居振る舞いや、信念の強さ、そして知識といった「中身」で評価してくれた人間だった。
彼女は、手にした装備を改めてしっかりと抱え直し、小さく、しかし確かな息を吐いた。
「……よし」
まだ何も始まってはいないけれど、あの学園で、きっとあの少年を見つけるだろう。そして、見つけたら、必ず話しかけるつもりだった。それは、一方的な感謝の気持ちからでも、借りを作らないという意地からでもない。もっと、冷静で、合理的な「損得」の問題だった。
正しく自分を評価してくれる人間を手放すのは、明らかに損だ。そして、その冷静な判断を下した自分自身を、アリシャは、心の奥で少しだけ誇らしく思ったのだった。新たな世界への扉が開いたような、そんな確かな予感が胸に満ちていた。




