外伝 白い影
「やっぱり……」
内心では、こうなるかもしれないと薄々分かってはいたのだ。それにもかかわらず、どこかで「ここなら違うかもしれない」と、淡い期待を抱いてしまった自分が情けなく思えた。この《グランツ工房》ならば、自分の外見ではなく、本質を、努力を、そして本当に求めているものを、ちゃんと見てくれるかもしれないという、ささやかな期待が、心のどこかに残っていたのだ。
彼女は、まるで言い聞かせるように、目の前の盾を見下ろした。確かに、その品質は素晴らしく、職人の技が光る逸品だ。しかし、だからといって、提示された値段の根拠は全く理解できなかった。彼女の頭の中では、品の価値と価格が釣り合わないという明らかな矛盾が生じていた。理屈を通せば、きっと相手も理解してくれるはずだと、最後の砦のように信じてしまったのだった。
「理由を聞いてもいいっスか?」
思ったよりも落ち着いた声が出た。内心で渦巻くざわめきや焦燥感を、外には決して出すまいと、必死に努めていたのだ。彼女の言葉に、男性の視線が、再び彼女の幼い顔で止まる。その視線が向けられたほんの一瞬で、アリシャは、彼が何を察し、何を決めつけたのかを、すべて理解した。
「あ……」
もはや、男性からの説明は必要なかった。アリシャは、その目をよく知っていた。まるで、冷やかしに来た、世間知らずの子供を見るかのような、侮蔑と諦めが混じった表情だった。胸の奥がほんの少し、氷に覆われたかのような感覚に陥ったが、ここで尻込みすれば、これまでの苦労が水の泡となり、また最初からやり直しになってしまう。アリシャは、震える指を伸ばし、その盾の縁を、軽く、しかし確かな意思を込めて叩いた。
「この盾は素材も加工も素晴らしいっス。でも、構造は完璧じゃないっス。実用性と技術を見ても二枚で二五枚くらいっス。もう一回、確認してほしいっス。」
彼女の声は、わずかに震えそうになったが、それを必死に抑え込んだ。この盾の製作者が、今目の前にいる店員ではないことは明白だった。彼女の経験上、腕利きの鍛冶師の多くは、自身の作品が正当な価値で評価されることを強く望むものだと知っていた。
もちろん、中には商人気質で、あえて高値をつける職人もいるかもしれないが、この盾からは、そのような作為的な匂いは一切感じられなかった。つまり、もしこの価格が、今対応している店員の独断によって決められたものならば、まだ交渉の余地が残されているはずだと、アリシャは一縷の望みを賭けていた。
アリシャの言葉を聞いた店員の眉が、ピクリと不快げに動いた。
「……随分と詳しいようだな。だが、残念ながら値段は変わらん。嫌なら、どうぞお帰りください」
それは、交渉の余地など一切示さない、断固たる拒絶の言葉だった。彼の表情は、先ほどよりもさらに硬く、冷たいものになっていた。
「ここも、おんなじ、だったっス」
アリシャは、心の奥底で静かに呟いた。彼女が本当に望んでいるのは、安くしてもらいたいという甘えではない。ただ、その品に見合った、正しい値段で買いたい、それだけだった。しかし、それを素直に言葉にしても、この店員には届かないだろうと感じていた。
店員の言葉は、さらにアリシャを追い詰めるように続いた。
「子供の遊びに付き合う暇など、私にはない。さっさと決めろよ。買うのか、それとも出ていくのか」
その言葉は、まるで鋭い刃物のように、アリシャの胸の奥深くに突き刺さった。それは、幼い頃から何度も投げかけられてきた、見下すような言葉の響きだった。
わかっている。彼が自分の外見だけで判断していること、理不尽な値付けをしていること。そして、その理不尽さの構造を、痛いほど理解しているからこそ、その言葉は余計に胸を抉るように痛むのだ。
『子供じゃない』
アリシャの心の声が、静かに叫んだ。十四歳。帝国の法では、もう立派な成人の年齢だ。しかし、そんな彼女の正当な主張は、目の前の店員には全く届かない。どう考えても、彼女の幼い見た目から足元を見られ、不当に吊り上げられた価格だった。だが、一度店の人間が「これが正しい」と主張すれば、それがこの場における「正当な値段」として押し通されてしまう現実も、アリシャは理解していた。
逃げ出したい。
この場から一刻も早く離れてしまいたいという強い衝動が、彼女の全身を駆け巡った。このままでは、屈辱と絶望だけが残る。
それでも、アリシャの指先は、決して盾から離れようとはしなかった。その盾こそが、彼女の未来を掴むための唯一の希望だったからだ。
「正当な値段で買いたいっス。ジブンは銀貨三十枚っス。これ以上は、どんなに望んでも出さないっス。」
アリシャの声は、先ほどよりもさらに低く、しかし、その奥には揺るぎない決意が宿っていた。この言葉を言い切ったとき、彼女の胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。ここで引けば、それは自分の信念に負けるということだ。何に負けるのか、具体的なことは分からない。だが、決して負けたくはなかった。
「ならば売らん。出口は、貴方の後ろにある」
店員からの即答の言葉は、まるで冷たい壁のようにアリシャの前に立ちはだかった。その瞬間、店内の空気が一瞬で張り詰め、普段はさほど広く感じられない空間が、途方もなく広大で、孤独な場所に思えた。
ああ……これで、全て終わりなのか。結局、ここも他の店と、何一つ変わらなかった
アリシャは、悔しさのあまり歯を食いしばった。泣きたいわけでも、怒りを爆発させたいわけでもない。ただ、ただ、この理不尽な状況と、自分自身の無力さが、心底悔しかった。
その時、張り詰めた沈黙を破り、横から静かだが、しかし有無を言わせぬような声が差し込んだ。
「その価格設定では、いずれ客を失うことになるだろう」
アリシャは反射的に声の方を振り向いた。そこに立っていたのは、先ほど店内で見かけた、あの貴族の少年だった。彼がいつから自分たちのやり取りを聞いていたのかは分からない。ただ、彼の声には、アリシャに向けるような同情の色も、あるいは店員に向けるような軽視の響きも、一切含まれていなかった。
「この盾に一枚に銀貨二十五枚は、どう見ても妥当とは言い難い。品質を考慮しても、せいぜいその半分が相応な価格だろう」
少年は、まるで当然の事実を述べるかのように、淡々とした口調で言い放った。それは、まさにアリシャが心の中で感じ、しかし立場上、明確に言葉にすることができなかったことそのものだった。自分が見た目だけで軽く見られていると理解していたからこそ、アリシャは自身の考える適正価格よりも少し多めの銀貨を用意して臨んでいたのだった。少年の言葉は、彼女の目利きと判断が正しかったことを、客観的に裏付けてくれた。
アリシャの胸の奥で、何かが温かく揺れ動いた。それは、誰かに助けられたという、直接的な感謝の感覚とは少し違った。ただ、自分自身が、初めて、正しく見られた気がしたのだ。それがどれほど心に安堵をもたらしたか。その瞬間、長らく張り詰めていた心が解き放たれ、呼吸が格段に楽になった。
店員は、突然の横槍に苛立った様子で、少年に対し言い返した。
「あんたには関係のないことだろうが」
一瞬、彼の言葉遣いが乱れかけたが、それでも客である少年に対し、強気の姿勢を崩すことはできなかった。その表情には、焦りと動揺が入り混じっていた。
「関係、ある」
少年は短く、しかしはっきりと告げ、アリシャと店員の間にある見えない線を、まるで乗り越えるかのように一歩前に踏み出した。その堂々とした振る舞いは、言葉に一層の説得力を持たせた。




