もう一歩だけ
朝というものは、いつも決まった温度を持つものだと、テレシアは心のどこかで深く思い込んでいた。
子供の頃から彼女を包み込んできた世界が、常に一定の規律と、予測可能な冷たさで自分に接してきたからだろう。家の分厚い外壁を撫でていく風の硬さをそっと確かめ、その指先に伝わるいつもの冷たさに安堵する。ああ、今日も世界は自分に特別な期待を何も抱いていない――そう静かに確信できる瞬間だった。その穏やかな無関心こそが、彼女にとっての小さな安心だったのだ。
けれど、その日――人生の大きな節目となる入学試験の朝は、どこか今までとはまるで違っていた。空気が薄いと感じる。肌の表面に、透明な硬い板にそっと触れたような、それでいて少しだけ乾いたような感触が張り付いて残る。これまで感じたことのない微かな抵抗感だった。
手にした布製の鞄の重さは、いつもと寸分違わない。昨日の夜、丁寧に結び直した靴紐も、しっかりと足元を支えているはずだった。それなのに、一歩を踏み出した瞬間、自分の歩幅がまるで誰かから借りてきたかのように、ひどくぎこちない。地に足が着かないような不安な感覚に襲われた。
“あの日”から、彼女は呼吸の仕方を忘れてしまったのではないかとさえ思うほど、不自然な空白の時間が心を占めるようになっていた。深い水底に沈んだ息のように、その空白はときに重く、ときに痛みを伴った。
四年前の夜の、あの鮮烈な出会いをいまでも克明に覚えている。その感情は、まるで底なし沼のように沈殿し、薄まるどころか、心の奥底へ沈んでいくたびに、いっそう濃厚な色彩を帯びていった。彼女の知る感情とは違う、まるで新たな種子を植え付けられたような、不気味なまでの存在感を放っていた。
今日、試験会場へと向かう足取りが、これほどまでに普段とは違うのは、きっとそのせいだろう。もっとはっきりと言葉にするならば、期待と不安という相反する二つの感情が、喉の奥で激しくぶつかり合っているからに他ならなかった。
――また、あの人に会えるかもしれない。
そんな考えがふと脳裏をよぎるだけで、鼓動の速さがこれまでとは比べ物にならないほど劇的に変わる。胸の奥で暴れる心臓の音が、まるで他人事のように響いた。感情というものは、本来もっと穏やかで、扱い慣れたものであるはずだ。予測可能で、制御しやすい。そんな存在だと信じていた。けれど、ザインという名の存在に関しては、すべてが彼女の常識に馴染まない。彼の前では、自分の感情の反応のタイミングがいつも一拍遅れ、明確な理由も分からないまま、胸の奥には形容しがたいざわつきが残るのだった。
学園へと向かう石畳の街路は、試験当日らしい、どこか浮き足立った気配に包まれていた。朝陽がわずかに顔を出し、その柔らかな光が淡い朝靄を金糸のように染め上げていく。石畳に受験者たちの靴底が触れるたび、薄い朝靄が音もなくほどけて、静かに空気の中に溶けていくようだった。テレシアは、普段よりも意識して背筋を伸ばし、胸の前で指先をそっと絡めた。この仕草は、いつの間にか身についてしまった癖で、強い緊張を誰にも悟られたくないときに限って、自然と出てしまうのだった。
視界の両脇では、同年代の受験者たちが一様にそわそわとした足取りで歩き、友と楽しげに話し、あるいは緊張を解きほぐすように笑い合っている。誰もが今日という日を、自分の生の行方を決める大きな節目だと感じている――その活気ある輪の中に、自分だけがすっぽりと入り込めていないことを、テレシアは薄く、しかし確かな痛みのように自覚していた。彼女自身が望んで孤立を選んだわけではない。ただ、言葉をかけるという、ごく自然な行為が、彼女にはひどく困難だったのだ。彼女の言葉はいつも、心の中で何度も形を変え、結局口に出されることなく消えていくことが多かった。
けれど、今日は違った。その喧騒と雑踏の奥に、彼女は無意識のうちに、あの“白い影”を探している自分がいることに気づかされた。それは、彼女の理性とは別の、本能的な衝動だった。
探すつもりなんて、本当はなかったはずなのに。学園に入学さえすれば、いつだって会えるのだから。あれほどの魔道才能を持つ者であれば、すぐに頭角を現し、誰もがその名を知る存在となるだろう。それは、自分自身も同じことなのだから。ただ、彼と話したいことは山のようにあった。心の中で積み重なった疑問や、深く議論したいと願うテーマで、彼女の頭の中は溢れていた。
石畳の曲がり角に差し掛かると、不思議と空気の密度がわずかに変わるのを感じた。“彼がいる”と分かるのは、単に人の気配を感じるというよりも、むしろ天候の変化に近い直感的なものだった。一度肌を撫でて去っていった風が、また戻ってきたような、そんな独特の感覚。
テレシアは無意識のうちに歩幅を狭め、角を曲がる直前で、ぎこちない呼吸をそっと整える。どんな顔をすればいいのだろう。どんな言葉を用意しておくべきなのだろう。考えを巡らせても、明確な答えは一向に出なかった。それでも、何の準備もせずに彼の前に臨む勇気もまた、彼女にはなかった。
四年前のあの偶然の遭遇が、ほんのわずかではあったが、確かに彼女の内側を変えたのだった。自分以外の誰かに触れ、そして触れ返されたという確かな記憶が、まるで冷めない火種のように、テレシアの胸の奥で静かに、しかし熱く燃え続けていた。
名前をまだ知らなかった頃から、ザインに関する噂だけは、彼女の耳にも届いていた。
“メフェリム家の三男が、今年になってようやく受験に戻ってくる”と。
名家の出でありながら、軍役にも加わらず、社交の場にもほとんど顔を出さない。それなのに、成績と成果だけは異常なまでに残していくという。その噂は、まるで伝説のように語られ、時に虚構なのではないかとさえ思わせるほど、ザインという存在は彼女にとって遠く、手の届かない場所にあった。
どうして、彼はあんなにも静かな目をしていたのだろう。
どうして、自分の挙動の一つ一つが、あの目の前ではひどくぎこちなく、不自然になってしまうのだろう。
――あれは、決して恐怖感ではなかった。
本当に怖いのはむしろ、自分の方なのだ。心の奥底で感じ取ったこの感情を、未だに言葉で名付けることができずにいる、そんな曖昧な状態の自分が。
テレシアは、一歩ずつ慎重に歩を進める。薄い緊張感が、透明な膜のように喉の奥に張り付いていた。学園の威厳ある白壁が、朝陽を浴びて淡い金色に光り始めるのが見えた頃、彼女は道の先に、一瞬にして視線を鋭く奪う、ある特別な影を見つけてしまった。人並みの中に混じっていながらも、明らかに周囲とは異なる、独自の温度を持つ人間がそこにいた。
人々の群れの中央、ただ静かに立っているだけで、まるでそこに光が集まるような、圧倒的な存在感を放っていた。その姿に視線を向けた瞬間、“見つけた”という言葉が、テレシアの頭の奥で大きく響き渡った。
ザイン。
四年前の、あの出会いの姿と大きく変わらない。
あの頃の不思議な雰囲気をより研ぎ澄ました存在が、そこにあった。
彼の周囲だけ、空気の密度が違って見える。もちろん、本当に物理的な密度が違うはずはない。それでも、理屈や科学では到底片付かない、そうとしか表現しようのない感覚というものが、この世界には確かに存在するのだと、テレシアは肌で感じていた。
テレシアの足が、自然とぴたりと止まる。まさか、これほど早く、あっけなく彼を見つけてしまうとは、まるで想定していなかった。彼を見つける準備など、これっぽっちもできていなかったのだ。
――声、かけるべきだろうか。この、あまりにも不意打ちのような状況で。
テレシアは、胸の前でそっと絡めていた指先を、今度はぎゅっと強く結んだ。
いける、今ならきっと話しかけられる――そう強く心に念じた瞬間、彼女の歩幅が半歩ほど、自然と、しかし力強く広がった。ほんのわずかな前進だったが、彼女にとっては大きな、確かな一歩だった。
けれど、彼に向かって広がり始めたその歩は、決して小走りになることはなかった。急いで近づけば、この繊細な瞬間が、あるいは彼女自身の勇気が、もろくも壊れてしまうのではないかという、理由のない直感が彼女の心を支配していた。
ザイン自身も、急いでいるようには全く見えない。彼の周囲を流れる時間は、まるで他の受験生たちとは異なる速度を持っているかのようだった。だから、ゆっくりと、しかし確実に彼との距離を詰めていくことが、まるで許されているような、そんな不思議な感覚がテレシアを包んだ。
ザインとの距離が、ようやくわずかに詰まりはじめた、まさにその瞬間だった。
胸の奥が、再びひどくざわめく。期待と不安が複雑に絡み合い、彼女の心臓を強く締め付けるような感覚だった。けれど、一歩前に出るための最後の勇気は、なぜか簡単には湧いてこなかった。目に見えない深い沼に足を取られたかのように、体が思うように動かない。
ただ、今回は違った。
“あの日のように、また見送ってはいけない”という強い思いが、彼女の心の中で確固たる決意として根付いていた。あの日の後悔が、今、彼女を突き動かす原動力となっていた。
彼は、彼女の世界の枠をはるかに超え、遠い外側へとそのまま歩き去ってゆくような、そんな存在だ。もしこのまま触れずにいれば、いずれ二度と手の届かない場所へ行ってしまうかもしれない。そんな漠然とした、しかし強烈な予感が、テレシアの心を駆り立てていた。
だからこそ、今ここで、声を出さなければならない。この一瞬を逃してはならないと。
ふと、彼の銀色の瞳が、まるで風に揺れる水面のように、こちらの方向へわずかに揺らいだ。それが、彼女の姿を“見られた”のか、それとも“無視された”のか、テレシアには判断がつかなかった。ただ、その視線の微かな動きだけで、彼女の足先に、張り詰めた力が宿るのを感じた。
――今だ。今しかない。この一瞬を逃せば、永遠に後悔するだろう。
そう強く心に思い、テレシアは意を決して、もう一歩を踏み出した。




