第1章 魔王生まれ変わる
前世で圧倒的力を持っていた魔王。
その魔王が、上位の存在により転生させられた。
しかし、魔王も一矢報い女神の眷属と共にこの世界へと生まれ落ちる。
魔王生まれ変わる
その日は、まさに世界が荒れ狂うかのような一日だった。
空には『天帝雲』と名付けられた、稀に見る気象現象が発生し、その巨大な影が地上を覆い尽くしていた。
この得体の知れない雲が上空を通過する期間、太陽の光はその大半が遮られる。たとえ日中であっても、薄暗い影に包まれる。
世界はまるで黄昏の中に沈んだかのように、奇妙な静けさと共に不穏な気配を漂わせるのだ。そして、この雲が過ぎ去った後には、決まって非常に狂暴な性質を持つ魔獣が次々と姿を現す。
その魔獣たちによる被害は甚大で、時には国家間の大規模な戦争に匹敵するほどの災厄をもたらすこともあった。それゆえに、人々はこの日を「悪い予兆の日」として、深く恐れ、忌み嫌っていたのである。
まさにそんな日に、辺境伯夫人である妻は産気づいた。
人間の母体では到底コントロールできない、抗いがたい陣痛の波が押し寄せてくる。この尋常ならざる日の出来事と、出産という生命の神秘が同時進行する状況に、説明のつかない因果関係を感じ取らざるを得なかった。それは、まるで不吉な星の下に、何かが生まれ落ちようとしているかのような、根源的な不安感を掻き立てるものだったのだ。
そして、その予感は恐ろしいほどに的中した。
ようやくこの世に産声を上げたのは、このあたり一帯の広大な地方を統治するメフェリム辺境伯とは、似ても似つかない男の子であった。
長年の経験を持つ熟練の助産師でさえ、その赤子を目にした途端、言葉を失い、喉元で言葉が詰まってしまうほどの遺伝子の相違がそこにはあった。
辺境伯自身は、陽光のような美しいブロンドヘアに、澄み切った蒼白の瞳を持つ、絵に描いたような貴族の風貌をしている。そして、夫人の髪はより深い金色を湛え、肌は雪のように白く、瞳には黒を多く含んだ深い藍色が宿っていた。
しかし、産まれてきた赤子は、彼ら夫婦のどちらともかけ離れた、まるで異界から現れたかのような姿をしていたのだ。浅黒い肌に、珍しい白銀の髪の毛。その瞳は、今はこの世に慣れるかのように、固く閉じられているが、産声と共にこの世界を見た直後には、驚くほど淡いグレーの色をしていたことを、助産師は確かに確認していた。彼女の職業的な冷静さが、その一瞬だけは大きく揺らいでいた。
「奥様、おめでとう……ございます。ええ、間違いなく……元気な男の子ですよ。」
助産師は、絞り出すような声で、その言葉をかろうじて口にした。そこには、赤子の特徴を前にした、拭い去れない困惑と、それをどう伝えるべきかという重圧が滲んでいた。ベイオン帝国の社交界でもその愛妻家ぶりで知られ、普段は非常に温厚な人柄で通っているメフェリム辺境伯が、愛する妻が腹を痛めて産んだばかりの子を、ゆっくりと抱き上げた。だが、その腕はどこかぎこちなく、彼の口からは、意味をなさない「お、おぉ……」という呻き声が漏れるばかりだった。
妻が無事に難産を乗り越え、母子ともに健康であることに対する安堵の念。そして、我が子が生まれたという喜び。それらのポジティブな感情は、辺境伯の胸に確かに芽生えた。
しかし、それらは次の瞬間には、眼前に広がる赤子の姿と、そこから導き出される忌まわしい疑惑によって、あっという間に掻き消された。
この子は本当に自分の血を引く子なのか。
不義の子であることを疑わざるを得ない、暗く、どろりとした負の感情が、津波のように辺境伯の胸を駆け巡り、彼の心を深く蝕んでいく。
上の兄たちの時には、助産師がいくら頼んでも、我が子を手放そうとしなかった、小さな命。しかし、今回はその胸に抱いていた時間がほんのわずかだった。
彼はまるで熱いものを放り出すかのように、早々に赤子を助産師に手渡してしまったのだ。その行動は、彼の胸中に渦巻く、言葉にできないほど複雑で、かつ深い絶望を雄弁に物語っていた。
辺境伯の妻は、いまだ出産に伴う疲労の淵に沈み、現実をはっきりと認識できない状態だった。
あと1分も経たないうちに、その疲労の膜が薄れ、瞳を開いて、自身の産んだ新しい命を目にしたいと強く願うことだろう。
辺境伯は、妻がこの状況を目にした時に、一体どのような反応を示すのか、みたい気持ちは存在する。だが、それ以上に、この場に居続けることが彼自身の精神にとって耐え難い苦痛であった。
彼は、これまでの人生で一度もとったことのない、沈黙の「退場」という行動を選んだ。妻の反応を待つこともなく、言葉一つ交わすこともなく、その場を去っていったのだ。
ようやく重い瞼をこじ開け、かすむ視界の中に焦点を合わせることができた辺境伯の妻ーメフェリム・マティーニャの目に飛び込んできたのは、部屋を早々に退室していく夫のどこか寂しげな後ろ姿だった。
その不可解な行動に、彼女の明滅する意識の奥底で、小さな疑問符が灯る。
疑問に思いながらも、彼女は自身が産み落とした三人目の我が子を、震える手で受け取った。
いまだに混濁している意識の中では、目の前の赤子の尋常ならざる外見を、完全に理解するまでには至らない。 しかし、夫がこれまでの出産では決してとったことのない、異例の行動をなぜとったのかという疑問だけが、彼女の頭の中でぐるぐると回り続けていた。
だが、そんな思考も長くは続かない。出産に伴うあまりにも深い疲労が、彼女の思考能力を奪い、疑問を追及する力を完全に失わせていく。まるで意識が闇に引きずり込まれるかのように、我が子を抱き続けることも困難になったマティーニャは、落としてしまう前にと、かろうじて助産師とメイド長に愛し子を託すと、深い眠りに落ちていった。
「どう、いたしましょうか……このままでは、あまりにも……」
助産師の震える声に、メイド長は厳しい表情で答えた。
「どうと言われましても、この家の主である旦那様の意向を、まずはきちんと伺わねばなりません。我々が勝手に判断できることではありません。」
その場の使用人たちは、辺境伯の不可解な行動と、赤子の特異な容姿という、前代未聞の事態に直面し、戸惑いを隠せないでいた。
ただ、この家の主人が一切の言葉を残さずその場を去ってしまった以上、彼らが取るべき最善の策は、混乱をこれ以上招かないことだと判断した。ひとまず、この子は他の兄弟たちと同様に、通例通りに育てる方向で対応を行うことに、彼らは意見を一致させた。それが、一時的ながらも、この緊迫した状況を収める唯一の方法だった。
「どのような結論が、最終的に旦那様から下されるかは、現時点では不明です。ですが、まずは奥様の体調が最優先。その回復を鑑みて、後日、旦那様には今後の方針を改めて決めていただくことにいたしましょう。」
使用人という立場にある者が、主人の子供、ましてや血筋が疑われる子の処遇について、自らの判断で決めるなど、この時代においては論外であった。たとえその子が、不義の子であると断定されたとしても、使用人たちが主人の領域に踏み込み、思考し、行動することなど、決して許されることではなかった。それが、当時の社会における厳格な常識であり、絶対的な秩序だったのである。
そんな、メフェリム家にとっての歴史的大事件、そして誰もがその行く末を案じた混乱の渦中から、私が、いや、かつて魔王として君臨していた私が、新たに生まれ落ちたのだ。
「はうぅぅ。」
奇妙なほどに白銀の髪に、淡いグレーの瞳、そして褐色の肌を持つその赤子は、まるで古の記憶を辿るかのように、小さなため息をつくような音を、か細い口からこぼした。その音は、ただの赤子の泣き声というにはあまりにも深く、どこか遠い過去を思わせる響きを帯びていた。




