プロローグ5
プロローグ5
深い光に満たされた、ただ白だけが広がる空間の奥底で、一つの魂がゆっくりと、しかし確かな意識の芽生えを感じていた。それは、まるで深い眠りから覚醒すると同時に、かつて肉体を持っていた頃の、膨大な記憶の奔流が魂の奥へと流れ込んでくる。その全てを受け止めるにはあまりに唐突で、情報量そのものが意識を揺さぶる。
「ここは、死後の世界なのだろうか?」
かつて魔王と呼ばれた、今はただの魂となった存在は、その内部から発せられた問いかけに応じるかのように、周囲を探ろうと意識を広げた。しかし、視覚を司る器官が存在しないことをすぐに悟り、その行為が無意味なものだと理解する。五感と称されるあらゆる感覚は完全に失われ、この場所で身動き一つ取ることさえ叶わない。過去には死霊や降霊術によって現世に縛られた存在と遭遇した経験もあったが、ここまで広大で、かつ無機質な世界が広がっているとは、彼の知る限り聞いたこともなかった。
「こんな場所に来るというのなら、生前に少しでもこの手の話に耳を傾けておけばよかったか……。」
そんな後悔にも似た、あるいは焦燥感を伴うような一瞬の感情に包まれかけたが、すぐにそれは「くだらない」と内心で切り捨てた。彼にとって、感情の波に身を任せることは無益な時間の消費でしかなかった。それよりも、この先の状況をどのように乗り切るべきか、元魔王の魂は途方もない思考を巡らせ始める。
「仮にここが死後の世界だとして、これほどまでに記憶と意識が明瞭に残っているというのは、いかにも困った事態だ。」
もし、わずかでも移動を含む何らかの行動を起こせるのであれば、たとえそれが無意味な行為であったとしても、その無意味さを理解するまでの時間を、別の意味で有意義に過ごすことは可能だろう。むしろ、「死」が「無」を意味する方が、未だ救いがあるのではないかと、彼は純粋にそう思った。終焉には終焉としての形があり、その存在の停止こそが完全なる安息となる。しかし、この状態は、終わりなき始まり、あるいは、終わりなき停止のようだ。
「生前は死後の世界に関する宗教やその教義には、まるで興味も理解も示さなかったが、もしかしたら、本当に異なる世界というものが存在するのかもしれないな。」
そんな、今の状況を解決する上で全く無意味な問いに思考を巡らせていること自体、彼自身がよく理解していた。だが、心の中で一切の雑念を払い、無心になることは、思いのほか困難を極めた。かつて生きた世界で、途方もなく長い時間と感じていた数百年。もし、それ以上の時間を、このまま永遠に、何もできない状態で過ごすことになるのだろうかという、恐怖に近い漠然とした不安が、彼の魂をじわりと浸食し始めていた。しかし、その不安は、ほんの短い間に杞憂であることが判明する。
「ちょっと!やってくれたわね!」
その怒りに満ちた『声』は、聴覚を通じて入ってくる音とはまったく異なる、魂そのものを直接揺さぶるような感覚で彼の意識に飛び込んできた。それは思念伝達能力を持つ種族が用いる『テレパシー』とも趣を異にし、まるで魂の深奥に直接響くような、ある種の圧力のようなもので、その『声』のボルテージは、会話が進むにつれて徐々に、しかし確実に高まっていくのが感じられた。
「ちょっと!聞いているの!?あなたに話しているのよ!」
相手の怒りに満ちた言葉が脳裏に直接響く中、彼は瞬時に状況を分析しようと試みた。「聞こえていたとして、発声器官がないのであれば、こちらから声を出すことも出来ないはず……いや、待てよ?」そこまで思考した瞬間、彼は一つの重要な事実に気づいた。発声器官が存在しないのだから、声を出すことが論理的に不可能であるのは当然のことだ。しかし、この『声』が、聴覚器官である耳がないにもかかわらず、これほど鮮明に聞こえてくるということは、つまりどういうことなのか。
「そうよ。よく理解できたわね。」
その言葉は、彼の思考を読んで確認するかのように、さらに深く響いた。
「なるほど、ここでは思考するだけで相手に聞こえるのか。これは、実に厄介だな。」
深謀遠慮とまではいかないまでも、生前の彼は、一言一句を発するたびに、その言葉が自身の意図と合致しているか、矛盾はないか、あるいは相手に与える影響はどうかと慎重に確認してから会話を始めるのが常だった。特に、敵対者との交渉においては、言葉は最も鋭い武器となり、その選択には細心の注意が払われた。そんな彼にとって、自らの思考のすべてが、まるで透明なガラスのように相手に筒抜けになってしまうというのは、これまで経験したことのない、まさに非常事態であり、不便な現象だった。
「そんなことより、あの魔法はなによ!どうしてアタシまでここに来ているの!?」
『声』の主は、まるで彼の心中を見透かしたかのように、彼の思考の不満を一蹴し、本題へと問いを戻した。その質問は、まさに怒りに満ちた非難そのものだった。
「先ほど発動した魔法は、自身と同じ運命を共にするという、俺が独自に編み出した創作魔法の一つだ。ここが一体どこなのか分からない以上、確かなことは言えないのだが、俺がここにくる運命になったから、ここにお前もくることになったのだろう。」
そこまで説明した時、もし肉体があれば、まるで頭を下げるような心持ちで、彼は言葉を続けた。彼の魂は、目に見えぬが、深く頭を垂れるかのような感覚を覚えている。
「正常に魔法が発動してしまったことにより、不本意ながらここへお前を連れて来てしまったことについては、心から謝罪する。しかし、神とて、俺の世界に直接干渉してきた以上は、その反撃を受けることも覚悟の上だったのではないのか?」
「そんな覚悟なんて微塵もないわよ。大体、アタシは神様じゃないしね。執行者?そんなところよ。神様達は直接干渉しないから、アタシが間に入っていただけなのよ。」
「なるほど。神々の世界もまた、それぞれの役割や制約があり、一筋縄ではいかないということなのだな。」
彼は、新たな情報に、深く納得したような思念を返した。
「誰のせいでそうなったと思っているのよ。」
「俺のせいなのか?」
彼は、純粋な疑問を抱いて、もし頭があればかしげるであろう仕草を、魂の内で仮想的に行った。生前、神々に直接喧嘩を売ったつもりなど毛頭ない。確かに、肉体を失う直前、自身よりもはるかに強い存在との対峙を無意識のうちに切望していたことに、今になって気がついたのだが、それはあくまで、この『声』の主と対峙した“後”の話であり、それまでの彼の行動とは直接的な関係はないはずだった。彼は常に、自らの領土と存在を守るために行動してきたに過ぎない。
「ええ、そうよ。……(詳しい話は私も知らないけど、そういうことにしておかないと面倒だし)」
『声』の主の最後の思念は、意識の奥底でごく小さく囁かれ、ほとんど聞き取れないような音量だったが、彼にはなぜか鮮明に響いた。
「そうだったのか。だとしたらすまない。」
元魔王は、その言葉を素直に受け入れ、再び謝罪の意を示した。
「……あなたって、意外と謙虚?なのかしら。魔王と聞いていたから、もっと傲慢な存在かと思っていたけど。」
『声』の主は、彼のあまりにも率直な態度に、わずかな困惑と好奇心を滲ませた思念を返した。
「どうだろうな。自分でも正直、もう対等以上の存在に数百年も会っていないからな。ましてや、こんな風に言葉を交わすのは、まさに久方ぶりの出来事だ。」
彼は、かつて生きていた世界で、常に頂点に君臨していた。その過酷な環境下では、わずかな弱みでも見せれば即座につけ込まれ、誰かを頼ってしまえば、容赦なく利用されるのが常だった。常に孤独な戦いを強いられ、どんな困難も、その身一つで解決する必要があった。故に、彼の元来の性格がどのようなものだったのか、彼自身でさえ、長い年月の間に見失っていたのかもしれない。しかし、この一切の利害関係がない状況で、彼は無意識のうちに、本来の自分の一部を取り戻しつつあった。
「それで、この後はどうなるんだ?このまま、この真っ白な空間で、二人っきりなのか?」
「そんなわけないでしょ。アタシが行なったのは、あなたを止めようとした転生の秘術よ。この術を食らった者は、たとえ死を超越した存在であろうとも、その魂を別の生へと強制的に送られることになるのよ。」
「それは、さすが神の所業とでも言うべきか。あの時、いかなる防御系のスキルを駆使したところで、全く意味をなさなかっただろうな。」
魂そのものに干渉し、死すら超越して新たな生を与えるというその力は、不死の存在や、そもそも死という概念が存在しない次元の存在に対しても、きっと有効な手段なのだろう。
「この後は、あらかじめ設定されていた世界へ、私たち二人の転生が開始するわ。ここはその直前の、ほんの短い間の空間よ。あなたに相談、というか、この事態の責任を取ってもらおうと思って、ここに立ち寄らせたのよ。」
『声』の主の言葉には、どこか強い意志が感じられた。
「責任、と。それは、お前も俺の魔法の影響で、この転生の秘術の対象となってしまったことに対するもの、と解釈して問題ないか?」
彼が推測する限りでは、彼の放った名もなき『運命を強制する魔法』が、図らずも『声』の主までをも巻き込み、彼女自身が行使した転生の秘術の影響下に置いてしまったということだろう。彼の魔法は、文字通り、発動者の運命を周囲に強制する力を有していたのだ。
「そうよ。あなたのせいで、アタシまで見知らぬ別の世界に転生することになったんだから、当然、協力してもらうわよ。それも、最大限にね。」
『声』の主の言葉は明確だった。
「協力できる内容であれば、いくらでも力を貸そう。だが、具体的に何を私に望んでいるのか、すでに決まっているのか?」
元魔王は、協力の意思を示しつつも、相手の要求の具体性を求めた。
「ええ、もちろんよ。やって欲しいことは、いたって単純。アタシを、神にして欲しいのよ。」
その言葉が魂に響いた瞬間、元魔王の思考は完全に停止した。
「は? 頭がおかしいのかこいつは。」
「あっ、やべ。」
という心の声まで、まるで外に漏れ出すかのように、彼の魂全体に響き渡った。慌てて思考を停止させようと必死になった。やはり、心の内で思うすべての内容が、何のフィルターもなく筒抜けになってしまうというのは、いくら慣れない環境とはいえ、不便であることこの上なかった。
「まあ、別にそう思ってもらっても構わないわ。無理に理解しろなんて、アタシは言わないから。」
『声』の主は、元魔王の思念を読み取っていながらも、どこか諦めにも似た、あるいは達観したような態度で応じた。
「随分と寛容なのだな、お前は。」
元魔王は、素直にそう評価した。
「当然でしょ。この空間では、互いに一切の隠し事はできない。もし、相手の発言の一つ一つ、あるいは思考の断片にまで腹を立てていたら、それこそキリがないわ。」
『声』の主の言うことには、確かに一理も二理もあった。この特殊な空間にいる限り、人間関係における「建前」や「本音」といった複雑な駆け引きは、全く意味をなさない。すべてが丸裸にされ、隠しようがないのだ。だからこそ、表面的な取り繕いや、無駄な感情の起伏は、ただ疲弊を招くだけだろう。
無駄な警戒心が薄れ、より本質的な思考と反応が露呈しているかのようだった。
「それで?その神になるための方法というのは、具体的にどういう案があるんだ?」
元魔王は、現実的な話へと再び引き戻した。
「いくつかあるわ。一つは、信者の数ね。ただ多ければいいってものじゃないけれど、ざっと一億人ほど信者がいれば、まあ、いいんじゃないかしら。」
「い、一億だと……それは、あまりにも途方もない数ではないか?」
元魔王がかつて統治していた世界の総人口は、おおよそ一億数千万ほどだった。それも、人間種だけでなく、エルフやドワーフ、獣人といった多様な文化的知的生命体すべてを合わせた人数で、ようやくその域に達するのだ。そのような数の信者を有する信仰宗教など、彼は今まで聞いたことも、見たこともなかった。たとえ、戦争が絶えず、人口が倍以上も多かった、はるか昔の時代であっても、その常識は変わらなかったはずだ。
「んで?次の案は?」
元魔王は、最初の案を完全に無視し、次の選択肢を求めた。
「一つ目の案は、まさかのスルー?アタシとしては、それが一番簡単だと思うんだけど?」
『声』の主は、彼の反応に少々呆れたような思念を返した。
「そんなことはないだろう。一億人の信者だぞ?冷静に考えて、それはあまりにも非現実的で、ほとんど不可能に近いと言わざるを得ない。」
これから転生する世界がどのような世界なのか、元魔王には全く分からない。しかし、彼が数百年生きてきた世界での総人口に匹敵する、あるいはそれを超えるような人数を信者にする、ということを聞いて、安易に「簡単だ」と言い切ることは、彼の現実的な思考では到底できなかった。
「熱狂的に信じる必要はないのよ。そうね、ただアタシのことを認知して、少しでも理解して、共感さえしてくれれば、それで十分ね。そう、そこにいるあなたもよ。この画面でも、紙の媒体でも、なんでも大丈夫。次元の壁なんて、関係ない。応援してくれるだけで、アタシは十分だからね!」
突如、『声』の主は、元魔王以外の何か、あるいは誰かに語りかけるような言葉を発した。その言葉は、まるで彼の意識の向こう側にある存在に直接語りかけているかのように聞こえた。
「その言葉は、一体誰に対する、どういうものなのだ?」
元魔王は、その奇妙な発言の意図を測りかね、純粋な疑問を抱いた。
「少なくともあなたにではないから、気にしないで。」
『声』の主は、あっさりと答えた。その言葉が元魔王に対するものではないことは十分に理解できる。しかし、この真っ白な空間に、自分以外にも別の存在がいるのではないかという、奇妙な感覚に襲われた。
「改めて、二つ目の方法を聞こうか。」
元魔王は、先ほどの奇妙な感覚を一旦脇に置き、再び本題へと話を戻した。
「引き続き、そのように淡々と対応するのね。」
『声』の主は、彼の冷静さに、どこか呆れと感嘆の混じった思念を向けた。
「全ての選択肢を聞いた上でしか、適切な判断を下すことはできないだろう。これは当然の思考だ。」
「それもそうね。二つ目は、神器と言われる、かつてアタシが身につけていた七つの品を見つけ出すことね。あれがあれば、神々の権能、その一部ではあるけれど、力を行使できるようになるの。その所在は今でははっきりとはしていないけれど、人間のものではない、人外の品だからね。きっとすぐに噂になるわ。」
その言い方だと、神器がまだこの世界に存在していないように感じられたため、元魔王は疑問を投げかけてみた。すると、『声』の主は、彼らが転生する際に、それらの神器もまた、新しい世界のどこかの時間軸、特定の座標に出現することになるのだと説明した。それらはたとえ誰にも装備されていなかったとしても、世界に対するその影響力は凄まじく、周囲の環境や法則を大きく変容させてもおかしくないという。
「その神器を七つ使って、あなたをこの世界に連れてきたのよ。その全ての七つが揃えば、上界の存在である神々も、その状況を看過することはできないでしょ。強制的にあなたに目を向けさせるための、ある種の仕掛けよ。」
「なるほど、私が神々の怒りを買い、目をつけられたように、お前もまた、その神器を揃えることで、同じように神々の注視を引くようになると言うことか。」
下手をすれば、神々の意に反する者として、粛清の対象になりかねない危険な話である。しかし、元魔王自身が神々に干渉された時とは状況が異なる。その神器と呼ばれる、神々の領域に属する品々があれば、それらを観測した神々の方も、ただ一方的に排除するのではなく、何らかの異なる対応を取る可能性は十分に考えられた。もしかしたら、その神器そのものが、交渉の切り札となるかもしれない。
「最後は、希望と推測が多分に入るけれど、この世界の神様に直接会えれば、あるいは道が開けるかもしれない、というところね。」
「そういうことか。では、私の理解をまとめると、まず、その神器を可能な限り探しつつ、同時に信者を増やしていく。そして、その過程で、この世界の神様に出会えれば、それはもう御の字といったところだな。」
「話も早ければ、理解も早いのね。こちらとしては、それに越したことはないけれど。」
『声』の主は、彼の明瞭な理解力に感心した。むしろ、この何もない真っ白な空間にただ存在し、これからどのような世界へ行くのかが一切不明な状況で、明確な目的を持つことは、決して悪い話ではなかった。漠然とただ生きているだけでは、得られる結果も大したことはないだろう。それに、元魔王は続けた。
「それに、どの目標にしても、転生してすぐにどうこうなるような物ではないしな。腰を据えて取り組む必要がある。」
「……不思議なものね。こんなにも素直に、協力的な態度を見せられると、こっちが拍子抜けしてしまいそうよ。」
「そうだな。自分でも正直、ここまで冷静かつ素直に対応できていることに驚いている。」
肉体を失い、かつて魂の奥底にあった「死にたくない」という根源的な切望がなくなった今、まるで常に張り詰めていた一本の糸がプツリと切れたかのような感覚に襲われていた。彼は元々、特定の大きな目標や野望を持って生きてきたわけではない。ただひたすらに、己の存在を守り、力を高めるために、全神経を張り巡らせていたに過ぎない。だが、その必要ももうなくなった今、元魔王は、自分自身でも認識していなかった、本来の自分の一部を垣間見ているようで、その状況に戸惑いを感じていると言ってもよかった。
「ただ、こんな場所だ。ここで反抗的な態度でもとって、この空間に取り残されてしまっては、たまらないからな。それは避けたい。」
彼の言葉には、新しい状況への適応と、根源的な合理性が滲み出ていた。
「……(まぁ、もう転生は決まってるから、そんなことはあり得ないんだけどね。)」
『声』の主の思念は、彼の魂には不可能なほどの小さな、ほとんど囁きのような音量で漏れ出した。
「お前は、そうして小さい声で話すことが可能なのだな。」
自身の魂には決してできない、その微かな思念の動きを捉え、内容を完全に聞き取ることのできない言葉を発する『声』の主に、元魔王はわずかな不満を口にした。
「そりゃそうよ。この空間を構成するすべての要素が、アタシの領域内にあるんだからね。隠し事ができないのは、あなただけよ。」
『声』の主は、元魔王の不満を意にも介さず、涼しい顔で答えた。
不公平だと思わなくもないが、まあ、そんなものなのだろうな。それで、これで説明は終わったと見てよいか?行動方針は、今から行く世界とやらを実際にこの目で見て、その情報を理解してから具体的に立てた方が合理的であると思うのだが、一旦の目標として、まずは合流を目指し、その上で世界の理解を深めるということで、問題ないか?」
元魔王は、冷静に今後の進行を確認した。
「ええ、そうね。十中八九、あなたもアタシも、次の世界では赤子として産まれることになるわ。そこからすぐ合流できる範囲にいればいいけれど、そうでないのなら、まずはそれぞれの立場で世界の理解に努めるのが賢明ね。」
「ちょっと待て。赤子として産まれるのか?それでは、なんの情報もなしに合流など、ほとんど不可能に近いだろう。」
産まれる世界の広さ、文明の発展度合いによっては、世界の移動速度そのものに大きく関わってくる。情報が全くない状態で、しかも移動手段もままならない赤子の身では、広大な世界のどこかにいる誰か一人を探し当てるなど、想像を絶する困難を伴うだろうと、元魔王は即座に結論した。
「それこそ、お前がかなりの数の信者を集めるまでは、互いを認識することもままならないだろうに。」
「そこはほら、例えば、新しい世界で最も高い建物に、十五歳の時に会うとかは?」
『声』の主は、まるで子供のような、やや現実離れした提案をした。
「産まれる時期が同一である保証がないのであれば、時期を限定するのは得策ではない。では、時期は限定せず、世界で最も高い建造物を目指す、という方向でいこう。その上で、共通の暗号などがあれば、より確実性を持たせることができるはずだ。」
「なら、アタシの上界での呼び名ね。この世界では、その存在すら認識されていないから、偶然同一の名称がない限りは、確実にあなたに伝わるはずよ。」
新しく生を受ける世界の情報が一切ないこの状況で、どれだけ綿密な計画を組んだとしても、何かの拍子に、あるいは環境の変化によって、一瞬で瓦解する可能性は極めて高かった。
「その可能性を完全に排除できないうちは、ある程度融通の利く、大まかな目標で問題ないだろう。まずはその方向性で、考える他ないな。」
もし、全く異なる時間軸、ないしは、物理的に(文明的な意味での)交流不可能なほどの距離に生まれ落ちてしまえば、その瞬間に、今決めた約束事のすべてが無意味になってしまうだろう。それでも、現時点での最善策はこれしかなかった。
「そろそろ、転生が始まるわね。」
唐突に『声』の主が、その瞬間を告げた。すると、視覚などないはずの元魔王の魂にも、周囲の光量がさらに増している感覚が、まるで意識の奥底に直接流れ込んでくるかのように感じられた。それは、まるで世界が、あるいは次元そのものが、彼自身を取り込もうとしているかのようだった。
これが、意識が完全に保たれた状態での誕生というものなのか、それとも、全く別の世界から生を受ける「転生」という現象特有のものなのか、彼が判断する手段はなかった。だが、彼はこの決定的な瞬間を前に、再び今後の方針について、自身の中で一つ一つ再確認を行った。
「……世界のことを学びつつ、最も高い建造物の情報を収集する。そして、その周辺でお前の、上界での呼び名を広め、合流を目指す。合流後は、今までの情報をもとに、お前が信仰的対象となりつつ、世界に点在する神器を探し出す、ということでいいんだな?」
「ええ、そうよ。アタシの名は『シア』。下の世界でどう呼ばれるかは分からないけれど、この名を広めなさい。それが、私を見つける唯一の手がかりになる。」
「シア、か。承った。必ず見つけ出すとしよう。新たな世界で、必ず。」
元魔王の言葉には、強い決意が込められていた。
「良い心がけね。アタシも必ず見出してみせるわ。あなたという存在を……。」
これで、行動の方向性は決まった。生きる目的も生まれた。しかし、その上で生きる『人生』と呼べるものが、一体どのようなものになるのか、元魔王には全く想像がつかなかった。もしかしたら、それは決して良いものではないのかもしれない。彼は以前の世界で、定められた運命のレールから離れることができず、苦悩に満ちた生を送った英雄を何人も見てきた。しかし、同時に、自身に与えられた使命に対して、全身全霊を捧げることの、圧倒的な輝きも知っていた。であれば、今、自身に待ち受けるものがどのようなものになるか、今は全くわからない。
「しかし、そこに希望を見出さずして、今、一体どうする、というのだ。」
漠然とした不安はもちろんあった。だが、その不安以上に、新たな生に対する希望が、元魔王の魂には今、満ち溢れていると、彼は確信を持つことができた。それは、彼自身が予想だにしなかった感情の昂ぶりだった。
さらに周囲の光が、もはや耐え難いほどに強くなったのを感じる。この白い空間にどれほどの時間居たのかは分からないが、彼の体感では、ほんの一瞬の出来事であったように感じられた。次の瞬間、意識は光に飲み込まれていく。
「……一応伝えておくけれど、この世界に転生する、あなたとアタシのステータスはもう確定しているの。あなたは人間で、アタシは神人ていう種族。見た目に一切差はないから、生活圏はほぼ同じと言っていいわ。」
光に飲み込まれる直前、シアの思念が再び届いた。
「今更、追加の説明か。……それで、肝心なところだけ、簡潔に話してくれ。」
元魔王の魂にまで届くその言葉は、まるで光に引きずり込まれる彼の意識に、最後の楔を打ち込むようだった。全知ではない彼の魂にだって、ある程度の状況は理解できる。この光の強まり具合から察するに、前世の体感時間で言えば、もはや10秒もなく、『声』の主とはしばらく会うことはできないだろう。そんな極限の状況で、これ以上、心に不安要素となるような情報は可能な限り受け取りたくない、と本能的に思えるのは、彼の中にわずかに生まれつつある「人間らしさ」の断片なのかもしれなかった。
「それでね、そのステータスの決定は、転生の秘術が発動した瞬間に決めてたんだけど、あなたが介入してきた所為で、ちょっと中途半端になっているのよね。」
シアの声は、どこか申し訳なさそうに響いた。
「はい?」
元魔王の、驚きと混乱が混じった疑問の言葉は、既に強制的に始まった転生の影響で、広大な世界に響くことはなかった。しかし、この空間そのものと表現された『声』の主の言葉は、そのあと数秒間、彼に直接響き続ける。
「種族の変更や、レベルの喪失に伴うスキルの封印、もしくは消失は成功したんだけど、肝心のステータスはね、中途半端な変更になっちゃってるの。」
「それで、あなたの魔力は元の世界のまま、膨大な量を保持している。その影響で、新しい世界のシステム上でステータスが壊れちゃってるから、ほぼステータスと呼ばれる数値の変更は今後一切起きなくなるわ。だから、よろしくね。」
もし『声』の主に肉体と呼べるものが存在し、元魔王に視覚器官が存在していれば、その時、彼はきっと、「やっちゃった」と言わんばかりの、いたずらっぽく、しかし申し訳なさそうな表情を浮かべた彼女の姿を目にしたことだろう。
『声』の主曰く、元魔王が放ったあの魔法の所為で、このような歪なステータスになってしまったとのことだが、それは今は差し置いて、元魔王の魂は、心の底からこう叫びたい衝動に駆られた。
この駄女神が!と。
この瞬間、元魔王は魂に刻む。この『声』の主に会ったときは『自称女神』をつけ敬意を示そうと。




