予鈴
しかし、その瞬間だった。
それまで静かに流れていた周囲の空気が、何かにざわめくように揺らぎ、軽やかな足音が、彼女の躊躇する一歩に割り込んできた。
石畳に響く軽い靴音だった。けれど、そのリズムには、一切の迷いを許さない、研ぎ澄まされた刃のような鋭さがあった。
テレシアの視界の端から、一人の少女が、鋭い線のように前へ向かって飛び出してきた。
美しく結い上げられた桃色の髪。
細く、しかしまっすぐに伸びた背筋。その迷いのない歩みは、目標に向かって一直線に放たれた剣の軌道のようだった。
何の躊躇もなく、彼女はザインの前に躍り出た。
テレシアは、その場でぴたりと止まった。
止まるしかなかった。
彼女の放つ勢いは、こちらのわずかな躊躇や決意の芽を、一瞬で塗りつぶしてしまうほど強く、そしてまっすぐだったからだ。
リゼリアと名乗るその少女の声音は、微かに震えていた。しかし、震える声にもかかわらず、ザインの前に堂々と出るその行動だけは、誰が見ても強く、はっきりとしていた。
その震えは、決して弱さではなく、むしろ強い決意の裏返しであるかのようだった。
「その……あの……魔法使いの試験会場、こっちで合ってますか……?」
その問いかけに、ザインは一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。彼の銀色の瞳の奥に、ほんの一瞬、遠い記憶を探るような微かな気配が宿ったのを、テレシアは見逃さなかった。
リゼリアの、その必死な表情に気づくと、テレシアの胸が締めつけられるような痛みを覚えた。彼女の瞳には、ザインにどうにかして届こうとする、必死の意志が宿っていたからだ。
それは、まさに“あの日”、自分自身が出せなかった、しかし心の中では何度も叫びそうになった言葉を、彼女が今、代わりに発しているかのようだった。
ザインは、その問いに対して、一切の感情を交えず、短く答える。
「ああ。合っている」
その返答は、必要最低限の言葉であり、余分な装飾が一切なく、ただ正確さに徹していた。しかし、その飾らない、あまりにも正確すぎる言葉こそが、テレシアの胸に、拭い去れない痛みを残すのだった。そこに、彼女が求めていたような温かさは微塵もなかったからだ。
リゼリアの肩が、微かに震えたのが見えた。それが、極度の緊張によるものなのか、それとも期待していた反応が少しだけ外れてしまったことによる失望なのか、テレシアには判断がつかなかった。
テレシアはもう、声をかけることができなかった。ここに、自分が入る余地など、もはや一片たりとも残されていないのだと、残酷なまでに理解してしまったからだ。二人の間に流れる空気は、すでに完成された世界のように見えた。
ただ、遠くから見ていることしかできない。その無力感に、テレシアの胸の奥が、静かに、ゆっくりと沈んでいくのを感じた。
ザインの視線が、再びゆるやかに流れ、その中に彼女の姿がほんの一瞬、映ったような気がした。けれど、それは彼にとって、単なる“確認”でしかなかっただろう。
すでに彼の意識の優先順位は、リゼリアの存在へと完全に移っている。リゼリアが先に声を発したという、そのたった一つの事実が、二人の世界とテレシアの世界をはっきりと仕切ってしまっていた。
遠くで、厳かな学院の鐘の音が響き渡る。試験開始を告げる、予鈴だった。その音は、テレシアの心の沈黙を破り、現実へと引き戻す。
風が静かに動き、ザインの白い髪が、ゆるやかに揺れる。
その瞬間、世界全体が、まるで彼の白い髪の揺れに合わせて一斉に動き出したように見えた。テレシアは、その大きな流れの外側で、ただ小さく、静かに息を吐くしかなかった。その息には、諦念と、微かな希望が、混じり合っていた。




