目線
試験会場へと続く白い学院の壁の影が、朝陽を浴びてわずかに金色に染め上げられていた。
街路には、数えきれないほどの受験生たちのざわめきが広がっている。その喧騒の中、ザインとリゼリアの対話だけが、外界の騒がしさから切り離された、透明な泡の中に閉じ込められているかのように見える。
テレシアは、二人が立つ場所から少し離れた位置で、その光景をただじっと見つめる。物理的な距離としては、せいぜい十歩もないだろう。
それなのに、そこに立つ二人と自分とのあいだには、細く、しかし硬質な透明な壁が立ちはだかっているように感じられた。
その壁は音を完全に遮断するわけではないが、彼女が彼らの領域へと踏み込むことを、頑なに拒んでいるようだ。
ザインの横顔は、朝の柔らかい光を受けても、一切の表情を変えることはない。落ち着いた、どこか冷徹な線で形づくられたその輪郭は、まだ少年と呼べる年齢でありながら、既に大人びた静けさを漂わせていた。対するリゼリアは、正面から彼の銀色の瞳を真っ直ぐに受け止めている。背筋はピンと張られ、指先は胸の前で丁寧に揃えられている。
ふたりの間に漂う緊張感は、決して言葉に出されることはないが、静かで、しかし確かに触れることのできるような形を有している。
テレシアは、その張り詰めた空気に踏み込む勇気を最後まで持つことができず、ただ遠くから観察する自分を、ひどく意識した。
リゼリアの声が、朝の澄んだ空気を震わせる。
その声音は、先ほどの怒りの色をいくらか失い、代わりに深く沈んだ悲しみの色を帯びていた。
「本当に……ユリアのこと、覚えていなかったのですか?」
その問いかけは、ザインへの非難というよりも、彼女自身の心の奥底から湧き上がる、抑えきれない悲痛な響きを帯びていた。テレシアの胸が、その言葉を聞いて少しだけ疼いた。問いの内容そのもの以上に、リゼリアの声の震えが、テレシアの心を直接的に痛めつけたからだ。
ザインは、その問いに対して、即座には反応しない。
一拍の、重い沈黙が流れた。それは思考を停止している空白の時間というよりは、目の前の少女の感情に対し、最も適切で嘘偽りのない言葉を選ぶための、静かな熟考の時間のようにテレシアには見える。
「思い当たらなかった。しかし――存在は認識している。」
簡潔な返答だった。
先の言葉と同様に、説明も言い訳も付け加えられていない。しかし、その飾らない言葉の奥には、軽薄さや無関心は微塵も感じられなかった。彼の言葉は、常に真実だけを追求し、余計なものを削ぎ落とした、彼の本質。
彼は、リゼリアやユリアの存在を軽んじているわけではない。ただ目の前で起こる事象を必要な情報だけ厳密に処理し、そこに個人的な感傷を混ぜ合わせない、というだけ。だからこそ、その純粋すぎる正確さが、感情を持つリゼリアには鋭い刃物のように深く刺さる。悪意がなくとも、ときに人を傷つける力を、彼の言葉は持っていた。
リゼリアの肩が、再びわずかに震えた。怒りなのか、羞恥心なのか、あるいは先の言葉への深い悲しみなのか。テレシアには、そのすべての感情が少しずつ混ざり合って、彼女の内に渦巻いているように見えた。
“ユリア”という存在が、リゼリアにとってどれほどかけがえのないものであるか――それを想像するまでもない。その名前が彼女の口から出るたびに、テレシアは二人の間に流れる深い絆を感じ取っていた。
ザインは、そんなリゼリアの微かな揺れを、希少な標本を観察するかのように、じっと見つめているようだった。彼の視線は感情そのものに深く踏み込むことはないまでも、常に誠実さが向けられていた。
そこでふと、テレシアの胸に静かな痛みが走った。リゼリアへの共感と、彼女自身の心との、複雑な交錯から生まれたものだった。
――こんなふうに、自分の感情をまっすぐ、何の躊躇もなく外に出せる人が、少しだけ羨ましかった。怒っているなら怒っていると、はっきり言葉に乗せて表現できる。悲しいなら悲しいと、その思いを瞳の奥に滲ませることができる。
自分には、そのどちらもひどく難しい。心の奥底で燃え盛るような強い感情があったとしても、それを言葉や表現で外に出す術を、彼女はほとんど持っていなかった。言葉にしようとする前に深い躊躇や不安が生まれ、結局その感情は心の奥に閉じ込められてしまうのだ。
テレシアは、自身の足元に広がる石畳に視線を落とし、荒れ始めた呼吸を静かに整えようと努めた。だが、再び顔を上げたそのとき――ザインがわずかに表情を動かした、ほんの一瞬の変化に出くわしてしまった。
彼の眉が、ほんの小さく、しかしはっきりと寄る。
それは、単なる驚きではない。
戸惑いでもない。
テレシアには、それが彼の内側で行われた“計算の修正”であるかのように見えた。目の前の少女の感情の揺れを、これまで彼が持っていたデータと照らし合わせ、その予測をもう一度やり直したような、そんな表情。
テレシアは、その表情を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
彼は、リゼリアやユリアを単なる“道具”として見ているわけではないだろう。しかし、彼が彼女たちを認識しているのは、紛れもなく“戦力”としての、その最適な活用法や能力を見極める視点。リゼリアはすでに、その“戦力”の枠の中に、確実にその存在を置いている。
自分には――まだ、その“戦力”としての価値も、彼に認識されるほどの何かも、何一つ持っていない。
その残酷な事実が、体内の温もりを急に奪い去っていくかのように、テレシアの全身を冷やしていった。
テレシアは、胸の奥で小さく、重い息を吐いた。その息は、朝の冷たさの中にあっても白くはならない。今は、寒くない朝なのだから。それでも、彼女の心の奥底だけは、真冬の氷のように冷え切っていた。
「……気を悪くしたのなら、謝る。」
ザインが、わずかに間を置いてそう言うと、リゼリアはぎゅっと唇を噛み締めた。まだ怒りの感情が完全に消え去ったわけではないことが見て取れたが、彼の、一切の感情を排した誠実な言葉は、彼女の心の奥底に確かに届いたようだった。
「……いえ、謝罪を求めているわけではなくて……ただ、その……」
リゼリアは、それ以上言葉をうまく結べず、視線を再び足元に落とした。風に揺れる桃色の髪が頬に優しくかかり、その影が複雑な表情をそっと隠す。その不器用で、しかし素直な感情の揺れが、テレシアの胸を締め付けるように刺さった。
――私とは、違う。
リゼリアは、決して人と話すのが得意なわけではないだろう。それでも彼女には、誰かのために、あるいは自身の信念のために、自ら進んで歩み寄る強い力がある。それは、テレシアが最も持ち得ない、彼女との決定的な違いだった。自分には、その勇気が、どうしても足りない。
テレシアの胸が、硬く縮むような感覚に襲われた。息を吸い込むたび、肋骨の奥がひんやりとする。その冷たさは、彼女自身の心の冷えと、募る自己嫌悪の現れ。
テレシアは、そんな自分の内側で渦巻く感情に気づきたくなくて、わずかに視線をそらした。その瞬間、視界の端で、ザインがふと、こちらを振り向いたのが見えた。
――目線が重なる。
距離が離れているせいで、彼の銀色の瞳と自分の瞳が本当に合ったのかどうかは分からない。だが確かに、彼の視線が、ほんの一瞬だけ、こちらの方向をかすめたのを感じた。
その一瞬だけ、テレシアの胸の奥がほんのわずかに熱を帯びた。息が詰まるほどの激しい熱さではなく、針の先でそっと触れられたような、ごく小さく確かな温もりだった。彼の視線が、本当に彼女を捉えたのかもしれないという、淡い期待から生まれたものだった。
気づかれたくないのに、どうしようもなく目で追ってしまう。そして、そんな風に彼を追ってしまう自分自身に気づいて、また胸が深く傷つく。そんな堂々巡りの感情を胸の中で繰り返しながら、彼女はそっと、まぶたを伏せた。




